戦国武将の間で茶道が流行ったのは本当ですか?
高い茶道の道具を本気でトキメイテ欲しい!と思ったのでしょうか?
戦と茶。
イメージが掛け離れていて、武将と茶道が結び付きません。
歴史も茶道もわかりませんが、よろしくお願いします。
流行ったのは本当です。侘び茶の開祖と言われる【村田珠光】が形式を定め、それ以降、茶の湯は京を中心に主に西国で流行ります。(地方でも多少は茶の湯は行われていました)そして、経済力を有する商人達、特に堺衆の中で益々流行ります。更に織田信長が論功行賞に茶器(茶道に使う道具+許可)を取り入れた事により、戦国大名や戦国武将達の間で大流行しました。
信長が茶器の価値を見出したのは、永禄11年に上洛した際に今井宗久らに【名物茶器】を献上されたのがきっかけとされています。この時、信長は今井宗久らに茶器の市場価値等を学んだと思われます。そして【名物狩り】を断行し、名物茶器を蒐集し、【御茶湯御政道】という流れとなり、配下の武将達がこぞって茶器(茶事の許可)を求める様なシステムを信長は構築しました。
【御茶湯御政道】とは、家臣らが自由に茶湯を開く事を禁じ、大きな功績があった家臣に対し褒美として許可を与える事により茶湯が開ける茶湯許可制の事を主に言います。その結果、家臣らの中に茶器、茶湯開き許可を貰う事は一国一城をもらう事と同等以上であるという価値観を家臣らに植え付けたシステム言えると思われます。また御茶湯御政道の中には茶の湯をブランド化して功名心を煽ったという説と、南北室町より続く闘茶や書院茶の豪奢贅沢を抑える(家臣の浪費を防ぐ)説の、2つの説が有ります。
どちらにせよ、信長は蒐集された名物茶器を趣味として終わらせるのではなく、政治的にも大いに利用しました。元々非常に価値の有る名物を集めた信長は、これらを茶会で披露する事により、朝廷や世間や地方大名らに織田政権の富と権力を誇示する事にも利用していました。こういう点が信長の凄さと言えると思われます。信長の臣下達は益々茶器(許可)が欲しくなりますわなそりゃ。
信長の方面軍司令長官的な立場であった重臣の滝川一益が武田家殲滅の功で【珠光小茄子】という茶入を所望した話は有名です。信長は茶入も茶の湯の許可も与えず、代わりに上野一国、信濃の二郡及び関東管領職(諸説有り)を与えました。一益はひどくガッカリし残念がったとする信憑性の高い史料が存在します。手の平に収まる茶入が一国以上の価値とされていた実例ですね。松永久秀の件は先の回答者さんが取り上げていますので割愛しますが、爆死の有無は別としても、茶器に対する想いは己が命と同等と考えていた大名や武将居た事の証明にはなりますね。ここまでくると最早、流行とかそういったものを超越した茶器への執着心ですね。
名物と言われる茶器が織田家中では下記の様に与えられていました(名物茶器の一部)
柴田勝家へ柴田井戸(茶碗)
丹羽長秀へ白雲(茶器)
明智光秀へ八角(茶釜)
羽柴秀吉へ乙御前(茶釜)
織田信忠へ初花(茶入)松花(茶壺)
今井宗及へ紹鴎茄子(茶入)
津田宗及へ珠光文琳(茶入)
今井、津田の茶入に関しては一度信長に献上された物で、また信長から下賜された物です。とにかく、千利休の名が知れ渡る以前から茶の湯(茶器)は戦国大名や戦国武将達の垂涎の的でした。そして、時代は信長から秀吉と変わり。秀吉の筆頭茶頭に利休が就任した事により、戦国期の茶道(茶器)はピークを向えます。多くの戦国大名や武将がこぞって利休の弟子となり、利休が新に作り出す茶器の虜になっていきました。この頃の数寄大名達は本気で利休の茶器に【トキメイ】ていたと思いますよ。そして、利休が商人で在りながら豊臣政権の重鎮と呼ばれる様になったのは、信長が作った御茶湯御政道から端を発し、秀吉がそれを踏襲した事により自動的に地位が高まったと言える想われます。勿論、利休の創意による茶事芸術に於ける業績には素晴しいものが有りますが、権威が高まれば高まる程、反利休派の武将達には疎まれる結果につながり、最終的に利休切腹への一因となりました。
利休の話になってしまいましたが、戦国武将達と茶器は斬っても斬り離せない関係と言えますね。かつて、秀吉は九州征伐の折り、秋月種実という大名が籠る城を攻める際に【火気厳禁】の厳命を出しました。城攻めに火気は常套手段のはずなのにも関らず、火気使用厳禁にしたその理由は、秋月が【天下の三肩衝】の1つの【楢柴肩衝】を持っていた為です。秀吉にとって楢柴肩衝きを手に入れる事は悲願でした。どうしても手に入れたいとする秀吉の想いが有りました。楢柴肩衝は、かの信長が手に出来なかった【大名物茶入】でした。ちなみに楢柴肩衝は九州全土の石高に匹敵する価値と言われた事もあったそうです。どんだけの価値やねん!って感じですね。
平たく言えば、任侠道の親分さんが骨董品を集めてたりする感覚に近いかも。そこには成金趣味・俗物根性もありますが、独特の「美学」らしきものを持っている人もいたりします。
松永久秀という武将は、平気で主君に弓を引くような悪党でしたが、同時に茶道や和歌をたしなむ風流人でした。彼は織田信長の配下となるのですが、人を人とも思わぬ信長の傲慢さに怒りをつのらせます(このあたり明智光秀と同様)。やがて上杉謙信と手を組んで信長に反旗をひるがえしますが、逆に攻められ、たてこもっていた信貴山城を包囲されてしまいます。このとき信長は、茶器の名品「平蜘蛛の茶釜」を差し出せば命は助けてやると言ってよこすのですが、久秀はこれを拒否、「平蜘蛛の茶釜」に火薬をつめて爆死します。この死に様が彼なりの「美学」だったのでしょう。
もともと武士が禅宗や茶道にハマったのは、精神統一みたいな意味があったと思います。また、茶席での立ち居振る舞いが洗練されている人ほど、人間としての器が大きいというイメージがあったようです。
新渡戸稲造の「武士道」を読んでみて下さい。
茶道が、いかに武士の行動規範、今でいうビジネスマナーだったかが解ります。
他の回答者さんも解説されていますが、元は功績のあった武将に、もはや与える領地がなくなり、それに代えて茶器に勿体つけて与えたのが始まりみたいです。
無論、それまでに超エグゼクティブクラスの武将の社交の場として成立はしていたと思いますが、かようにして一般武将にも普及していったんですね。
茶会を開くことを特権として
手柄のあった武将に認ました
実は領地を与える替りで
とても安上がりです
開催権を貰った武将さん達もVIPになったと思ってっるから満足しました
単純だなんて言ってはいけません
野点に見られる朱色の日傘
あれは朝廷のお許しが必要でした
もっとも陰に隠れた千利休は暴利を貪ったでしょう
戦国武将が好んだ 茶碗が有ります。
馬上盃=ばじょうはい・・と言います。
茶碗のこうだいが握りこぶしを縦にしたくらいの長さがあります。
この茶碗に抹茶を点て
片手に茶碗・片手にお馬のたずな=馬の上で お茶を飲んだという・・お茶碗・お点前がありますので 戦国武将の間で茶道が流行ったのは本当だと思います。
ちなみに私は 馬上盃のお点前が大好きです。
茶道が流行った理由については諸説ありますが、
有力なのは「社交場だった」「ステイタスだった」
というものです。
当時は茶をたてるというより、茶道具を自慢しながら
ぐだぐだと話す会だったといわれています。これだけの
高い道具と茶室をそろえて、茶人も雇っている、という
事がらは、成り上がり、武だけではなくインテリジェンス
も欲しくなった武将にとっては、それらをアピールする
いい材料だったのではないでしょうか。
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