織田信長は、安土城築城時に臨済宗の摠見寺を建立しました。
このお寺は、信長にとってどんな意味があったのでしょうか。
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摠見寺は安土山にあって臨済宗妙心寺派で山号を遠景山といい、天正年間安土城の築城にともない織田信長によって建立された。安土山を百々橋口から摠見寺跡まで登ってみれば、この間にほとんど曲輪などが無いことに気がつく。
これは 大手道が両側に伝羽柴秀吉邸や伝前田利家低等、多くの曲輪を配しているのとは対照的である。曲輪が無いということは、言い換えると防御施設がないということであるが、戦国期の城として防御施設のない登城道というのはおおよそあり得ないことである。「信長は戦うためだけの城として安土城を築城していなかった」という結論に至る。戦うためだけではない安土城に、摠見寺が担った役割とはなにか
信長が永禄11年(1568)に近江に侵攻した以後の元亀争乱(近江における元亀年間の戦い)から天正4年の安土城の築城に至るまでの戦いの歴史を振り返ることで、信長の意図とともに摠見寺の担った役割が見えてくる。
六角氏との戦い・浅井氏との戦い・長島一向一揆との戦い・越前一向一揆との戦い。 これらの戦いに共通するのは、いずれも一向宗勢力が関与している点である。元亀2年(1571)9月志賀の陣で浅井・朝倉軍の援助をした山門(比叡山延暦寺)を加えれるとすれば、信長が永禄11年(1568)に近江に侵攻して以来、天正4年(1575)に安土城を築くまでの約7年間にわたって戦ってきたのは中世の宗教勢力であったといえる。
当時、蓮如を中興の祖とした浄土真宗が多くの門徒を集め、その門徒たちを中心とした一向一揆衆が武家勢力にも匹敵する勢力を持ち得ることができたのは、「本尊である阿弥陀仏を信じ念仏を唱えれる者は、罪人であっても必ず極楽浄土へいける」といった教えであり、阿弥陀仏にすがろうとした庶民の力である。
中世宗教勢力との戦いの中で信長が学んだことは、、「武力をもって地域支配はできても、人心を掴むためには宗教(信仰)が必要欠くべからざるもの」
信長は安土城の築城で地域支配と共に天下布武への第一歩とし、城内に摠見寺を建立することで、人心の掌握を図ろうとしたのではないか。大手道は天皇を迎え入れることも含め、権力と武力による天下布武への道であり、百々橋口から摠見寺に至る登城道は仏法の力を利用した人心掌握の道といえる。
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