2012年5月8日火曜日

織田信忠の正室

織田信忠の正室

織田信忠の正室は誰でしょうか?

最初は武田信玄の息女(松姫?)と婚約していましたが

両家の反目後は破棄されました。

しかし、その後正室がいたと言う話は聞きません。

天下政権の織田家の嫡男に正室がいないのは

当時の常識では考えられません。

(三法師の母の実家はそこまでの名家ではなかったはずです。)

信長はどういったつもりだったのでしょうか?

信忠が成人するころなら当然それなりの家から

正室を向かえる必要があったと思うのですが。







まったくの推測で失礼します。

信忠自身が一貫して「松姫を正室として迎える」ことにこだわっていたということは考えられないでしょうか?

信忠と松姫は、婚約期間中、文通を通じて心の交流を深めてお互いを思い合っていたと言われます。

松姫の方も、婚約破談後も結婚していないようですから、お互いに「織田と武田が仲直りして結婚する」ことをあきらめていなかった可能性も考えられるようにも思われます。

織田家の女房の手記かなんかに、信長と信忠が一時期不和だったことが記されているらしいですが、それを婚約破談が原因ではないかとする説もあります。



wikipediaには、武田家滅亡後、信忠が松姫に迎えの使者を送り、松姫も会いに行くつもりであったこと、しかも信忠が死ぬとすぐに出家して、武田家の菩提のみならず信忠の菩提まで弔っているとあります。



「同年6月、信忠から迎えの使者が訪れ会いに行こうとした最中に、本能寺の変が勃発し織田信長・信忠父子が自刃して果てる(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもあるが、生前に松姫と信忠が会ったという可能性すら低く、何らかの誤りと考えられている)。

同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。」



武田の滅亡によってではなく、信忠の死によって出家したのだとしたら、お互いにそこまで思いやる絆があった・・・ということもあったのかも知れないような気がしてきます。

戦国時代にそこまでピュアな恋愛が・・・とも思いますが、信忠も信長の息子ですから、一度こうと思ったことはガンとしてなかなか曲げないたちだったのではないでしょうか。

信長も「信忠は向こう見ずなところがあるから、よくよく諌めるように」と、信忠の与力に書き送っていますし、気性が激しくて一本気な感じだったようなので、そういうこともないこともないのかな・・・と思います。

(本能寺で敵襲を知った信長が、最初に信忠の謀反を疑ったという話もありますから、信長に対する反抗気質もしっかり持っていたのでは・・・。)









> harima_no_sukeさん

すいません、信忠の側室には、森可成の娘も入っていたと言われていますが、どうなのでしょうか?

森一族も清和源氏の名門だし、信長お気に入りの森蘭丸の姉妹ということになりますし、信忠とりまきの美濃衆に連なる家です。

織田家の危機を身を挺して守り討ち死にした森可成のことを、信長はたいそう気に留めていたらしく、亡き可成の子どもを面倒見て相当取り立てていますから、森可成に面目を立てるために嫡男の妻に入れたという気がします。





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追記:信長の心中について



信長にとっては、ぶっちゃけて「正室」などという形式的なものはどうでも良かったのではないでしょうか。

信忠の正室も、必要があれば入れるし、特に差し迫った必要がなければ「将来使える手駒」として温存しておき、空位のままあけておけば良い・・・という感じで。



「権威」の面でも天皇家を凌駕しようかという信長でしたから、五摂家から嫁を入れる・・・というのは公家・朝廷に信長政権に付け入る隙を与えることにもなるので、あまり考える余地はなかったような気がします。

例えば公家・朝廷から輿入れしてきた正室が世継ぎを生んでしまうと、当然、正室の実家が力を持ってしまいます。

古来から藤原氏や平家が行ってきたように、信長の娘を天皇に輿入れさせ、織田の血筋を天皇位につかせる・・・という方が現実的な気がします。

むしろ公家や朝廷から信忠の正室をとろうという気があったのなら、朝廷との協調路線をとる意志があるということですから、それなら本能寺の変は起こらなかったのでは・・・?

(徳川家も何度か朝廷から正室を入れていますが、なぜか跡継ぎは一度も生まれておらず、朝廷の影響力が増すのを恐れて、幕府が「闇に葬っていた」という説があります。)



ただ、この頃は朝廷のあり方も含めて日本の政体をどうするかという大切な時期でした。

長年打ち捨てられてきた信忠の正室の座も、もしかするとあらたな必要性で動き出す可能性もあったかも知れません。

天下統一後は、朝鮮・明へ侵攻するつもりだったわけですから、征服した王朝の皇族から正室を入れる・・・という大構想もありえたような気がしてきます。

それならばあるいは天皇家から正室を入れて、日本の支配は信忠に任せる・・・というパターンもありうるかも知れませんが、日本の支配は次男以下の仕事という腹積もりだったかも知れません。








織田信長の心境としては嫡男の信忠の正室は政治的な必要性がない限り迎えないというものだったと思います。

信長自身の例からも正室を迎える婚姻というのは政略かさもなければ江戸中期の徳川家のように儀礼のようなものです。

すでに天下統一もみえてきた織田家からしたら他の戦国大名家から殊更、嫡男との縁組を結ぶほど重要な家が無かったということがまずありました。

武田家との婚姻が実際に行なわれていれば例え敵対した家の娘といえど男子を産むなど織田家に貢献すれば正室として史実に残ったかもしれませんがこれは実現しませんでした。

武家で適当な相手がいなければ公家か皇族ですがこれが織田信長の政権構想とも微妙に絡む問題です。

私は信長は天皇家を廃止する意図は無かったと思いますが、関白・太政大臣・征夷大将軍のどれに付き政権を打ち立てるかは明確にしなかったことからも信長自身が迷っていたと考えています。

このため嫡男の嫁取りを考えた場合に摂関家かそれとも足利将軍家の日野家のように下位の公家か、いっそ権威と天皇を取り込むなら皇族か決断しかねていたのでしょう。

信忠の場合は子供がいたので側室はいたわけですから政治的に切迫した必要性もなければ別にいいと判断したのでしょう。







ハッキリとしたことは、分かりませんが

小田原の香林寺という所に、「信長女」と伝わる人の墓があるそうで

この女性は、北条氏直の許婚の信長の娘・・と言われてるそうですが

一方では、そうではなく織田信忠の正室と伝えられてるそです。



この女性は、本能寺の時に信忠の家臣が伴なって小田原に来たそうです。

これだけで考えると、信長の死後だとしても何故、ひっそりと小田原に行く必要があるのか?

もし、信長の娘であるなら花嫁行列でも、そうじゃなくても、ある程度の行列で小田原入りする気がします・・。

しかも、婚約の段階で小田原入りしないと思うんです。

もし、この女性が信忠正室なら、子供もいないし信忠も亡くなったので

家臣が伴をし、実家に帰された・・と考えますが・・。



私も、憶測ですが^^:

参考までに・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0



追記・・すいません。大事なことを書き忘れてました。

 この説で考えると、質問の「信忠正室」は、北条家となります。 







織田信忠の妻として挙げられるのは、

摂津の塩河長満の娘ひとりです。



この塩河氏は、清和源氏の創始者とも呼べる源満仲の娘婿から続く家系を誇り、

摂津ではもっとも由緒ある武家となります。

ですから、三法師の母の実家が名家ではない、というのは少し違う気がします。



たしかに戦国時代の塩河氏は、荒木村重の組下、池田恒興の組下になっていますが、

北摂一帯を支配し続けていましたし、

鎌倉、室町を生き抜いた武家ですから、

正妻かは不明ですが、信忠の妻となるには見劣りしないのではないでしょうか?



それと、信忠が主将となった武田攻めのとき、

高遠城に籠もる仁科盛信を攻めますが、

このとき、信忠は降伏の勧告を行っています。

盛信は松姫の実兄になりますので、信忠の心の奥底には、

見たこともない婚約者を慕う気持ちがあったのかも知れません。

また松姫も、武田家滅亡後は盛信たちの兄弟と共に、

信忠も弔ったようですので、互いに心に秘めたものがあったのでしょうね。







信長は、自分の子供であろうと、政治の道具としていた感じが強いです。

松姫との婚約も政治でしたから。

武田を滅ぼした後、他に強敵は毛利ぐらいしかなかったので、政略的に正室を迎える大名がなかったからではないでしょうか。



(-o-)/

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