竹中重治、黒田高孝は粉骨砕身して豊臣の天下を実現したのに、重門、長政はなぜ豊臣氏を滅ぼしたのでしょうか?
戦国大名というのは、常に自国の国益を最優先に考えて行動をします。
つまり、自国に有利な方に味方をし、自国に不利な方には味方をしないのです。
黒田家や竹中家の豊臣家への裏切りは、関ヶ原での小早川秀秋の行動と全く同じと考えて下さい。
黒田家や竹中家は豊臣家に対して不忠な行動をしているのですが、一国家として国益を得る為に当たり前の行動をしているだけなのです。
如水が九州平定をしようとしたのは確かですが、天下を取るつもりで九州を平定しようとしたわけではありません。
後の世に作られた創作話です。
正確には関ヶ原は対豊臣というより対石田三成で、豊臣を滅ぼすつもりはなかったのでしょう。また家康もこの当時は豊臣臣下として戦っています。
で、徳川が天下をとった後、味方した各大名に恩賞として加増したりしましたが、同時に奥方や子供を人質に江戸に住まわせてます。また味方していても、難癖つけて改易したりして豊臣方に味方しそうな大名の力を削いでいきました。
結果、大阪夏の陣、冬の陣の頃には徳川に逆らえなくなっていました。
まぁ戦国の世は家名を守るため、生き残るために裏切り裏切られが横行していた時代ですし、それも世の常かと・・・
重門は6000石、長政は12万5000石を秀吉から与えられました。
それに対して家康は、重門に6000石の本領安堵(関ヶ原では重門は東軍として戦ったが最初は西軍に属していた)、長政は52万3000石を与えました。
長政の父・黒田如水は東軍に属していました。それどころか、自分で天下を取ろうと九州で行動を起こしていました。
重門も父・竹中重治は20年も前に病死しているので重治の影響はほとんどありません。
それ以上に、あの時代は利害関係の時代ですから必ずしも、父の遺志を継いでいるとはいえません。
見返りが少ないと思ったのではないでしょうか?
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