織田信長や豊臣秀吉が兵農分離を推進したのはどうしてですか?
農民と武士の階級を明白に分け、統治をしやすくするためです。
信長の統治下で最初に兵と農民を分離させようとする試みが行われたのは、天正3年以後柴田勝家が支配するようになった越前においてです。
越前は一向衆の勢力の強い国でしたから、その抵抗力を奪うために農民から刀狩を行ったのです。
「農民」から刀狩をするためには、「農民」と「武士」との違いをはっきりさせなくてはなりませんから、「刀狩」は必然的に農民と武士を分離させる政策となります。
それ以前には信長領でいわゆる兵農分離に当たるような政策は行われていません。配下の武士達に城下に住むように命じた事はありますが、それはもともと「武士」として信長に仕えていた者たちに対しての命令です。
また、越前の刀狩も特に他の地域に拡大したことはなく、徹底したものにはなっていません。つまり、信長の治世においては徹底した「兵農分離」は行われていないのです。
よく信長は兵農分離をしたので農繁期に関わりなく戦えるようになった。と言われることがありますが、これは2重の意味で事実と異なります。
まず、第一に上記のように信長も兵農分離など行っていませんし、第二に兵農分離などしなくても戦国大名は農繁期・農閑期に関わりなく戦をしています。
いくつか例を挙げるなら、武田信玄と上杉謙信は第二次川中島の戦いの際、4月~10月まで対陣を続けていますが、これは明らかに稲刈りの時期を跨いでいます。
また、1560年から61年の小田原の戦いで上杉軍は連続して11ヶ月間関東に出陣していました。
1541年から42年の大内氏による月山富田城攻め・1565年から66年の毛利氏による月山富田城攻めはいずれも丸1年間を超えて出陣が続いています。
以上のように戦国大名は兵農分離に関わりなく、通年兵を動かしていますので、「農繁期にも兵を動かせるように兵農分離をした」というのは明らかに誤りです。
兵農分離の目的は、あくまでも身分を明白にし、しかも農民から抵抗の手段を奪って統治をしやすくする事でした。
ちなみに、兵農分離はそれ以前は戦時には兵になっていた農民を、戦時にも兵にしないわけですから、結果的に兵力の減少を招きます。しかし、戦時にはやはり兵力は重要ですので、戦がなくならない限り「兵農分離」を徹底するのはなかなか難しい事でした。ですから、「兵農分離」は豊臣秀吉の天下統一が近づくまで、本格的に実施されることはありませんでした。
室町時代までは、土地は寺社や貴族が所有する荘園を土着の武士が管理する、という体制でした。
兵農分離は、寺社や武士を土地から切り離し、土地を中央集権的に支配するのが目的です。
大名や家臣は土地を与えられますが、土地の農民を移動させたり使役したりする権限は無く、土地からの年貢を受けとるだけの形となりました。
農民は土地の移動や転職を禁じられ、指定された耕地であらかじめ決められた収穫高(石高)を生産する義務を負いました。
こうすることで、国家の安定と権力掌握をはかりました。
治安安定のためです。
当時は農民も武器を持って戦に参加し
一揆などを起こしました。
そのため信長は越前において「刀狩」を行い
「農民」から武器を取り上げました。
その後「秀吉」の時代に全国規模で「刀狩」が行なわれ
兵農が分離され、更に「徳川家康」の時代に
「士農工商」を合わせ完全に分離されます。
■余談
jijiski63さん の回答で一部誤解があります。
>>「時期を問わず何時でもどこででも長期に渡ってでも戦が
>>出来る体制」を作ることです。
>>信長以前の戦はこれが出来なかったのです。
と書いていますが、この部分は間違いです。
戦国時代の大大名は「農期」に関係なく年から年中戦っています。
信長以前の大名も長期遠征、大規模合戦を行なっています。
こういった文言は捏造の類で
戦国時代前後にうとくさほど歴史に詳しくない人が
ひっかかるウソです。
織田信長の兵農分離の目的と豊臣秀吉のそれとは重なっている部分もありますが、異なった部分もあります。
先ず、織田信長です。主たる目的は「時期を問わず何時でもどこででも長期に渡ってでも戦が出来る体制」を作ることです。信長以前の戦はこれが出来なかったのです。何故なら兵農兼業ですと農繁期には農業をしないといけないので戦はできません。また、戦が長期に渡った場合に農繁期に差し掛かると一端兵を引いて農業に従事させる必要があるので折角攻め込んでいても中段を余儀なくされます。兵農を分離して銭で兵を雇うようにすればこれが無くなります。これが織田軍団の強みになったのです。一方、豊臣秀吉です。こちらも信長のやり方を継承します。しかし、弊害が生じたのです。それはこの頃になると行き過ぎが出て農民が田畑を捨てて傭兵になるケースが生じ農業の担い手が不足する事態になったからです。従い、秀吉は「人返し」をやります。つまり傭兵になっている人を村に返して農業をやらせたのです。そして2度と田畑から離れないように「刀狩り」を行い農民から武器を取り上げることにより、逆の意味での兵農分離を行ったのです。
農村の中間搾取層を根絶する為かと思います。
彼等は普通、地侍・土豪等と呼ばれる事が多く、武装化した農民、落魄れた武士団等出自は様々です。農民でも有り侍でも有る、曖昧で中途半端な階層でした。一つ確実に言える事は、彼等が居ては大名家が安定し無いと言う事です。
検地+刀狩り=兵農分離と言う事は、彼等"地侍・土豪"層に対して、
1.刀を捨てて土地を取る→帰農
2.土地を捨てて刀を取る→大名の家来化
の何れかの選択を迫るモノでした。身分階層の分化は結果論だったと言う事です。
帰農した者達の中から、やがて名主・庄屋と呼ばれる富農・豪農が現れ、彼等が中心に成って江戸時代の農村が形成されて行きます。
一方大名家の家臣団に編成された者達の多くは、郷士等と呼ばれ江戸幕藩体制の底辺を生きて行く事に成ります。
(| …o±\o
武器を所持している農民が一揆を起こさないように、武器の所持は武士だけに限りたかったからだと思います。
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