250枚!!豊臣秀吉についてお願いいたしますm(__)m
まったく歴史について無知なので教えてほしいです(>_<)
BAは回答が早い&適切だった人にします(^o^)/
~教えてほしいこと~
・豊臣秀吉が全国統一するまでを簡単に教えてください。
・社会の自由研究に使えそうなこと。
・どんな人だったか。(性格など)
あと、3人の武将とは誰でしょうか。
みなさんどうかお願いします。
本来この「天下」ということばは、古代中国に由来し、春秋末期に至り周王朝が衰えて国内が分裂状態に陥ったとき、新しい主権者による統一社会の実現の目標として創出された地理的・政治的・文化的観念であった。やがて「修身斉家、治国平天下」という形で儒教的政治理念――徳治主義――を形成することになり、この「天下」観念はわが国にも早くから伝えられ、すでに古代の詔勅や宣命(せんみょう)などにも「天下」の語が頻用されている。中世にも源頼朝(よりとも)が鎌倉開幕にあたって「天下草創」と称したことや、また足利尊氏(あしかがたかうじ)の室町開幕が「天下をも草創し給(たまひ)ける」といわれたことなどもよく知られており、このように日本の歴史において中央集権的な国家体制、あるいは新しい中央集権の樹立が指向されるときには、当然想起されるべき概念とさえなっていた。1565年(永禄8)5月、天下の支配者たる将軍の地位にあった足利義輝(よしてる)が松永久秀によって弑逆(しいぎゃく)され、それより約2年後の67年8月に織田信長が美濃(みの)国井ノ口城の斎藤龍興(たつおき)を逐(お)って、同城を岐阜城と改名し、同年11月ころより「天下布武」の印を始用するのも、天下雄飛の第一歩を踏み出そうとする意識の表れである。この「天下」意識は武家のみでなく、職人の世界においても現れ、16世紀中ごろより塗師(ぬし)の「天下一」、畳刺(たたみさ)しの「天下一」というように、第一人者、日本一というほどの意味で職人たちが「天下一」を号するのも、職能による実力主義の表れである。と同時にこの民衆の「天下」意識のなかには戦国100年の争乱に倦(う)み、秩序の安定と平和の希求があったであろう。
◆全国統一するまでは
織田信長に仕えて織田政権の中枢として、
信長が日本の中部地方を統一するのを支援した。
その後、秀吉は、
中国の毛利輝元、
東海の徳川家康、
北陸の上杉景勝
を家来にし、
四国の長宗我部元親、
九州の島津義久、
関東の北条氏政
を戦で倒して全国統一します。
農民出身で、トップにまでのぼりつめたのは
世界史上非常に稀なことでした。
戦の方針としては、兵力の損失を避けるため、
それまでだれも用いていなかった戦法を用いたこと
(例:鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めなど)
農民出身だったため、譜代の家臣を持たなかったので、
有力な武将は倒してしまうのではなく、降参させて
味方として使う戦術を採用していました。
※人間関係の基本は、相手のことを良く考えること
=>コラム(豊臣秀吉に学ぶ)
http://www.c-road.jp/6column/column01.html
◆社会の自由研究で使えそうなこととしては、
経済や文化面を研究してみることもできると思います。
例えば、秀吉は太閤検地を実施しますが、
検地以前、地主でもあり武装集団でもあった土豪は、
経済的、軍事的に村を支配していていましたが、
太閤検地により、一地一人耕作制が進み、
土地に対する権利が認められ、
土地所有の明確化が進み、
農民の勤労意欲が向上しました。
秀吉が実施した太閤検地によって、
日本全土の石高は18,578,110石
と算出されました。
これは、日本で初めてGNP(国民総生産)を計算したことで有名です。
また、文化面でも、安土・桃山時代は、
陶芸・茶の湯その他さまざまな面で華やかな時代です。
トップの秀吉が明るい性格だったので、
それが当時の日本文化に反映されたと考えられます。
秀吉の登場により、大名としての名声を保つことの条件として、
茶道を極めることも含まれていたわけで、
これは安土・桃山時代以前にはなかったことです。
◆3武将は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です
3武将の性格を表現する有名な川柳がありますが
織田信長(鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス)
豊臣秀吉(鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス)
徳川家康(鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス)
1 農民の出である これは秀吉のコンプレックス
2 信長の家来になって いろんな戦で活躍する 信長を逃がすため殿(しんがり)っていうかなり死にやすい囮になったこともある
3 奥さんは同じ織田家仲間の妹の ねね のちの高台院
4 戦の過程で蜂須賀党や有力になりそうな加藤清正、福島正則など小さい頃からかわいがったりする ねねが作った料理とか一緒に食べるレベル
5 信長が全国統一する計画の一部の役割として秀吉は中国地方の毛利家討伐をまかされる
6 信長が本能寺で明智光秀に殺される
7 たったの三日という信じられないような神速で四国から引き揚げて光秀を山崎の戦いでやぶる
中国地方から引き揚げるのを「中国大返し」
山崎の戦いで天王山をとったほうが勝ちだ的な状況になったことから 受験のとき夏は受験の天王山っていう
8 山崎の合戦の後、信長の後継者だれよってなったなかで、秀吉と柴田勝家っていうのが候補であがっていて賤ヶ岳の戦いで勝家をたおす
9 西の薩摩などの九州、東の北条氏をたをす 北条を攻めたのを小田原攻めというが 北条VS全国 にもっていって北条はどうしようもなく 北条側の会議がもうどうしよかぁってなって 会議で何にも決まらないことを 小田原評定 っていう
10 徳川家康がチャンスをうかがって小牧・長久手の戦いをしかけてきたけど、頭を使って停戦協定結んで家康を負かす
11 最後は武力じゃなく、政治力で天下統一、 自分は関白になって聚楽第っていうのつくり天皇を横につけて自分の偉さをアピール。全国に力を示した。
12 刀狩りやったり長さや枡の大きさを統一したり 文化的に天下を統一
秀吉という人物は日本史の中でもかなり描写の多い人物なので簡単に説明してもかなりの長さになってしまいます。
この人の性格としては人を使うことに長けていたということですね、今でもその知恵がビジネス書などにしょうかいされたりしてます。
有名すぎるエピソードの中で一夜で城を作ったり(いまでいうビルを1日で立てちゃったよくらいの衝撃でしょう)
冬に信長の草履を懐で暖めてたり
木を数えるのに一本一本数えるのではなく ひもをたくさん用意して、たとえば1000本なら手元に2本余ったら木の数は998本だみたいな
とても知恵が働いた人だったんでしょう。
天下統一後、秀吉は晩年、朝鮮に出兵をするのですが このせいで韓国などからはかなり嫌われている人物となっています。
・豊臣秀吉が全国統一するまで
→http://www.geocities.jp/yuutarou19800126/sengoku4.html 詳細が書かれていました☆
・どんな人だったか
→表面的にお調子者、実質は陰湿で根に持つ。陽気で洒落は好きだが、冗談は通じない。
情愛は細やかであるが、冷たく突き放す事もある。いろいろな事に興味を持ち、器用にこなす。
派手好き。あまり利づめで動かない。
・3人の武将
→織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
正しいかどうかは、わかりませんが、ご参考までに。。。
織田信長の家来になり、頭を使った戦術(1夜で城を建てるなど)で戦に勝ち天下統一に至る。
性格はエンターテナー。話術で武将の戦意を崩す。
三武将、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。
0 件のコメント:
コメントを投稿