織田信長は、戦が強かったんですか。
負けても、致命傷にはなっていません。
本能寺では、致命傷になりましたが。。
基本的に自分の領地では戦ってないようです。
自分の領地が荒れるから?
戦の指揮の才能も持っていたんでしょうか・・・
社長業みたいな感じで、
家来にかなり委任していたんですか。
本人はあまり陣頭指揮はしてないんですか。
戦が強いというより、上手いのでしょう。
適材適所という言葉があるように、信長は人材起用に定評がありました。それは戦の場でも同じで、織田家臣には明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・荒木村重など戦の上手い家臣が大勢います。(柴田勝家は上手いというより、強い)もちろん信長が領地外で戦っていたのは自領が荒れるからでもありますが、負けたときの被害を少なくするためでもあります。事実、信長は敗戦しても領地を失うことは殆どなく、兵力すら温存させています。よほど見切りが良かったのでしょう。しかも信長は小さな合戦を入れると10度以上は負けており、天下人と呼べる人間から想像すると考え辛いことですが、信長は天下人まで上り詰めました。これが、私が信長を戦が強いのではなく上手いと思う理由です。
また織田軍の特徴は、兵が多い、兵が拙速、兵站が強固...ということに尽きます。兵が多いのは元々の半農半士+傭兵を雇っていたからであり、兵が拙速だったのは街道を拡張整備したからです。街道を整備するなんて当たり前のことと思いがちかもしれませんが、街道を整備すると敵が攻めてくる速度も速くなるので、当時の戦国大名の殆どは街道を敢えて整備していませんでした。しかし、信長は物資の流通や兵站を考慮し、街道を整備しました。それにより兵は拙速となり、兵站が確保され、富を得て鉄砲などの武装を強化できました。また兵站を確保して略奪行為を禁止することで、占領地の統治を円滑に行うことも出来ました。(当時、兵たちの恩賞として略奪を認めるのが通常)これにより信長の領地は一気に広がったのです。
尚、家臣に戦を任せたのは、単に領地が広くなりすぎて一人では手に負えなくなっただけのことです。肝心な戦には、信長は自ら進んで指揮を執っています。
強いです。戦の本質を最も良く理解し実践していた人物だと思います。
予定戦場に敵よりも多くの兵力を集結させる。それができなきゃ戦わない。
その単純だけど重要なことを徹底して行いました。
彼自身の運命を飛躍させた桶狭間の奇襲戦術も、所詮「マグレ」と本人が
一番低く評価していたでしょう。
また戦の指揮に関しても、尾張の一大名の頃の戦であったり対本願寺戦
での味方の救出戦であったり、才能をうかがわせるエピソードは多いですので
有能だったと思われますが、彼の真骨頂はやはり戦略でしょうね。
ちなみに大大名になってからは、各方面での戦は家臣に任せることが多くなります。
だって忙しいから・・・。人使いの荒いといわれる織田家にあって最も酷使したのは
信長本人の体だと思いますよ。
それでも重要であったり必要性があれば自分で指揮しましたから、
「俺はメチャメチャ忙しいんだから、やれることはお前らやっとけよ。」な感じだったと
思います。
あと領内での戦ですが・・・。昔なんかの本で読んだんですけど、兵が逃亡しやすい
らしいですよ、自分の家が近いと。ちょっと負け戦っぽくなると「逃げちゃえ」って感じで。
それと、自分の領内が荒らされるのが嫌だったんだと思います。
まー自分の家に友達が来るのが嫌な私は、この気持ちよく理解できますよ。
「お前、ベッドの上でポテチ食うなよ。っていうかジーパンで座るな。」って感じで。
ごめん最後余計でした。
戦術面でも当然うまかったですが、真骨頂は戦略でしょう。
彼の場合、強い敵とは直接戦闘していません。(来られたら向かってはいますが)
強い敵に対してはプライドを捨て頭を下げ攻め込まれないように手を打っていますね。
弱い敵から順次片付け、力をつけながら、相手を調略し、ある程度形勢が定まってから最後の仕上げに戦争を仕掛けています。
だから戦闘で勝つのは当然。これは儀式なのです。
桶狭間は見事!
あたは三河の徳川の力が大きかったと思います。
>>織田信長は、戦が強かったんですか。
強かったから戦国時代を
のし上がれたと思います。
>>基本的に自分の領地では戦ってないようです。
>>自分の領地が荒れるから?
「桶狭間」など一応、自身の領地でして
「武田氏」が「美農」に侵攻した際も
兵を出しています。(負けましたけど)
攻め込まれたら領内で戦っていますので
荒れるのは嫌だったでしょうが
領内で戦ってはいます。
>>戦の指揮の才能も持っていたんでしょうか・・・
「桶狭間」「長篠」など相当あったと思います。
>>社長業みたいな感じで、
>>家来にかなり委任していたんですか。
>>本人はあまり陣頭指揮はしてないんですか。
当初は陣頭指揮してますが
領地が広がってからは「方面軍団」を作って
各軍団長が頑張っています。
領地が大きくなり各方面で戦争しますので
1人では無理だったんですね!
信長は、戦略家としての有能さは勢力拡大の急速さを見れば納得いきますが
合戦での指揮官としても有能だったのではないかと思います。
家督相続をめぐる家中の内紛では、陣頭指揮をして対戦相手の柴田勝家に
一喝を加えるほど近接するなど、かなり勇猛な気質を見せていますし、倍以上の
敵を各個撃破に成功するなど、小規模な軍隊指揮官としても有能だったようです。
勢力が拡大してからは方面ごとに家臣に委任するようになりますが、自身は親衛隊
と呼べるような軍勢を握り、戦略的な予備軍のような位置に立っていたと思います。
しかし後年、明智光秀・原田備中などが数万の一向一揆勢に包囲されてしまった
ところへ、三千ほどの兵を率いて救援に駆け付けた際は、軍勢の先頭に立って
突撃するなど若いころのような勇猛さを見せたと云われています。
また、その際狙撃を受けて太股に銃弾を受けたとされています。
領地の外で戦うのは、ご質問のとおり領内が荒れることを嫌ってのことだと
思います。基本的に征服戦争を遂行しているので、攻め込むことが通常
だったということでしょう。
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