織田信長は兎に角先見の明に優れていて、軍事・政治面に於いて当時の西洋に先駆けた発想もあったそうですが、当時の西洋にも先駆けた発想とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか?そして、それは
当時の東洋も含めた当時の全世界に先駆けた発想だったのでしょうか?是非、分り易く御教授してください。
間違いだらけの解答をしてるバカがいるな…
>1、楽市楽座は商人主導の、当時は珍しくもない政策。
商人が政策をできるとでも?
珍しくないわけでもない。
当時の町の数と、そのうち楽市楽座が行われていた町の数を比べてみればわかること。
>信長の楽市楽座や関所撤廃は不徹底。
当たり前。
楽市楽座と関所撤廃が目的のように言うのは本末転倒。
人々の意識や物質的準備が整っていないのに改革をすれば、ソ連のペレストロイカのような大失敗に終わる。
信長がこのような政策をしたのは、自分と領民のためであって、政策が先にある原理主義ではない。
>歴史学者の藤木久志先生と脇田修先生は、北陸への交通遮断も伴った信長の楽市楽座を、「流通の自由化よりも、比叡山への経済ハラスメント」としている。
戦時中なんだから当たり前。
敵に武器や物資を売りつけている人間を放置する方がおかしい。
速やかに内乱を収めることが優先されるのもこれまた当然。
>また、信長は当時の通貨不足に対して、なぜか、通貨の発行に消極的であった。この点は、他の戦国大名に劣っている。
消極的なだけで「劣っている」評価は愚か。
>また、重商主義とは「商業を重視する政策」では間違い。当時の輸入超過の貿易は重商主義に値しない。
そんな専門用語なんぞどうでもええわ。
>2、全くの間違い。上杉と武田は田植えや収穫期の農繁期にガンガン出兵している。
それこそ全くの間違い。
米の品種改良のことを知らない人間がそう言っているだけ。
当時の米は今より田植えが早く、収穫が遅い。
>当時の農家は大規模経営なので、いつでも男の一部は出兵できる。
規模が大きければ田畑も増える。
当然、作業量も増える。
というわけで無理。
>4、正確には寄親寄騎と言い、封建制度では当たり前の、鎌倉時代以前からある軍制。
それはただの主従関係のことだろうが。
部下を地方ごとの軍団に分けて担当させる事とは全く違う。
>5、「てつ」に関しては伝聞による1つしか一次史料が無い。
だからといって否定するには材料が足りない。
というよりこんな工夫は信長でなくとも誰でも思いつく程度のもの。
用途が限られすぎているからやらなかっただけ。
少なくとも記録が残るほど、大規模には。
>6、実際は、桶狭間後は、東へ侵略の手を伸ばしている。徳川により、それが不可能になっただけ。
「不可能になった」じゃない。
自分から徳川と手を結んだのだ。
だいたいその後に西へ行く判断をした事への評価は?
聞きたいもんだがねぇ。
>当時、最高の食料生産地帯である、濃尾・伊勢平野を手に入れてからだ。
大嘘をこくな。
三河・遠江・駿河は豊かな食料生産地。
だいたい「天下布武」の印を使い始めた時点では伊勢は手に入れてない。
ちなみに宗教関連の回答をしてる方が大正解。
信長は天皇を含む宗教を何もかも支配しようとしていた。
西洋はいまだにこれに追いつけていない。
ローマ教会を焼き討ちしたらようやく日本と並んだと言える。
一番有名なのは鉄甲船です、木の船に薄く延ばした鉄で覆う事により、火気の攻撃に耐えうるようにしたのです。
このような船を西洋が造船したのは、1800年代になってからですから、およそ230年前に信長は成し遂げています。
鉄砲の大量使用ですね、2000とも3000とも言われる鉄砲を長篠の戦いで使用しました、三段撃ち云々の真偽は別にしても、このような大量の鉄砲を使用しての戦いは、西洋から70年ほど先駆けています。
ですから、どちらも当時の宣教師から教えてもらったのではありません。
幼少の頃は、本来は坊主(先生)に勉学を学び、守役に所作や戦についての講義を受けて育つものですが、どう考えても信長あhそのような者は学んで無いでしょうね、信玄が孫子の言葉を旗印にしたような知識など信長には必要の無い知識で、ひたすら実戦で磨いた知識を使っていたのです。
コロンブスの卵のような発想です、火をつけられて負けた?毎回毎回何やってるんだ、だったら鉄で覆った船造れよ????鉄って水に浮かばないだろうとは思いません。
一発撃ったら次撃つのに時間がかかる、その間に突撃を喰らうし、命中率上げるにはひきつけるだけひきつけるので、やはり突撃の餌食ですからね、だったらいっぱい鉄砲持って、皆で乱れ撃ちすりゃ最初の突撃部隊は全滅に近い状態になるじゃねーか、そしたら次の発射までの時間は稼げるだろう。
鉄砲に最初に着目したのは武田信玄とされています、しかし命中率が悪く不発も多かった為、鳥を脅す道具だと馬鹿にしたそうで、それでもあの馬鹿でかい爆音は相手の士気をくじくのに良いだろうと、少しは所有していたそうです。
謙信も同じ感想を持っていたようで、金は高いが戦ではあまり役に立たないと思っていたようです、一人や二人の犠牲ならば突撃して、鉄砲隊など踏み潰してやると考えていたそうです。
>脇田修先生は、北陸への交通遮断も伴った信長の楽市楽座を
>「流通の自由化よりも、比叡山への経済ハラスメント」としている
脇田 修さん は、そんな「珍説」は唱えてないと聞いています。
違反報告すべきでしょうか脇田さん、に。
織田信長は木津河口の海戦で最初、織田の水軍が毛利の水軍に
敗れて本願寺の水運補給路を遮断できなくなったので
九鬼氏に毛利の小船水軍がチョコマカ動いて船に放火
できないような大きな船を鉄砲うたれても大丈夫なように鉄で覆えと
命令したが九鬼は、ひじょうに困りました、信長に反論しました、
鉄で覆うと船は重くなりマトモに航行は出来ないと。
しかし信長は、何、外洋で航海するようなモンを作れとはいっとらん、
大砲を鎮座できて、毛利どもと本願寺の海の交通を
通せんぼ、して砲撃できる浮かぶ陣地ほどの役に立てばよいとして
そういう特殊な用途の巨船を作ったが、あくまで本願寺の沿海を
脅威さすためだけに作った、あつらえもの、でした。
宗教的権威を信じず、その権力を否定しても<罰が当たらない>という体験を多くの人に与えたのは先進的だと思います。
アメリカ移民も宗教的動機の影響が大きく、モルモンみたいなのがゴロゴロしていたわけですからね。信長がモルモン的な教団を見たらかまわず虐殺してると思う。
日本人の宗教観がどこから出てきたか、どこから捻じ曲がったかがよく判らないんだよね。ただ中世の宗教のありようには現代日本の宗教観念と相容れない異質なものを感じる。どこかで捻じ曲げた人間がおり、信長一人の功績ではないにせよ何らかの役割は果たしたと思うんだよね。
信長を「すごい革新的な」と唱える小説家は、
1、楽市楽座や関所撤廃など商業重視。重商主義。
2、農閑期にしか戦えない農民兵にかわる傭兵による常備軍
3、鉄砲重視
4、方面軍
5、鉄甲船
6、桶狭間の後に、東に向かわず、西へ、天下取りに動いた
などと述べます。しかし、学者の研究等では、
1、楽市楽座は商人主導の、当時は珍しくもない政策。信長の楽市楽座や関所撤廃は不徹底。歴史学者の藤木久志先生と脇田修先生は、北陸への交通遮断も伴った信長の楽市楽座を、「流通の自由化よりも、比叡山への経済ハラスメント」としている。また、信長は当時の通貨不足に対して、なぜか、通貨の発行に消極的であった。この点は、他の戦国大名に劣っている。
また、重商主義とは「商業を重視する政策」では間違い。当時の輸入超過の貿易は重商主義に値しない。
2、全くの間違い。上杉と武田は田植えや収穫期の農繁期にガンガン出兵している。当時の農家は大規模経営なので、いつでも男の一部は出兵できる。また、この時代では、銭で人を雇用すること自体が一般的ではない。
3、どの大名も重視している。徳川方の記録では、武田の鉄砲に徳川が苦しめられている。
4、正確には寄親寄騎と言い、封建制度では当たり前の、鎌倉時代以前からある軍制。源氏も平家も足利も上杉も武田も、大きな武士団はみんな、寄親寄騎だったのだ。
5、「てつ」に関しては伝聞による1つしか一次史料が無い。九鬼水軍に史料が無い。単に「大きな戦闘用の船」に過ぎないかも知れない。
6、実際は、桶狭間後は、東へ侵略の手を伸ばしている。徳川により、それが不可能になっただけ。天下取りを広言するようになったのは、関東平野を除けば、当時、最高の食料生産地帯である、濃尾・伊勢平野を手に入れてからだ。
信長はかなり有能な人物だが、「時代を超えた革新」というのは、誇大広告。
むしろ、味方の座や荘園に安堵状を多く発行してしまったために、長生きしてしまったら、土地改革が遅れてしまう。信長が良いタイミングで死んでくれたから、秀吉が太閤検地を日本中に広められたのだ。太閤検地により、荘園制度が根絶されて、下人や作人が「解放」されて、自作農が作られたのだ。
※信長革命児伝説はバブル期に造られた。後に、その元ネタの「信長記」は創作、「武功夜話」は偽作だと判明している。
カロナゴヤ氏>
武士が寺社の権益を侵すことは、普通のことであり、延暦寺の荘園は、幕府と近江の武士によって奪われていた。
武士は神仏よりも土地を拝める。
信長もその一人。
0 件のコメント:
コメントを投稿