2012年5月7日月曜日

永禄11年9月12日 の観音寺城の戦いとは、・・本当は、何の事ですか?

永禄11年9月12日 の観音寺城の戦いとは、・・本当は、何の事ですか?

永禄11年(1568年)9月27日 本日は吉日であるので将軍家(足利義昭)が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。

一 先陣屋形の軍勢五万六千騎 この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという)

先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。)

目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守

以上七人の軍勢五千騎

二番備

浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔

三番備

永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八

四番備

京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守

五番備

蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守

六番備

澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青地駿河守、朽木宮内大夫

七番備

小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔

八番備

平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守

九番備

山岡美作守、礒野丹波守、箕浦二郎左衛門尉、多賀新左衛門尉

十番備

今村掃部頭、堅田刑部少輔、大宇大和守、高橋越前守、尼子出雲守、森川長門守、狗丹後守、隠岐右近大夫

十一番備

屋形御本陣 旗本の軍勢八千騎

十二番備

進藤山城守、同伊勢守、同尾張守、宮木右兵衛尉

十三番備

・・・・

観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)9月12日に、近江国南部の観音寺城、箕作城、和田山城の一帯でおこった戦い。織田信長が上洛するさい、最初におこなわれた戦いで短期間で終了したため、以後摂津国侵攻に少なからず影響したと思われている。織田信長の上洛以後を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の戦いと言える。(ウィキペディア)







すいません、忘れてました。

箕作城の戦いと考えていいのではないでしょうか。



箕作城、和田山城が陥落した時には城を捨て、逃亡しましたからね。

ですが、信長はあくまで観音寺城が主戦場と考えており、主力部隊は観音寺城攻めに配備されていました。








実際には観音寺城の戦いは行われませんでした。あなたがお書きの通り、箕作城、和田山城などを陥れ、江南衆のほとんどが一瞬のうちに信長公に降ってしまったので、翌日に観音寺城に総攻撃をかけるつもりが、六角父子はあっさりと城を捨てて甲賀に敗走しました。それから信長公が動員した兵力についてもさまざまな説があり、あなたが引用した史料も全てを鵜呑みにするのは控えられたほうがよろしいと思います。



それと義昭が信長に対し「御父」と尊敬をこめた書状を出すのも、将軍に就任してからです。







足利義昭を将軍にするために、信長が本拠地である岐阜から京まで行く途中、当時、近江の南半分を領有する六角氏(北半分はそんとき同盟してた浅井氏)であり、京へ行くには六角氏の領内を通過しなければならないから、通せって信長が要求したが六角氏は拒否したため、信長は六角氏を攻めた。その六角氏の本拠地が観音寺城です。六角氏が弱かったのは、家臣があっという間に信長方に寝返ってしまい、何も出来きなかった。これは、当主であった六角義治が以前重臣である後藤賢豊を謀殺した事件(観音寺騒動)により家中が割れてしまい、主従関係が崩壊したためです。

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