2012年5月8日火曜日

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について。

何でもいいので教えてください!



できれば…本当に出来れば何ですけど…読みやすく…できたら…お願いします…。



とりあえず、お願いします!







織田信長

1534年尾張の国(愛知県)で生まれる。(幼名:吉法師)

尾張の国を統一した信長は周囲の戦国大名を滅ぼしたり

従えたりして領土を広げていきました。1573年には室町幕府を

滅ぼし やがて中国地方の東部 近畿 北陸 東海地方の

ほとんどを支配しました。ですが天下統一まであと一歩というところで

家来のはずだった明智光秀に襲われ 自害(自殺)しました。

これが「本能寺の変」というやつですね。

1582年明智光秀に襲われ自害。



豊臣秀吉

1536年豊臣秀吉が生まれる。(幼名:日吉丸)

豊臣秀吉は尾張の身分の低い武士の子として生まれ 織田信長に

仕えて有力な武将となりました。秀吉は信長に背いた明智光秀を

たおし やがて朝廷から関白に任じられました。

ほかの大名や仏教勢力をおさえ 天下統一を成し遂げました。

全国を統一した秀吉は海外にも目をつけ明(中国)を制服しようとし

ましたが秀吉は途中で病死し日本軍は引きあげました。

1598年病死。



徳川家康

1542年徳川家康が三河の国(愛知県)で生まれる。

豊臣秀吉の死後 豊臣家の家臣 石田光成らを中心とする西軍

と徳川家康が率いる東軍が 関ヶ原(岐阜県)で戦いました。

この戦いは「天下分け目」の戦いとも言われ この戦いに勝った

徳川家康は 朝廷から征夷大将軍に任命され 江戸(東京都)に

幕府を開いて全国の支配を始めました。

家康は大阪の豊臣氏を滅ぼすとともに 全国に一国一城令を

出して 大名が住む城以外の城の破壊を命じました。

こうして戦いの無い安定した世の中になっていきました。

ですが 豊臣氏を滅ぼした1年後家康は病死しました。

1616年病死



けっこう長くなってしまいましたが こんなかんじでどうでしょうか・・・

分かってもらえたらうれしいです(>_<)

あとちょくちょくでてくる朝廷の意味調べました。↓

朝廷:天子が政治を行う所。廟堂(びょうどう)。朝堂。また、天子が政治を行う機関。

だそうです・・・いや私もそこはあやふやでよく分からなくて(>_<)

まぁこのへんで・・・・・でわでわ^^








羽柴秀吉(豊臣秀吉)は明智光秀を討ち取るため中国大返しをするのだが、途中姫路城に入り兵士達に金銀や米を分け与えた。

家臣は与えすぎては城内のお金が無くなると心配したが秀吉は惜しげもなく分け与え兵士達の士気は高まった。



いよいよ光秀を討つぞと兵士達はやる気満々だったがそこへ僧が現れ「今出陣すれば二度とここへ戻れなくなり不吉な日だ」と言った。今でこそうさん臭い感じもするが当時は占いも重要な要因を占め兵士達の士気も低下してしまい出陣どころではなくなってしまった。

ところが秀吉は「わしが天下を獲れば城をどこでも建てられるようになりここに戻る事もないのだからこんな良い日はない」と言い兵士達の士気は再び上昇し光秀討伐に向かうのであった。



とこんな感じで宜しいでしょうか。読みにくかったらすみません。







織田信長



桶狭間の合戦の勝利を機に激戦続きの中、畿内を統一。

楽市楽座を奨励し、物資の流通を促進させた。

民衆に対しては優しい一面もあったが、刃向かう者には

情け容赦なかった。

天下統一が見えかけたところで、明智光秀の謀反にあい、最後を遂げる。





桶狭間の合戦で今川義元を破る奇跡を成し遂げた時の事。

圧倒的に不利であった信長は、家臣の梁田政綱に「義元の事調べとけ」と命じた。

「義元がここにいます」と分かると、速攻で奇襲をかけた。

毛利新助と服部小平太の二人が義元を討ちとったので、二人は

「俺達、一番手柄だ!ラッキー」と思っていた。

ところが一番手柄は義元の事を調べていた梁田政綱だった。

普通ならば討ちとった者が一番手柄の時代だったが、梁田が一番手柄で

あった事から、信長は情報を特に重要に考えていたというエピソード。



信長が京に上洛した時、京の人々は

「うっわ~、尾張(現在の名古屋)の田舎もんが来るで。おっかないわ~、

何されるかわからん」

と気が気でなかったが、実際に信長軍がくると兵隊もビシっとしてて何もされない。

何故ならば、信長は京へ向かう前に

「一銭でも盗んだらぶっ殺す!」(一円でも盗んだら殺す)

という命令をしていたからであったというエピソード。



宣教師フロイスとの初謁見の時、

信長は工事現場の監督を直々に行っていた。

ふと脇をみたら、一人の男が女に「どう、今度飯でも行こうや」と

仕事をせずに手を出していた。

その光景を見た信長は、素早く走りだし、その男のところへ向かうと刀を抜き、

居合抜きのようにバシュっと首をはねた。

それがフロイスが初めて信長を見た時のエピソード。



羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の妻の寧々が、余りの秀吉の浮気に困り果てていたら

信長から

「武将の妻が簡単にやきもちを焼くな。そもそもあのはげねずみにはそなたは勿体無い」

と寧々宛てに、手紙が届いた。

結構細かいとこまで気を配る一面を見せたエピソード。



越前(今の福井県)一向一揆を討伐した際、敵の死体だらけの戦場をみて、ご満悦で

「辺り一面憎い輩の死体ばかりにて、足の踏み場もないほどだ。是非見せてやりたい。」

という手紙を、家臣の村井貞勝に送ったというエピソード。



長島(今の長島スパーランド辺り)一向一揆討伐の際、信長は兵糧攻めを仕掛けた。

敵は飢えに耐えられず降伏すると行ってきたが、信長は無視!

実は今回三回目の攻撃で、過去二回苦しめられた相手であった。

更に降伏して逃げようをする者は射殺。

刃向かう相手には容赦は無い!というエピソード。



信長は近江安土の地に(今の滋賀県安土町)安土城を築いた。

その城は5層7階のスッゲー綺麗な城だった。(私個人的には一番)

安土城を見たフロイスは

「ヨーロッパにもこれほど豪華で綺麗な城は無い・・・。」

と感嘆したというエピソード。



疲れたのでこれでいいっすか?







武田信玄の軍を迎え撃つべく徳川家康は城で待ち構えていたら素通りされた。それに怒り追撃すべく城から撃って出たら待ち伏せされていて返り討ちにあい、命からがら逃げ帰ったさいに髪は乱れ青ざめた顔で糞尿をもらした情けない姿にされた。

普通なら風呂や着替えをするが家康はその姿を絵師に描かせて戒めとして絵を大切にした。



家康の嫁が敵国の娘で内通しているのではと信長に疑われ、嫁と子供を斬れと言われた時に命令通り殺害した。

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