2012年5月4日金曜日

本能寺の変は防ぐことはできなかったのでしょうか?

本能寺の変は防ぐことはできなかったのでしょうか?

織田信長を冷酷、非道な人物として、扱われることが多いですが、本当にそうでしょうか?

比叡山延暦寺の焼くうちにしても、政教分離の原則から当然な行動ではないでしょうか?

この当時、世界では政教分離という考えがなかったかもしれませんが、それを実施しようとしたの織田信長ではないでしょうか?

軍の移動を容易にするために街道の整備を行ったのも経済の活性化にもつながったと思われます。

形だけの日本のトップを天皇家にするのを廃止しようとした行動は近代的な考え方だと思います。

日本が大きく変わろうとした時に、なぜ、既得権の行使の為に明智光秀は謀反を起こしたことは残念でたまりません。

この事件がなかったら、日本の歴史を大きく変わり、世界の歴史も大きく変わったのではないでしょうか?

秩序ある日本に戻そうとした明智光秀と、革命を起こそうとした織田信長の思いの違いが事件のきっかけになったのでしょうか?

日本をよい国にしようという思いは一緒だったと思いますが、このすれ違い思いを何とかならなかったのか、残念でなりません。

織田信長の死によって、優秀な武将は皆亡くなりました。

猛将 柴田勝家、佐々成政、滝川一益など、失ったのは大きかったと思います。



なぜ、日本人は優秀な天才な人間を死に追いやるのでしょうか?

もし、仮に織田信長が現在に生きており、日本の総理大臣になれたら、日本は変わるかもしれません。







●本能寺の変は防ぐことはできなかったのでしょうか?



できたかもしれませんが、それは「下克上」政策の停止を指します。



「信長」は「尾張」から領土を拡大する過程で

「明智光秀」など浪人や国人衆といった新参者を多く雇い

それらに「下克上」という成り上がり政策を推奨し鼓舞しました。



その中で「織田家筆頭格」となった「明智光秀」は

順当に「天下」「大名格」を狙い「信長」を殺した自然の流れです。



流れを止めるには「過度な貨幣経済政策」を止め

「朝廷」から離れるなど「堺、京都」から拠点を移し

また「織田信忠」など子息に

「権力、権威」を譲渡し早い段階で「織田家主体」の政治に

切り替えれば殺害されずに済んだかもしれません。



「鎌倉幕府」「江戸幕府」などはこうして長期政権を

保っています。



●織田信長を冷酷、非道な人物として、扱われることが多いですが、

本当にそうでしょうか?



現代感覚では、色々語れますが、実際当時の資料で

「信長」は残虐非道と書かれることが多く

とくに「比叡山焼き討ち」「越前一向一揆」の殲滅に当っては

数千人規模の民衆を殺害し

「越前」では、その死骸を「皆に見せたい!」と書き残すなど

中々、酷い思考です。



残虐だが良い政治もした程度に捉えるべきです。



●比叡山延暦寺の焼くうちにしても、

政教分離の原則から当然な行動ではないでしょうか?



当然は、その通りですが

「理由」は「政教分離」などではありません。



「政教分離」とは「司法、立法、行政」から

「宗教」を外す行いですが

信長はそれらは行なっていません。



「信長」の側近にはそれ以後も「僧侶」は多数居り

「行政」に深く携わっていますし

有名な「天下布武」の文言も僧侶発案です。



焼き討ちの狙いは「京都」の北に位置する

防衛拠点であり、

その北にある「浅井、朝倉」と結んだ「軍事組織」への攻撃です。



また「比叡山焼き討ち」は「信長」以外にも過去も行なわれ

最大の攻撃は「足利義教」の焼き討ちです。

信長は「本堂」などは残し山の下を焼きましたが

「義教」は山一体を燃やしました。



そして、この「義教」は「独裁」を越す「神裁」と呼ばれるほどの

独裁制を持った人物で更にはこの焼き討ちした

「比叡山」の「天台座主(最高位)」という身分であり

よく「比叡山」の権力を知っていました。

そのために「比叡山」を焼き討ちにしています。



このように「武家」は京都である一定の「権力」を得ると

「武家」以外で「権力」をもった層を攻撃しています。



そういう意味では「原則」「当然の行動」ですが

しかして、他の「宗教」を台頭させるなどで

「政教分離」といったことではありません。



●この当時、世界では政教分離という考えがなかったかもしれませんが、

それを実施しようとしたの織田信長ではないでしょうか?



上記から「政教分離」が狙いではなく

単に「軍事勢力」として攻撃しています。



また世界でも「政教分離」は多々、見られ

「異民族」に攻撃を受ける「中華」では多々、宗教が変わり

特に「モンゴル」が統治した「元」の時代には

途中から明確に「宗教分離」が始まり「司法、立法」から

「宗教」が遠ざけられました。



また「デンマーク王国」では初期は「宗教分離」というか

「宗教」が介在しない政治を行なっています。

後に「宗教」が台頭し様々な法に宗教が介在するにいたります。



●日本の歴史を大きく変わり、

世界の歴史も大きく変わったのではないでしょうか?



そうかもしれませんが、後継者の「秀吉」も世界に進出しましたので

同じような結果になったと思います。



「信長」ならもっと酷い状況になったかもしれません。



●秩序ある日本に戻そうとした明智光秀と、

革命を起こそうとした織田信長の思いの違いが事件のきっかけになったのでしょうか?



思いは同じ「下克上」です。



結果「光秀」は順当に「信長」を殺害し

その後、更に下層から成り上がった「秀吉」に「光秀」が討たれ

「下克上」政策が完成するに至ります。



良い主従関係にあったと思います。



●なぜ、日本人は優秀な天才な人間を死に追いやるのでしょうか?



「日本」という概念にそういった意思は存在しません。



行なったのは、あくまで「戦国時代」にあって

「下克上政策」を邁進した「明智光秀」です。





そして、このような「下克上政策」は過去にもあり

それらを「戦国時代」など乱れた世で行なった

「統治者」は台頭しますが、治世が安定し

「秩序」が整いだすと「家臣」から邪魔に思われ

殺害や追放などされています。



「信長」は「戦国時代」という旧来の秩序がなくなる

混乱期に「天下静謐」を狙い「天下布武」「下克上政策」をもって

尽力し、結果「下克上」政策の具現者である「明智光秀」に

討たれ、その「光秀」を百姓階級からのなり上がりである

「羽柴秀吉」が討つことで前人未到の「下克上政策」を完遂させ、

その「秀吉」が「惣無事令」を発令し

「天下静謐」が成りました。



死ぬことも大事です。








きっと大人にも限界があったんですよ。



明智光秀が信長より9歳年上なのは知っていますか?

まあ、それでもついていってたのに信長に飲めない酒に付き合わされたり、秀吉に罵られたり(この説はよくわかりません)……

ていうのが私の考える「きっと明智にも限界があったんだよ」説で、



もう一つが、純粋に猿で考えてください。

もし自分より頭のいい猿がいたらどうですか?

怖いですよね。私たちは動物をかっています。それを逆にされたら……?

そういうような理由で有能な人はだんだんと亡くなっていくのではないのでしょうか?



あと、個人的に柴田勝家に関しては自分の尊厳と、お市の気持ちを汲んでの死だと思っています。







信長が原因だったので防ぐことは出来たと思います。







僕も信長好きなので、信長が生きていたら、には興味をそそられます。



例えば、商業重視等の政策は秀吉政権にも引き継がれますが、中央集権を目指していた信長に対し、秀吉は地方分権的な形で日本を統一しますね。



現在の日本は中央集権が行き過ぎて批判も多いですが、当時の状況であれば、中央集権化した方が良かったのかな?と思ってます。



というのも、中央集権化した方が人、物、金、情報がスムーズに流れるようになるように思うからです。



大名が沢山残っている状況では、人が入って来て中央政府に機密事項を知られる事とかを嫌う筈なので色々なものがスムーズに流れないように思います。



又、自分の領地の産業を守るために物が入って来るのを規制するかもしれませんし(不勉強のため豊臣政権以降の実態を把握していないのですが・・・)。



信長が浅井、朝倉、武田等を完全に滅ぼしたのも、以上に挙げた効果を期待していた、と個人的には思ってます。



革命家には元々ある種の冷酷さが必要なのかな?とは思っているのですが、あなたがおっしゃっている政教分離の話や上に記載した事等意味のある冷酷なのかな?と思ってます。







歴史というのは誠に不思議なエネルギーを持っています。政権交代が担保された議会制民主主義の成立以前にも、ある体制が制度疲労を起こし、破滅の危険の生じた際には、何故か「破壊者」が現れます。信長も然り、西洋ではナポレオンやレーニンなどの例があります。しかし歴史は、本質的に安定を求める性向を持っているらしく、アンシャンレジームの弊害がほぼ除去されたと見たら、忽ち揺り戻しが始まります。ポストナポレオンのウィーン体制然り、ポストレーニンは70年かかりましたが。よく「乱世の雄」とか「平時の能吏」とかで、役割分担を表現しますよね。信長が消されたのも「任務が終わった」からではないかと。また処世面で信長は、平氏の出という事情はありましたが、官職を断るなど、余りにも朝廷に無頓着過ぎた。朝廷とは代々、有力者に官職を与えることでその権威を維持してきた存在で、それがまさに、日本の「国体」そのものなのです。その「国体」において、官職を断る存在というのは、単に異質に止まらない「許されざる存在」で、それが朝廷寄りの光秀や藤孝をかような行動に駆り立てる「空気」になったのかと(藤孝は示唆しただけでしたが)。







別に、日本人だけではないと思います。





どの国の人も、「○○人は××だから」っていうのが好きだとも思います。



でも、人間、大して変わりません。私には、フランス人の友達がいますが、

職業柄、滅多に旅行などにはいけないので、



「日本のジャルパックみたいな、要領よく、名所、旧跡を回れるツアーが最高」



って言っています。彼女は、日本人をあんまり馬鹿にしたようなことは言いま

せんよ。「フランス人ってのは」、みたいなことも言わない。



((抑制しているのだとは、思います。



ヒトラーだって、ゲッペルスみたいな「お調子者」を重用して、ロンメルのような

ある意味、才人は、結局、周りの讒言もあったのでしょうが、殺しています。



ローマにしても、不世出の英雄だったカエサル(シーザー)は、腹心であり、

親友でもあった、ブルータスに殺されています。



人間、そういうものではないでしょうかね???



((私は、ナチズムには、断固反対のものですが、単なる人間の性癖の例と

してあげました。あと、個人の力で、何かを急速に変える、というのは、それ自体

危ないものを含む、ともいえます。実際、関ヶ原から、400年以上をへて、信長一人

でがんばったころよりは、私たちのような庶民の生活は、良くなっているとも思います。

大事なことは、100年単位で変わっていく、ってこともありますね。







そうかもしれません

でも、歴史には流れというものが存在します。改革をするには周囲の部下、自分の国の民、などに受け入れられなければ改革は進みません。

なかなか思惑の違う国・人同士をまとめるのは難しいものです。

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