織田信長、豊臣秀吉とも歴史上の大人物ですが、織田家、豊臣家とも実質的に一代の短命だったのに対し、徳川が15代260年以上も続いたその差は何ですか?
織田信長はあのまま行ってたら、戦国の大大名は居なくなっても百万石クラスの家臣が4・5人+徳川家康が残って後世に影響力を残したでしょう。
豊臣秀吉政権下だと、徳川・毛利・上杉・前田などの秀吉家臣出身でない大諸侯が残っていて、たとえ秀頼が天下を継承していても運営は難しいものであったでしょう。
徳川家康は自身が最大勢力であった上に、豊臣家を潰し、毛利・上杉を大幅減俸して幕府に対抗できないようにしました。
江戸中期の石高番付をみると、幕府を除く石高ベストテンの十位で25万石程度で、ベストテン内には御三家が全て入っているという有様でした。
すなわち、幕府400万石、旗本400万石という大勢力に対して、最大勢力である前田家でも分家を合わせて120万石程度、それ以下の家だともっと少ないということになり、軍事的に到底かなわないと戦う前に思わせる効果がありました。
また、室町幕府や豊臣政権を学習して、外様の大大名や御三家などが政治中枢に関われないようにしました。
これによって幕府内で大きな力を持っても領地は10万石程度、せいぜい井伊家の35万石までしか領地が無いという、政治力と軍事力の分散化も行われました。
徳川幕府は三代以降、子供が将軍でも政治に支障がないように構築され、現に四代将軍家綱は10歳で将軍になり、七代将軍家継は4歳で将軍になりましたが、反乱などは起きず幕府は揺らぎませんでした。
信長さん、秀吉さんが様々な施策で
「武力」を「武士」に統一し「戦乱」を抑止するなかで
「自由経済」を推進しておりましたが、
「戦場」が縮小する時代に入り
「自由経済」が制御不能と成り
「朝鮮出兵」など「戦場」が再度必要となりました。
「封建社会」において自由経済のおける政権維持は
古今東西「戦場」を作り出すことしかありません。
上記の失敗から「家康」さんは
「計画経済」を推進し「自由経済」を抑止しております。
「封建社会」の「平和」時には有効な施策であり
信長さん、秀吉さん、その他の戦国大名があってできた
ことですが時代にそった経済感覚が良かったと思います。
現在も同じで「貧乏人100人」居るから「金持ち1人」と同じく
「自由経済」と「計画経済」は天秤するべきです。
徳川家康が他の二人より優れている点は学習能力だと思います。信長・秀吉の政策を同時代に体験し、尚且つ歴史の研究に熱心だったので専制君主である自分自身が死んだ後も徳川家が生き残る制度を完成させることが出来たのではないでしょうか。
後継者ですね。
秀吉の後継者の秀頼は子供で自分で政治を行うことができず、結果家康に利用されるだけ利用された挙句に攻め滅ぼされています。
信長も本能寺の際跡継ぎの信忠も一緒に死んでしまった為正当な後継者がいなくなってしまい、結局後継者争いが起きてしまい、それを秀吉につけこまれて気付いたら後継者の地位も秀吉に持っていかれました。
徳川家は特に家督争いをすることもなく円滑に世代交代が行われ、付け込まれる隙がなかった。
子供の数と質はもちろんのこと。
そのときの天下の情勢ですね。
信長が死んだとき、秀吉が受け継ぎましたが、
このときに信長の子供で質のいい人がいたら、
変わっていたかもしれません。(本能寺の変で死んだ信忠が生きていれば、織田は崩壊しなかったといわれています。)
その後、秀吉が死んだ後も、子供秀頼がまだ幼いのに対し、家康はまだ存命中です。
そして、豊臣政権の中の崩壊に乗じて、家康が兵を挙げて天下を取ったわけです。
つまり、信長のときも秀吉のときも
ある程度情勢がよければ崩壊しなかったわけです。
答えは天下の情勢の違いです。
子供の数および質です。徳川家康の子供は16人です。
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