伊達政宗は20年早く生まれれば天下をとれたとありますが、実際無理ですよね。
奥州の隅から天下を目指そうとしても、途中には上杉・北条・武田・南部・蘆名らがいるので、せめて奥羽を統一できる程度のものだと思います。
政宗が20年早く生まれたら、1547年。
元服し、仮に家を継いだのが18歳だとすると1565年。
そこから家中を統一し強固な軍団を纏め上げるのには相当の時間が必要でしょうし、最上と連携したとしても、おそらく蘆名の黒川城、あるいは上杉家中本庄繁長の本庄城(村上城)ですら落とせるかもわかりません。
蘆名家はこの時名将・蘆名盛氏で兵力もそれなりに揃えられたことでしょう。
それに越後と隣り合っているので、いざとなれば謙信に援軍を乞うこともできたはず。
(この時上杉と蘆名は直接はぶつかっていないけど、敵対していたのでそれは微妙ですが)
ですが、この時まだ上杉と武田は対立していたし、武田には伊達・蘆名が同盟していましたし、佐竹・宇都宮など関東諸将は北条と対峙していたのでその隙をつくことはできるかもしれないのでそこがわかりません。
武田信玄がいつまで日本海側・関東に目を向けているのか、によると思います。
武田とのにらみ合いがなくなれば、上杉謙信は武田からの脅威もなくなるし、関東や北陸道の方にも眼を向けることができるし、いろいろな方面に気を配ることができます。
上杉・武田を倒せるほどの力を持ったとしても、それらを倒すには何年もかかるだろうし、むしろ倒せないと思います。
さらに越後・信濃・駿河で日本を半分に分けられている以上、倒さない限り政宗は中央に打って出ることはできません。
そこら辺も含めて考えを教えて下さい。
こんばんは 非常に明快で素晴らしく詳細な考察を質問者の方はなされてますので、私が回答するのも恥ずかしいのですが、敢て自分の考えとして回答させて頂きます。
伊達政宗が二十年早く生まれて来た場合でも、やはり正宗自身が「天下」を意識出来るか出来ないかによります。正宗が東北で何故あれだけ版図を築けたかはこれまでのしがらみを全く意識しないと言う精神性にありました。東北の諸侯は元を辿れば殆どが縁戚関係にあり、それまでも戦をしても相手を絶滅させるまでは行いませんでした。むしろ他家より同じ家中や同族同士の内紛が多かったのです。しかし正宗はある意味、信長の様に四面を敵にしても戦い続け相手を制圧したり服属させて行きました。「元はと言えば縁戚なのに」と思う周辺勢力は驚き、恐れた様です。
正宗の家臣団も優秀な者が多く、充分に天下は狙えましたが、後は外交能力の高い家臣を上手に使えるかです。戦国時代の定法に「遠交近攻」と言う方法がありますが、上杉、佐竹とは上手に同盟しつつ近隣を平定出来れば、関東に討って出れたと思います。正宗自身は関東平定の際は逆に武田と盟約を結び北条を挟撃する方法も考えるでしょう。
拠点もその都度に西へ西へと移して行き、「兵農分離」を推し進めて専属の「戦闘部隊」を常備する事が必定となりますが、鶏鳴な正宗や聡明な家臣の片倉小十郎がその事を推し進めて行けば不可能では無いと思います。
そして一番は当時の日本の中心地の「京都」を巡る勢力ですが、正宗は「上洛」よりも「関東」を武家政治の拠点に望む可能性は高いです。そして最大限に兵力が増えた時点で西日本への侵攻を画策するでしょう。
もし信長や家康が史実通りの版図を広げていたら、信濃か美濃あたりが日本統一の「天下分け目の戦」の場所になると思われます。
その場合でも伊達、上杉、佐竹等の諸派連合軍がどれだけ纏まられるかですが、正宗をリーダーに諸派が担いでくれるかくれないかが実際の戦闘よりも難しい課題ですね。
ここにいる全員が、天下人=武力制圧による領土拡大の結果、日本統一と考えていますが、間違い。
朝廷から、足利氏が将軍に任命され、室町幕府の開設。
↓
織田信長が右大臣に任命され、近畿周辺を領土として、織田政権。
↓
豊臣秀吉が、関白に任命され、豊臣政権。
↓
徳川家康は、豊臣政権存命中は内大臣。のち、将軍で江戸幕府。
いずれも、朝廷から、国政を統治する役職に任命されています。
ちなみに近畿にいた三好長慶は天下人ではない。何の役職もない。管領細川家の家宰にすぎない。
wikipediaなどに、デタラメがたくさん掲載されてますね。
上杉家と養子縁組して、最初に関東管領に伊達政宗がなる、奥州探題は上杉家へ委譲し、江戸城みたいな巨大な城を作る、武田家から奥さんをもらう、北条と養子縁組する、前田慶次と前田家 真田雪村と同盟結び西へ進む、 米沢から天下統一 伊達上杉武田北条前田真田の力を合わせれば天下近し 上杉の領土に佐渡金山があるのでその金利用して天下統一
政宗が20年早く生まれたら、天下が取れたというのは、それぐらい政宗は、優れた武将だったね! というたとえ話で、実際、天下が取れるという話ではないと思う。
私も同じような考えです。伊達氏は「端っこ」だから、戦後期末期まで大勢力を保てただけだと思っています。
武田氏や北条氏、三好氏などと同じ地理条件なら、同じように滅亡するか、臣下として組み入れられたと思います。
ただし、「端っこ」でも生き残ったのはたいしたものだと思います。
なんで、そんな面倒なことを考えるのですか?
船を使えば良いではないですか。
なんとかして太平洋岸まで領土を広げて、船で遠州沖経由で瀬戸内海に入って、難波から淀川を上って、ピンポイントで京を衝く。あるいは、日本海まで領土を広げて、若狭から上陸して京を衝く。
ローマに行くのに比べたら、京までの強行なんて、楽々ではないですか。
沿道の他家を全部潰して行くなど、愚の骨頂です。まずは、将軍か天子をかついでしまえば良いのです。
「伊達政宗は二十年早く生まれていたら天下を取っていた」と言っているのではありませんよ。
「意志があれば方法は見つかるものだ」と言っているのです。
信長だって、地続きに京まで領土を広げた訳ではありませんよ。
凡人と英傑の違いは、意思を持つか否かです。
「出来ない、出来ない」と言っている人間は、歴史を拓きはしないのです。
政宗が凡人か英傑かは、スミマセンけど、知りません。(*^^*)
[追記]
だから、(*^^*;
船というのは、一つの例です。
政宗が二十年前に生まれようが、百年前に生まれようが、「天下統一」ということを、そもそも考えなければお話にならないでしょう? という話ですよ。
間に武田がいるとか、上杉がいるとか、関係のない話です。
現実には、既に、秀吉や信長という「先輩」がいて、天下統一という事業が進められていて、それとの比較で「政宗が二十年早く生まれていたら」と言われる訳ですが、そういう先達の「お手本」なしで政宗がそれを考えたかどうかは分からないし、それを独力で考えるほどの傑物だったら、方法も、きっと考えたのでないの~ぉ? ということです。
つまり、IFの前提で、そんなに一生懸命に考えたって仕方がないですよ、という事です。(*^^*)
[追記2]
ついでだから、もう一言。
>明智光秀がその良い例です。
ここで明智光秀が出てくるところで、質問者さんが頭デッカチになっているのがうかがえる、というものです。
お気にさわったらごめんなさいね。
でも、光秀の謀叛なんて、計画も何もない、発作みたいなものではないですか。
もちろん、それも解釈の一つに過ぎませんけど。
でも、「伊達政宗は20年早く生まれれば天下を とれた」というのは、「それくらい、政宗は凄い武将だったね」という「人物評価」なのです。
「人物論」なのです。
だのに、それと対比するのに、仕事のストレスでノイローゼになったみたいな光秀を持ち出してみても、ナンセンスではないですか。
「人物論」なのです。
だから、質問者さんが、「政宗が二十年早く生まれていたら・・・」というのを否定したいというのならば、そんな、二十年もずれた時代考証から、あり得もしない地政的条件をこんこんと説き起こすには及ばない、史実上の政宗のふるまいから「いやいや、政宗はそれほど凄い人物じゃないよね」と論じれば済むはなしなのです。
最初に「なんで、そんな面倒な事を」と書いたのは、そういう意味です。
方法論など、IFの前提ならば、いくらでも言える、というか、それくらい気宇壮大になりましょうよ。質問者さんはまだお若いのですから。(*^^*)
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