今川義元は武術はありましたか?
お歯黒して公家ファッションで蹴鞠や歌会ばかりに興じていて、結局桶狭間であっけなく討たれた軟弱はイメージがありますが、。
一説には、武術の達人だったという話もありますね。
桶狭間の戦いでも、最初に切りかかってきた服部春安の膝を切りつけて倒しているようですし、2番手の毛利新助に首を取られたものの、いずれにしても抵抗して簡単に討ち取れたわけではなかったようです。
武将としても、信長の父・信秀はもとより、関東の勇=北条氏綱・氏康親子と互角に戦い、「海道一の弓取り」と称される武勇の持ち主でした。
内政の手腕もすこぶる秀逸で、武田信玄も軍事・外交・内政あらゆる面で義元には一目置いて、参考にしていたくらいです。
公家文化に馴染んでいたのは有名な話ですが、この時代の公家は、軟弱な者ばかりでなく武術の達人も多かったようです。
例えば同時代の伊勢の大名で北畠氏というのがありますが、北畠氏はもともと公家だったのが、公家文化を残したまま戦国大名化し、「公家大名」などの言い方をされることもあります。今川家と立場的に非常によく似ていると思います。
今川義元の同時代の当主・北畠具教は、義元と同様に公家との付き合いが深かったらしいですが、剣豪・塚原卜伝に剣を習った達人で、後に信長に暗殺された時には刺客を19人も切り殺したとか。
また、時の征夷大将軍・足利義輝もまた、実権は何もなく公家のような身分でしたが、やはり塚原卜伝に剣術指南を受けており、襲撃されて殺される時には、相当数の敵を道連れにしたと言われています。
今川義元も「左文字」と呼ばれる名刀を、戦中は常に身につけていたと言われるので、武術に対する意識は高かったでしょう。
(もし本当に軟弱な武将であれば、刀にそれほどこだわることはないのでは。)
桶狭間で討ち取られた義元の「左文字」は、その後、信長・秀吉・家康と「天下人の証し」として受け継がれて行ったことを見ても、3人がどれだけ今川義元の「武勇」を認めていたかが分かります。
(3人とも桶狭間に参戦しており、これが3人それぞれの天下人への出発点でもあった。)
↓左文字について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E4%B8%89%E5%B7%A6%E6%96%87%E...
そういう武士が貴族文化を行うのが
みっともないことだという概念自体が現代の小説とかで言われるような偏見にすぎません。
当時はどこの大名も貴族文化に傾倒し和歌や蹴鞠、貴族ファッションなどを行ってました。
武田信玄の居館の躑躅が館には館の随所に京都の風景を模した明媚な設備があり信玄はそこでしょっちゅう和歌を読んだそうですし。
島津家の貴族文化への傾倒ぶりも有名です。
特にあの沖田畷の戦いで一万程度の軍勢で数万の軍を率いる龍造寺隆信を打ち破った猛将、島津家久は出陣の時にお歯黒はかかさなかったそうです。
また彼は和歌を習いに数ヶ月京都に行き、信長の行列を見物したと書いててます。その時、信長は輿の中で居眠りしてたそうです。
あと、織田信長も茶会だけではなく蹴鞠遊びが好きだったそうです。
当時は大名や武将がお歯黒、公家繭をするなんて事は当たり前で、そういう人物の首を取ると大手柄とされました。
同じように文化に凝ってても武田信玄や島津四兄弟は信玄は優秀な武士というイメージがあり、
今川親子や大内義隆が文弱とか言われて罵られるのは勝者と敗者の違いという要素でしかありません。
0 件のコメント:
コメントを投稿