2012年5月8日火曜日

始皇帝は何故小篆と隷書と云う二種類の文字を作らせましたか?一種類にした方が断...

始皇帝は何故小篆と隷書と云う二種類の文字を作らせましたか?一種類にした方が断然便利だったと思いますが?







秦の始皇帝が作らせ用いさせたのは小篆です。

隷書とは、秦の統一後に急に増えた事務をこなすため、獄吏が作りだした字体です。



始皇帝は「書同文」政策という政策を施し、字体を小篆に統一させました。

何故そのようなことをしたのかといいますと、次の様な状況にあったからです。

「戰國時代、社會經濟及び文化方面では空前の發展を爲しとげたものの、

しかし政治についていうと諸侯が割據し戰爭が絕えない時代であった。

諸侯が長期に渡り各地に割據したことにより、各國は同じ體系に基づく漢字を使いながら、

その用いる字體は非常に複雜で、同じ字にして形が異なるという現象が非常に顯著であった。」

(高明『中國古文字學通論』、北京:北京大學出版社、1996年、p4、訳は回答者)

このときに丞相李斯に命じて作られたのが、小篆です。

小篆が作られた経緯は『説文解字』卷15上、許愼叙に

「秦始皇帝初兼天下、丞相李斯乃奏同之、罷其不與秦文合者。斯作倉頡篇、

中車府令趙高作爰歷篇、太史令胡毋敬作博學篇、皆取史籀大篆或頗省改、

所謂小篆者也。」とあります。

ここに「その秦文と合わざるものを罷(しりぞ)く」とあるとおり、李斯によって秦の字体を基準に小篆が作られ、

小篆を用いて『倉頡篇』『爰歷篇』『博學篇』の三種の書が書かれたことが分かります。



李斯が小篆を作る以前には、大篆=古文・籀文という字体がありました。

古文や籀文とは何か、ということについては、白川靜が『説文新義』にて

「説文の書中には、艸部の五十三文を除く外は、大篆といわずして籀文という。

その字は「與古文或同或異」というが、

いま書中の籀文・古文の字形を以て考えると、籀文は西周彝銘の字に近く、古文は列國器銘の字に近い」

(白川靜『説文新義』、神戸:五典書院、1973年、卷15、p9)と言っています。

以上で、大篆(=籀文・古文)→(李斯が奏上して秦文を元に省改した)小篆という流れが分かると思います。



次に隷書についてですが、これは秦の始皇帝が作らせたものではなく、

官・監獄の職務が煩雑になったことから生まれたものだとされています。

『漢書』卷30藝文志に

「是時始造隸書矣、起於官獄多事、苟趨省易、施之於徒隸也」

また『説文解字』卷15上許愼叙にも

「是時秦燒滅經書、滌除舊典、大發隷卒興役戍、官獄職務繁、初有隷書。以趣約易而古文由此絶矣」

と、ほぼ同様の内容が書かれています。

隷書は小篆とは違い、転折する際に角を作るため、速記しやすく徒隷や下級官吏にも扱いやすかったのでしょう。

伝説上、この隷書を作った人間とされているのは、秦の下級官吏である程邈です。

唐・張懷瓘の『書斷』という本には

「案隷書者、秦下邽人程邈所造也。邈字元岑、始為衙縣獄吏。

得罪始皇幽繫雲陽獄中、覃思十年、益大小篆方圓、而爲隷書三千字。」(「隷書」の條)

とあり、衙縣獄吏という下級官吏の職にあった程邈という人間が、

罪を得て監獄に繋がれている時、10年の熟慮の末、小篆の筆画を買えて隷書三千字を造ったとされています。

しかし程邈は隷書を作ったのではなく、隷書を整理したのだとされています。

この点について再度、高明1996(上述書)を引きますと(p9)

・文字や言語は一人の手によって変わるものでは無い

・秦が六国を統一する前に作られた『高奴權』(西安から出土)の一部に隷書が用いられている

・また山東の益都から出土した戦国の銅戈では、「佐」字を隷書で記している

と、秦以前から隷書が一部では用いられていた痕跡があり、

程邈一人の手によって作られたものでは無いとされるようです。

以上をまとめますと、隷書の起源については

戦国時代から小規模に用いられていたが

始皇帝の統一後は「官庁や獄務の煩雑さ」によって自然発生的に、

大規模に用いられるようになった。この隷書を整理する際には程邈の貢献があった。

と、一般的には考えられているようです。



参考になりましたでしょうか。








文字は元々神との交信の為に出来ました。甲骨文字もそうでしたね?

古代の文字は決して「権力の象徴」ではなかったのだ。



また例えば、ウイキによれば---「大篆」は西周の宣王の時代、太史・籀(ちゅう)が公式文字・籀文を定めた際に編纂した書物の名であると伝えられ、籀文そのものの別名であるとされている。



このようなことから、石鼓文の大篆は籀文が戦国時代の秦で受け継がれたものと考えられているが、その詳細には諸説ある。---としている。



所が始皇帝はそれに恐らく不満だった。

よって民衆サイドの従来の文字、つまり大篆に対して、



始皇帝はこの小篆を権力誇示の手段として用いた。元々、神との交信や占いのために有った文字を、彼は人民の管理のために使用した。文字を官民に命令する為の道具に変えてしまったのだ。従って以下のようになる。其の事を



またウイキから引用すれば-----しかしそのような国の意図とは裏腹に、小篆はすぐにその形を崩し始める。法治国家である秦では、下層の役人が現場で事務処理を行うことが多くなった。



彼らにとって複雑な形をした小篆はきわめて書きづらいものであり、自然走り書きが多く発生する結果となった。このことが小篆の書体の単純化・簡素化を生み、やがて隷書を生むことになるのである(隷変)。---と述べている。

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