三国時代に詳しい人に質問です
俺は戦国時代がスキで普通の中学生よりは戦国時代のとこだけ知っています
そこで最近三国志っていうのが学校ではやり始めてるんですが
俺は三国志を少しは知っているのですが 名前だけ 曹操 劉備 孫権 呂布 諸葛亮 他いっぱいww
ただ 戦国時代は 織田 武田 上杉 今川 斉藤 浅井 朝倉 六角 などの大名が天下をおさめるために戦っているって楽に考えられます ←例えです
だったら三国は 魏 ゴ 蜀の3勢力に 曹操 劉備 孫権 呂布とか?どうたくとか?
そいつらが大名って考えて勢力を奪い合うって考えて 赤壁で戦いが起きたとかそんな感じで考えていいのでしょうか?
もし三国志に詳しい人がいたら 有名な戦や いつの時代にとか 三国志は戦国とどんなとこが一緒でどんなとこが違うか
詳しく教えてください お願いしますね
紀元前220年に「秦」の始皇帝が中国を統一、
秦はすぐに滅んで「漢(前漢)」が帝国を築きます。
紀元前206年のことです。
西暦8年に一旦滅んで「新」が起きますが、
すぐ漢の王族が奪い返して「漢(後漢)」を再興します。
西暦25年です。当時日本はまだ弥生時代中期から後期頃、
邪馬台国の卑弥呼の時代です。
三国志の時代は、西暦200年頃の中国、
「後漢」末期から「西晋」が再び再統一するまでの、
長江の北側を本拠とする最大勢力「魏」の曹操、
南側の海寄り「呉」の孫権、
南側の山側「蜀漢」の劉備、
蜀の軍師「諸葛亮」の4人と、
それを取り巻く魅力的な人物達の、
栄枯盛衰の物語をいいます。
彼らは、日本の戦国大名が「国盗り物語」なのと一緒で、
陣取り合戦ですので大名と思っても間違いではないかと思います。
日本列島で例えて言えば、
本州を「魏」九州が「呉」四国が「蜀漢」
実際、国力や人口数を比較すると、
「魏」が7「呉」は2「蜀漢」は1くらいと思っていいと思います。
天皇は戦国時代京都におられたわけですが、
「後漢」の最後の皇帝(献帝)も、
曹操の「魏」日本で言うと本州にいて、
曹操が保護していました。
戦国時代に信長や秀吉が天皇を保護していたのと同じです。
名前の挙がった呂布は、三国に分かれる前に登場し、
前半のキーパーソンになる人物ですが、
最後は曹操に敗れ死(198年)にます。
曹操は、「魏」の礎を築いた後亡くなり、
息子が献帝から帝を譲られた形で、
初代皇帝として「魏」(220年)を開き、
「後漢」は220年に滅んで本格的な分裂時代に入ります。
劉備は、劉という姓が漢の皇帝一族と同じということもあり、
劉皇叔(皇帝の叔父)と呼ばれており、
「魏」対抗して漢を再興するという目標を掲げて
「蜀漢」初代皇帝(221年)となった後亡くなり、
孫権も、2人に対抗して「呉」初代皇帝(229年)となり、
長寿を全うして252年に亡くなります。
諸葛亮は、劉備の死後、劉備の息子を支えながら、
国力の最も劣る「蜀漢」を守り立てようと、「魏」との争いを続けますが、
力尽き、陣中で病死(234年)します。
諸葛亮死後、「蜀漢」は衰退を続け、
「魏」に敗退し滅亡(263年)します。
「魏」は、重臣であった司馬一族のクーデターによって、
「西晋」(265年)へと変貌します。
最後に残った「呉」は、「西晋」に攻め込まれ滅亡(280年)し、
三国時代は終焉、西晋が60年ぶりに中国を再統一しました。
押さえておきたい戦いは、
まず200年におきた「官渡の戦い」
当時最大最強の勢力を持ち、
時代の第一人者になるであろうと目されていた袁紹と、
当時まだ無名に等しかった曹操との天下分け目の戦い、
いわば関が原ですね。
黄河の北側を勢力圏にしていた名門である袁紹が、
幼馴染で宦官の孫と馬鹿にしていた曹操に負け、
曹操は一躍第一人者となります。
ちなみに、当時劉備は諸葛亮に会う前で、袁紹に身を寄せていました。
孫権はまだ18歳、父孫堅は9年前に亡くなり、
兄孫策が暗殺された年です。翌年呉の家督を継ぎます。
208年の赤壁の戦い(レッドクリフはこれがモチーフです。)
魏の土台つくりを終えつつある曹操が、80万人と自称する兵力で南下、
それを迎え撃つ呉は行きがかり上蜀漢と同盟を結んで迎え撃ちます。
史実(正史三国志)に描かれる赤壁は数行の記載に過ぎず、
レッドクリフに描かれるような大規模な戦いがあったかは、
議論の分かれるところです。
遠征で疲れた義軍に疫病が蔓延して、
舟を焼いて(焼かれて)撤退したという説が大勢を占めています。
諸葛亮の南伐(225年)、北伐
南伐は、南蛮の種族に恭順を誓わせるために、
「攻心為上、攻城為下(心を攻めるを上策、兵を攻めるを下策)」
に基本政策を置いた遠征です。
南蛮の王猛穫を7回捕まえて7回解き放ったという
「七禽七縦」の故事(フィクションとされます)が生まれました。
北伐は、
228年春の第一次から諸葛亮が陣没した234年の第五次(五丈原)まで、
座して死を待つよりはという趣旨が見える魏への侵攻作戦です。
第一次街亭の戦いでの、
将来の蜀漢を背負って立つ存在といわれた馬謖の失敗を、
「泣いて馬謖を斬る」として処断したり、
第五次の五丈原で陣没し、撤退時の奇策により、
魏の司馬懿を慌てさせた「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」の諺など、
見所一杯です。
詳しくは↓で・・・。
http://www.suginami-s.net/game/sangokuonsitu/jiten/tatakai.html
戦国時代との違いは、信長秀吉家康に例えられる人物がいないことでしょうか。
無理やりいえば、
百姓から出世した秀吉が、草鞋売りから皇帝になった劉備、
もう少しで天下を取れた信長が、あと10年生きていたらと思わせる曹操、
我慢強く時を待った家康が、孫権は共通点が見当たらない!
三国志的にいえば、家康は司馬懿、師、昭、炎の司馬一族かな。
ザックリと入門編として↓
http://www.chugen.net/base/index.html
魏は曹操、呉は孫権、蜀は劉備です。
そいつらが大名って考えて勢力を奪い合うって考えて 赤壁で戦いが起きたとかそんな感じで考えていいのでしょうか?
↓
まあそんな感じです。
三国時代にもいろいろあります。
張角が起こした黄巾の乱から群雄割拠の時代が始まり、そのときは袁紹、董卓らが一大勢力で、そのころは後の三国の王たちも、他の小さな勢力と変わりはありませんでした。
そしていろいろあって董卓、呂布などが滅び、曹操が中国の中心、中原を支配します。ここを支配することは朝廷を支配するということで、とても重要な場所でした。劉備はそのとき曹操の部下みたいな感じです。
そして曹操が官渡の戦いで袁紹に勝ち、勢力を広げます。劉備は反乱を繰り返しますが、ことごとく失敗し、放浪します。
どっかこの辺で孫策が呉を統一したような気がします。
で、しばらくたって呉の主が孫権にかわり、有名な赤壁の戦いで孫権、劉備が曹操に勝ち、曹操軍は損害を受けて南下を延期し、劉備は荊州を獲りました。
いろいろあって劉備は蜀も獲り、それからいわゆる三国時代に突入です。
つまり有名な戦は
官渡
赤壁
合肥
などです。
この赤壁は知ってる人多いですが、官渡や合肥は知ってるとちょっと得します。
官渡は曹操と袁紹の天下分け目の戦いで、合肥は曹操軍の張遼と呉の甘寧が有名な戦いです。
小説の三国志を読んでみるといいですよ。
駄文失礼しました。
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