本能寺の変について皆さんは黒幕は誰だと思いますか?
明智光秀が謀反をおこしたのは明白ですが誰が後ろで操っていたのか?
1.羽柴秀吉(私は今でもこいつだと感じています。)
2.徳川家康
3.朝廷
4.明智光秀単独説(謀反をおこし、目的を達成した後の行動が光秀にしては楽観的すぎるような気がする。)
5.その他
理由等も教えて下さい。
その後の光秀の行動からして、4の単独説でしょう。次は3の朝廷黒幕説でしょうか。直前に朝廷は信長に対し「いかなる官にも任ぜよう」と事実上、政権を選択させる使者を送っていますが、信長は鼻で笑ったと言われています。『時の政権の正当性は天皇によって担保される。』昔からの日本の国体の仕組みであり、天皇家が世界で唯一万世一系統で残っている最大の秘密です。(権力争いから超越した存在になることにより誰も手を出さなくなりました。~すごい知恵と言われています。)現在も選挙によって選ばれた与党の党首が国会で内閣総理大臣に指名され組閣した後、皇居にて天皇から認証されることにより政権の正当性が担保されています。平安時代から現在まで変わっていません。信長は唯一侵してはならない日本のルールを侵そうとしました。光秀がこれを聞いて、決意した可能性もあります。
質問者には申し訳ないですが、1はまずないです。秀吉自身が中国大返しを振り返って子飼いの武将達の前で、はっきりそう言っていますから。「あの時ばかりは、援軍に来るはずの光秀が謀叛を起こし、信長様もやって来ないと知って、毛利の大軍が目の前に迫って来ているのに自分は一体どうなるのかと、ただ狼狽するばかりで頭の中は真っ白になり我を見失っていた。その時、官兵衛が軍扇で我が肩を叩き「殿しっかりなさりませ、天下取りの運が廻って来ましたぞ」と諫言され、我に帰りその気になった」と。
補足について:大きな勘違いをしておられるようですが、勝てる戰で信長を安土から引っ張り出すために援軍を要請したのではなく、当時毛利は3か国差し出して降伏を申し出ており、秀吉はこれを信長に報告しただけです。(高松城の救援のために毛利本隊が出陣してきた事と)なぜならば、秀吉は前線の一司令官にすぎません。国同士の交渉(すなわち外交)は戦国時代の当時も国同士で行っていました。だから、信長に報告したのです。勝手にけりを着けたら信長の性格からして、それこそ軍例違反で秀吉は信長に一族皆殺しにされます。~現在でも重罪で、国によっては銃殺刑も十分あり得ます。(信長はかつての信長包囲網の中心であり、石山本願寺を10年間救援し続けた毛利を許す気はなく、光秀に出陣を命じ、毛利と決着を着けるべき、自らも出陣しようとしたのです。)
光秀は切れ物です秀吉に匹敵かそれ以上の人物だったと言われており、その切れ者の光秀が信長を打ち取った後の事は支離滅裂感があります。行き当たりばったりの感じですこれはかなり考えずらく、研究者も首を傾げてるようです
周到な光秀がこんな行き当たりばったりをやるのは確かにおかしいと感じます、これは言われている公家などからそそのかされてってのなら、前々からなんらかの工作をしてるはずです、秀吉陰謀説も秀吉に利用されてるってのを光秀が見抜けないはずなくこれも考えずらいのでは
結局なぜ何でしょうか?
黒幕はいません。
①事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物がどのようにして光秀と接触したのか説明がない。②実行時期の見通しと、機密漏洩防止の対策への説明がない。
③光秀が謀反に同意しても、重臣をどう説得力したのか説明がない。
④黒幕が事件の前も後も光秀の謀反を具体的に支援していないのはなぜか説明がない。
⑤裏付ける史料がない。
以上5つが黒幕肯定論者の穴です。誰もこの5つを説明できないのです。
おわかりですか?
光秀の単独犯行だということが。
4、単独犯。
光秀は、本能寺の変の後、細川と筒井に手紙を出しています。
考えて見てください、当時でも謀反は大罪なんですよ、だから寝返らせた大名を、お前は利で簡単に寝返るので信用出来ないと殺す事だって有るでしょ。
あの戦国時代でもこれは非情に意味嫌われる行為だったのです、これを肯定すると、さすがに誰を信用すればよいのかとなりますからね、何も出来なくなってしまうでしょ。
その、細川と筒井を見方にするのが光秀の一番最初にしなければいけない必須事項です、あなたならどうしますか?
自分なら、理由を書いて自分の利だけでした行為ではない、誰々も合意の上の行動だから安心して合力して欲しいって書くでしょ、下手したら嘘を書いてでもこの二人を見方にしないと畿内を抑えれないんだから、この二人が味方していれば秀吉には絶対負けませんよ、秀吉も山崎で性急に戦をしなかったでしょうが、もししたら負けていたと秀吉本人が筒井に言ってるんだから。
でも、実際に誠実な人だよね光秀は、かねてからの遺恨これありって、それじゃ細川も謀反人光秀にほいほいついていけないよね。
朝廷でも家康でも秀吉でも、実際何も書いていないし、黒幕がいたとしたら、あまりにも不細工すぎるでしょその黒幕が。
1に一票です。
おおざっぱに言うと直後に一番得したヤツ…なので。
朝廷。信長が既成の概念全てを否定し、新しい世の中を作ろうとしたから。元号まで口出しされ改変されては、もはや権威もなにもあったもんじゃない。
僕は光秀単独だと思います。
面白く極端に考えたら、家康の接待=殺す。
お前が家康を殺せと信長に命じられいたのではないかと。。。。
でも、光秀はその素振りも見せず、もたもたとして普通に接待をしているので
しびれを切らした信長が怒りだし万座の席で叱責され、お役御免。
その上、領地を召し上げられ切り取り御免と言う無茶を言われる。
そして秀吉の手伝いに行かされる。
恥をかき、屈辱を味あわされて過去の事も併せて
『俺には俺のやり方があるのに!くそーーーーー信長!殺してやる!』と
思ったのではないか。
光秀の軍の兵士が残している日記に『家康を殺すのだと思って従軍していた』と
言う物があります。
そして、直前に信長を討つと言うのを聞かされたようです。
何も知らされず進軍している一兵士が、勝手に『家康を殺すんだ』と
思いこんでいたと言う事は、元々家康を殺す計画があったから混乱なく
進軍できたのではないかと。
怒り心頭の光秀は、咄嗟に家康暗殺計画を利用できる今なら、もし信長に進軍を
知られても怪しまれず本能寺近くまで行けると思い、『自分の領地、家臣を守るには
今しかない』と謀反を起こした。
だから、決行後の対応がグダグダになる。
なーーーんて妄想はどうでしょうか。
まあ、『信長嫌い』と言い合う事はあっても、光秀を操って謀反を起こさせ信長を
殺させるなんて推理小説みたいな事は冷静に考えて催眠術でも使わない限り
無理でしょうから理由はどうあれ単独行動でしょう。
陰謀説を説いている研究家も、陰謀があったと言う前提で考えれば色々
黒幕は浮かぶが、陰謀だけを信じた偏った見方だと言ってますしね。
『時は今、あめが下しる、五月かな』も連歌の専門家からしたら
強引な解釈らしいですし。
5その他、です。
明智光秀は謀反決行の直前、家臣たちに聴いています。
予定どおり西へ進撃するか反転して東へ進撃するか、と。
東へ進撃する案を家臣の大多数が賛成したから
謀反は決行できたのです。
家臣の大半が西へ行こうと言ったら謀反は起きていませんでした。
もっとも光秀は決議の強制は、しなかったので
謀反に従わなかった武者もいました。(可児才蔵など)
これは非常に多くのサムライたちが信長はイヤだと思っていて
明智の謀反に賛同したことを意味しています、そういう勢いの
下からの突き上げに乗って明智光秀は、その大きな流れを
指揮して織田信長を討ったことになります。
だから、それを何に例えるかは、軍隊を味方にして
軍の中枢層の大多数の参加を確立して体制を
転覆させるクーデターのようなものだと思います。
明智光秀のような武将単独で謀反の指揮を
家臣らに有無を言わさず強要させるには
光秀はカリスマが足りなかった気はします。
チェニジアで起ったアラブ諸国の反独裁運動の多発が
タイミングよく好例でしょう。
ムバラク大統領というのは、終身大統領を
しようとしておりサダト大統領が暗殺されて以来
ずっとエジプトの首領をやっています、
このような独裁者の体制は
軍部の支持を得てでないと
とても革命とか体制転覆は無理であり
織田信長は日本史上、屈指の独裁者です。
明智光秀は、クーデターを家臣たちに提示して
家臣らに支持されたので体制転覆が可能でした。
5、当時の日本社会です。単独では黒幕にもなれません。たくさんの自称黒幕はいるでしょうがね。
こんにちは。
この問題も謎が多いですよね。
個人的には1か2と思います。
4は彼の性格からして(想像ですが)、一人で出来る事とは思えません。
誰かが操ったとしか考えられません。
なので、少し面白い説として、信長の自作自演説というのも。
信長が光秀に本能寺を攻撃させたというもの。
信長は、バーンアウト症候群に陥り、何もかもやる気を失った。
蘭丸に首を切らせたと言っているが、死体が見つかってないから死んでないのではないかというもの。
これも滑稽ですね。
補足を受けて
援軍は光秀だけではありません。
信長公記「惟任日向守、長岡与一郎、池川勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。」
野望説、(一瞬のチャンスに賭けた)が最も欠点が少ないです。
黒幕説には証拠が無く、また、準備期間や伝達時間から考えて、作家の想像の域をでれませんね。
「領地を取り上げられて、毛利領の出雲・石見を切り取る」「母を見殺しにされた」「家康の饗応で叱責」などの恨み説も創作。信長は「光秀を見習え」と広言してましたし、また、光秀の地位は、近代の「近衛第2師団長」というべき地位でした。身内や側近並みの信頼度です。
また、信長公記によれば、先に出発するも、信長の指揮下で、高山右近や中川瀬兵衛たちと共に、秀吉を助けに行くことになってましたから、これも名誉なことです。(同年の武田攻めよりもデラックスな出陣)
革新対保守による対立説も、バブル期の作家の革新的信長像をうのみにした説であり、史実とは思われません。
また、光秀が、変後「何もできてない」というのも間違いで、わずか10日余りで多くの事をなしえています。
※電話も郵便局も無い、連絡だけでも時間のかかる時代の10日余りは、現代の1日か2日でしょう。
変後、短時日で、光秀は近江と若狭の国人衆の大部分を味方に引き込んでいます。蒲生や山岡の例外を除いて。(つまり、主殺しという汚名は、さほどマイナスにならなかった、という事。光秀は柴田・徳川など東側の勢力に対抗する準備に取りかかっていた。)
さらに、筒井もいったんは、光秀に従って、河内に軍の一部を侵攻させています。後に、秀吉の接近を知って裏切りましたが。(秀吉が早く帰ってこなければ、光秀側でいたという事。)
細川は、例外的に中立となりましたが、積極的に敵対したわけではありません。
光秀自身が、「50~100日で近国を制覇する」と豪語してますが、もっと早いペースで、畿内を制覇しつつありました。
秀吉が早く帰って来なければ、内部分裂していた四国遠征軍も撃破され、摂津の国人衆も吸収して、相当な大軍に成長していたでしょう。
(一級史料天正記によれば、最大寄騎の宇喜多を残した大返しの実態は、半ば成功・半ば失敗の中返しでした。山崎に間に合ったのは1万人余りでした。秀吉は、現代の大阪府にいた摂津衆と四国遠征軍残党を吸収して、それを主力として、山崎の戦いで勝ちました。特に、摂津衆1万の吸収が戦いの帰趨を定めました。秀吉は「信長様は生きている」というデマによって、彼らが光秀側や中立に陥る事を防ぎました。信長の死体が見つかっていなかったので、結果的にこのデマはホームランになりました。万が一、信長が生きていれば、光秀側に勝利はあり得ませんからね。)
秀吉は、自身の家来は少なく、信長の家来を借りた状態でした。ですから、信長の急死は、軍の解体の危機でした。史実では奇跡的な手腕で、譜代という中核を持たない、特殊な戦国大名として自立できたのですが、これは、誰にも予想できなかったでしょう。これも満塁ホームラン。普通なら、滝川軍のように解体するはずでした。
柴田は前田など有力寄騎を北陸に残していて、全軍を率いる事ができませんでしたから、近江国内で足止めされていたでしょう。そのうちに、膨張した光秀軍に襲われます。
徳川が光秀と戦うとしても、近江を抜けるのに手間取っているうちに、膨張した光秀軍に対抗できなくなって、引き上げるしかなくなるでしょう。
このように、秀吉の大逆転ホームラン2連打が無ければ、光秀が勝ち残る可能性は十分にありますから、本能寺の変は、単なる下克上なのでしょう。
なお、ホームランを打つことを前提とした作戦などあり得ませんから、秀吉黒幕説は間違いでしょう。一揆に襲われかけた家康も黒幕のはずは無いです。
※四国の政策についての、親三好派(秀吉)と親長宗我部派(光秀)の対立説は、一面の真理を含むと思われます。が、あくまで、一因でしょう。
※山崎まで二日間では無い。
みなさんがおっしゃっているように、信長は殺されても仕方ない(殺しは良くないです)と思われるくらい我が儘放題でした。
誰が黒幕でも有り得るというのは、逆に明智を利用すれば誰にでも出来たことですから容疑者多数のため、しかも、信長が殺されても仕方ないと思われてる以上、みんな黒幕なんて誰でもいいってことになってしまうんですよね。こんなにやりやすい犯罪はないのでは?
言ってみれば一種の黙殺とも言えるのではないでしょうか。
私個人的には当時としては驚異的なスピードで明智を退治できた秀吉が一番怪しいですね。
たった2日で300km近くも大群を率いて移動するなんて当時では神隠しくらいしか出来ませんよ。
本能寺の変はたくさんの説があります。黒幕説はその一説に過ぎません。簡単に説を紹介すると、信長から天下を奪わんとする野望説。数多くの仕打ち(丹波における母親の処刑(正確には波多野家の人質にさせられ磔に)、自身の領地の没収、安土城に徳川家康を招いた際の接待役を解任される、武田を滅ぼした戦勝祝いの席で、「これでわしらも骨を折った甲斐があった!」との発言で、信長に「お前ごときが何をした!」と蹴り飛ばされる。光秀は髪が薄かった為金柑頭とよく罵られた)などを受けて謀叛を起こした怨恨説。
加えて四国討伐回避説、発作説、信長の野望阻止説、徳川討伐と土岐明智家滅亡の危機回避説などがあります。
それと黒幕説は羽柴秀吉や徳川家康など誰をとっても、あっても状況証拠に留まるので都市伝説並みの信憑性だと言われ然程有力視されていません。
私は怨恨説が一番有力なのかなと思います。何故ならもし私が光秀の立場なら信長から受ける仕打ちはとても耐え難いものだと思います。
乱世の習いとは言え、光秀も人間です。実の母親を磔にされ、まだ領地を治めてもいない山陰地方(石見、出雲)を切り取り次第と言って今ある領地を没収されたり理不尽なことをされ続ければ主君に対して叛意を抱いても不思議ではありませんし、謀叛を起こす動機としては十分だと思います。
後、本能寺の変には直接は関係してませんが、光秀は熱心に仏教を信仰していた為、残虐非道と言われた比叡山焼き討ち事件も、事件から時が経ってますが、変を決起させた一因とも言われています。
本能寺の変は数多くの謎があり解明されてないことがたくさんあります。なのでどの説を信じるかは個人の自由だと思いますが。
余談ですが、黒幕説の一つの逸話で光秀が山崎の合戦後に家康に匿われて、それが後の天海大僧正こと南光坊天海だとする説があります。これもかなり信憑性に欠けますが。
4だな。
信長を裏切ったのは光秀だけじゃない。浅井長政や松永久秀 荒木村重など。彼らに黒幕がいたんでしょうかね?
明智勢は長浜城も攻めてなかったい?秀吉が黒幕ならそんなことするかい?それなら家康の方がよほど怪しい。嫡男信康の件で動機は強烈だし武田攻めの後や安土接待で信長が光秀を打擲した現場に家康もいたわけで信長憎しの動機をお互い共有できる。また本能寺の変で穴山信君を同行し彼は脱出の際変死してる。しかも穴山領や甲斐信濃は都合よく家康領になっている。畿内から領国に帰った家康なのに信長の敵討ちに兵をすんなり出していない。また謀反人明智の重臣斉藤利三の娘春日を嫡孫家光の乳母にしてるなどなど。
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