戦国時代の足軽の戦闘意欲はどれくらい?
戦国時代に大名同士のいくさが行われた際、足軽として招集されたのは主に農民ですよね。
普段農民である人々がいざ戦場に赴いて、戦う気満々になるものでしょうか?
いきなり人を刺したりできるものなのでしょうか?
足軽の戦闘力はひとくくりに強い、弱いと断じる事が出来るものではなく風土、支配大名の統治方法等によって増減します。
大別すれば出自に依って2通りに別れるのは先に述べられた回答者の通りです。
農民出身の足軽は平時は農業を行い、戦時には村に対して壮丁何人と言った形で徴募される兵隊です。
農民出身の彼らは一般的に強いと言われていますがそれは戦国時代においては隣国へ攻める事も、また隣国から攻められる事も同様に戦に負けてしまうと自分たちの村が被害を受ける事に繋がってしまうと言う強迫観念が有ったためです。
狭い日本での隣国同士、あっちもこっちも予防戦争と防衛戦争を繰り広げている訳ですから農民は必死になって戦う事でしょう。
しかし、それだけで農民出身の足軽が強いと断じる事が出来るかと言えば例外があります。
一つは領民と領主の関係が良好でない場合、村の責任者が徴募に対して人数は揃えるものの弱い者、老齢な者を出して微妙なサボタージュを行う事がありました。武田家の場合、信玄から代替わりした勝頼の代にはこういったサボタージュのせいで弱体化しています。
二つ目は本来農民は守る事を理由に戦っていますから戦いの意義を感じられない状況になると士気が低下しました。極端な遠隔地への出兵や農繁期の無理な出兵等は足軽の戦闘意欲を微妙に低下させます。
最後に風土や家風の問題があります。
土佐の一領具足や薩摩隼人を自認し尚武の気風の高い島津氏などは非常に高い戦闘力を持っています。また武田、上杉、北条氏なども家風や民政上の理由から戦闘意欲は高かったと思われます。
(北条氏は隣国が強すぎる為弱い印象がありますが、上杉謙信相手に小田原城の籠城戦を遂行できる統率と粘り強さはポイント高いです。)
結局の所農民出身の足軽と言っても事情は色々で、結局の所は統治する側の人次第で強くも弱くもなります。
土佐の一条氏や周防の大内氏など滅亡直前の公家大名の戦意の低さは目を覆う物があります。
一方、食い詰め者とか士気が低いとか散々の給料で雇われているタイプの足軽ですが、都市部にいる余剰市民が募集に応じて軍役を務めました。現代の首都圏でもそうですが、その地域出身者以外の人間が多数混じっていました。
そのため土地を守ると言う意識は薄く、もっぱらその日を生きるために略奪を楽しみに生きているようなイメージです。彼らは味方が優勢の時は略奪のため調子に乗って戦いますが、一度劣勢になると逃亡したり寝返ったり誠にあてになりませんでしたw
しかし、これら都市部の足軽のイメージは応仁の乱以降から織田信長の台頭までになります。
織田信長は足軽による略奪を禁止し、彼らに規律を与えました。
そして、一年中戦闘可能な常備軍とし天下布武の先兵として活躍したのは歴史の通りです。
たしかに基本的な身体能力は農耕作業に従事している農民出身の足軽の方が強いのですが、常備軍足りえる都市部出身の足軽達には十分な訓練を施す事が可能です。 戦術に対する理解、また当時の最新兵器、鉄砲の運用には都市部出身の足軽なしでは組織的な運用は難しかったでしょう。
結局のところ足軽達はそれぞれの理由で戦いに出て人を殺していた事でしょう。
戦意に言及するならば守りに強い農村徴募の足軽隊、戦争のプロとして抜け目のない動きをする常備足軽隊と戦意の高い場面がそれぞれ異なったと思います。
織田信長が足軽による略奪行為を禁じるまでは、
勝利側の兵による略奪行為は暗黙に認められていて、
かなり大きな副収入となっていたと聞きます。
とくに、農民上がりの足軽は、
普段は略奪される側で鬱憤がたまっていたでしょうから、
勝利したときの略奪を楽しみに戦っていた者も多かったのではないでしょうか。
もちろん首級を挙げることができれば、望外の出世も望めましたし、
戦場にはいろいろなチャンスが転がっていたので、
足軽たちはけっこうギラギラしていたのではないかと思います。
出世欲でもお金のためであっても、少なくとも現在の裁判員制度よりもやる気はあったと思います。
嫌だと言えば殺されかねないですからね…。
日本で、さきがけて足軽を大勢、味方につけたのは
応仁の乱の東軍であると云われています、西軍が
大兵力を引き連れて大内の軍勢が西軍の主力に
なったため東軍は押されてきて、また、西軍の朝倉が
強く、西軍は地方から有力な戦力が出たので
優勢だったそうです。
そこで東軍の総大将・細川勝元は京都検非違使の
密偵の出の骨皮道賢を召しだして、お前に大きな
権限を与えるので京洛の足軽を ありったけ集めて
東軍で指揮をとって戦えと命じます。
骨皮は犯罪者と渡り合ったり、元は犯罪者だから
そういう渡り合いができたとされ、そういう荒っぽい
人物だったため荒っぽい連中の間で人望があり
骨皮の影響力で骨皮は軍勢を集めて京の
稲荷山に陣取って西軍と戦いました。
稲荷山は当時、地理上、軍勢の要衝だったため
西軍は大兵力を集めて本気で稲荷山に
攻めてきて、さすがの骨皮の軍勢も蹴散らされた
というそうです。しかし骨皮の健闘は
細川勝元にとっては良い時間稼ぎになって
細川は、その間に西軍の勇・朝倉を東軍の味方に
寝返らせたというそうです。
足軽は武士ではありませんからね。 敵の首を50ぐらい取ったら組長(准武士)になって、100取ったら足軽隊長(武士)になつて、足軽隊を動かして戦に勝てば足軽大将(大名)になつて郡とお城が持てるのだから、張り切っちゃう若者は多かったと思いますよ。 当時の差別ランクから言うと下の下から上の下ぐらいになれるから。 秀吉は上の上に成れましたが。
農民でも次男三男などは跡をつげる可能性はないので、戦で一旗上げてやろう、なんて人はそれなりに強かったでしょうね。
足軽は、足軽になった理由から、二種類に分けることができます。
①大名の家臣が、軍役を果たす為に、与えられた領地の村々から集めた足軽。
②分けてもらえる田畑がない農家の二男三男で行き場のない若者などのあぶれ者を、米や金で集めた足軽。
《①について》
農村から、かき集められた足軽は士気が高かったといわれえいます。なぜなら、農村単位で集められるから、戦場で役に立たなかったら、村に帰ってから肩身が狭くなるから。
《②について》
金や米で集められた足軽は士気が低かったといいます。米金もらえるといっても、命あってのこと。負けたら命がないし、逃げても地縁血縁がない分、後腐れがないから。もっとも、それは主君の側も同じで、いくら死のうが後腐れがない。百姓ではないから、死んでも国内の生産高が落ちない。なので、死んでも、家臣に恨まれない。一番大きいのは、1年中戦えるということです。百姓が忙しい農繁期でも戦えるということです。
ちなみに、こういった足軽を大量に採用したのが織田信長です。なので、士気の低い弱い足軽でも戦えるようにと、近づいて突くのではなく集団で遠くから叩く『長槍』を持たせたり、『鉄砲』を装備したり、『柵』や『土塁』を作ったりと、戦術の変化へと繋がりました。また、こういった使い捨てキャラを多く雇い、高価な装備を持たすためにはお金がかかります。なので、こういった金で雇う足軽の大量保有が、信長の政策を、農本位主義よりも重商政策に傾けていった行った一因とも言われています。
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