信長、秀吉、家康が生きた時代が詳しくわかってさらに面白い本が読みたいです。あと前田家のことが詳しくわかる本があれば教えてください。
漫画になりますが
信長・秀吉・家康と三雄の元を渡り歩いた武将、仙石秀久を主人公にした『センゴク』(全15巻)がオススメです。
稲葉山城陥落と天下布武から始まり、浅井滅亡までで第一部了。
現在、ヤングサンデー誌上で第二部『センゴク 天正記』(6巻まで発売中)と名を変え長島一向一揆に始まり、長篠の戦いを経て、手取川の戦いへと向かっています。
普通さらっと流されてしまう浅井攻略までを何年もかけて連載しているだけあって、内容の濃度はハンパじゃないです。
作者が実際に古戦場に赴いて研究・考察をして戦いが描かれているのも特徴です。
また、今川義元と織田信長を主人公においた『センゴク外伝 桶狭間戦記』は戦国時代における貨幣経済と外交事情を後書き注釈を含めて学べるので、こちらもオススメです。
ただし、残念ながら前田家の人(主に利家)は端役でしかなく、登場する際も佐々成政とセットでしか出てきません。
なぜ明智光秀は、織田信長を裏切ったのか? 本能寺の変(1582年)においての光秀謀反の理由は、
日本の歴史上解明されていない問題の1つであり、日本戦国史を語る上で、重要な問題でもある。これまで
に、その理由として、以前から怨念説と野望説が定説であり通説であった。具体的な私の見解を述べる前に
この2つの定説について、少し説明しておこうと思う。
まず、怨念説である。怨念説は、本能寺の変が起こる少し前、安土城で徳川家康の接待役を任されていた
光秀であったが、突然その役を変えられ面目を失った事。
また、天正7年(1579年)の丹波(兵庫県)八上城攻めの時、自分の母親を人質とし、城主の波多野
兄弟を誘い出そうとしたが、信長が波多野兄弟を殺してしまったために残った兵が怒り光秀の母を殺してし
まった事。この理由により、信長の仕打ちを光秀は、恨むようになったと言うものである。他にもこの怨念
説の根拠となるものは、いろいろある。
しかし、これらの怨念説の根拠となるものは、いずれも史料的根拠が、あやふやなものばかりである。
例えば、母親が八上城で殺されたと言うのも、史料的には問題視されている後世の軍記物が典拠とされて
いる点で問題点が多い。
次に野望説であるが、当時の一般的な下剋上の風潮が下敷きになっており、光秀自身も他の戦国武将と同
様に天下を取りたかったのではないかと言うものである。
確かに、当時、京都周辺には、これと言って有力な武将もなかった。そればかりか、光秀には自分自身の家
臣と信長から預けられた形の家臣も含み、総勢1万3千の軍勢がついていたのである。それこそ、光秀の一
言で信長を殺す事はたやすかったのである。
清和源氏とは、平安時代の天皇である、清和天皇の孫源経基を始祖としていて、皇族賜姓(→天皇の皇子・
皇女・皇孫が、姓を賜って臣籍に下る事。その理由は、経費削減が大部分を占めていた。)が行われた豪族の
1つである。他には、桓武平氏を始めとする平氏の一族、橘氏、在原氏などがあり、多くが臣籍に下ったと言
われている。
信長も『源平交代政権思想』の概念から、本来織田氏は、藤原姓であったが源氏である足利氏に変わって
政権を取るには、平氏姓である方が良いと考え藤原氏から平氏に乗り換えるほどであった。現に、信長自身も
若い頃には、『藤原信長』と署名した事もあったくらいである。
従って、朝廷が系図上、平氏である信長に『征夷大将軍職を。』と言い出した事は、そう言った元来の慣習
を破るものであった。信長も、先例にこだわるたちの人物でなく、そう言った先例をむしろ、打ち破るのに生
きがいを感じる男なので、朝廷からの申し出には大喜びをしたようである。
しかし、光秀は、源氏(美濃源氏)であるが故に胸中穏やかではなかったようだ。
光秀の明智氏は、土岐氏の一族と言われていて、そのルーツは次の通りである。
土岐氏は、清和源氏から出て、美濃国の豪族となったものである。源頼光の子頼国の曾孫光信が、美濃国土
岐郡土岐郷に住んでいて土岐氏を称したのに始まるとなっている。光信は、鳥羽院四天王の1人と称され、ま
た出羽守となって出羽判官となった人物である。
また、次のような説もある。
『尊卑分脈』によると、源頼光の7世孫土岐光行から4代目の土岐頼基の時、その子土岐頼重が明地彦久郎
を称したのが始まりと言うものである。(これによれば、始めは、『明智』ではなく『明地』であった可能性
がある。)
これら2つの説で解るように、美濃に土着した源氏と言う事で、美濃源氏と呼ばれるようになったのである。
いずれにせよ土岐氏は、美濃源氏と言われるように清和源氏の流れであり、光秀の明智氏もそれに連なって
いたために、系図上、平氏である信長の征夷大将軍の任命は、許しがたい事であった。そう言った意味で私は、
自分の体を張ってでも光秀は、これを阻止しようとしたのではないかと思うのである。
しかも光秀は、室町幕府の最後の将軍である、第15代将軍足利義昭に仕えていたと言うつながりもあって、
有職故実(→朝廷や武家の礼式・典故。また、それに詳しい人・明るい事。)に通じていた文化人だったと言
う側面もある。信長を倒した後のこれと言ったビジョンも無く、体制も無いままで、その動きがいかにも急だ
ったと言われるが、そこには、源平の確執と言う現代人には理解しがたい思想的背景が有ったのではないだろ
うか。 以上の点から、信長を光秀が裏切ったの理由は、『源平交代政権思想』の裏にある平氏将軍の阻止に
あったと考えている。
前田家関連で上記の三人が出てくるとなる本は・・・
小説で良いのであれば戸部新十郎先生の『前田利家』があります。
世界観がとても良いです。
また同じく戸部新十郎先生の『前田太平記』も宜しいかと。
これは前田利家の家臣である富田重政が主人公の話で、時代は利家が府中三人衆になる辺りからです。
富田重政とは大坂の陣で首を十九個挙げた剣豪で、「名人越後」と呼ばれ恐れられた人です。
他に津本陽先生の『前田利家』も面白いですよ。
描写がとても好きです。
織田信長は、戦国時代でもっとも天下統一を志した人です。
三大武将で最年長であり、豊臣秀吉はその家臣です。
信長が上司で秀吉が部下。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」
上記の詩は
織田信長が天下を取るための勢力の準備をして(織田がつき)
豊臣(羽柴)秀吉が天下を取って(羽柴がこねし天下餅)
徳川家康が二度と戦国の争いが起こらぬように総仕上げとして幕府を開く(座りしままに食うは徳川)
質問でいくと、天下を取ったのは、秀吉でしたが、実質最終的には徳川が今の世を作りだしたというのが簡潔な答えでしょう。
信長の統一事業は
簡単に言うと、数々の末恐ろしい大名を後の乱にならないように滅ぼした。
秀吉は
それを引き継いで天下を統一した後、戦乱でぼろぼろになった農家や商業を復興させ、農民一揆が起こらないよう、刀狩を行っています。
(徳川家康は武士の総取締役である征夷大将軍になり、幕府を開きます)
信長・・・戦国武将。天下を目指したが志半ばで謀反に会い自刃
秀吉・・・戦国武将。信長の配下の武将としてドンドン出世して、最後は天下を統一した。
室町時代は長く続きましたが、その晩年はやはり勢力が衰えてきて、今川・毛利・武田・上杉などの勢力が天下を治めんと、近隣諸国を攻め取り始めました。
そんな戦国時代の中で、最新鋭兵器だった鉄砲を有効に使い、また柴田・前田・明智・羽柴などの有能な武将を配下に持っていた織田信長は、尾張の所領をドンドンと広げていき、天下を取らんばかりに勢力を拡大していきました。
室町幕府も終焉を告げ、いよいよ信長の天下統一の野望が達成されるかと思われたとき、信長は部下の明智光秀の謀反に会い、本能寺で討たれます。
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉は、初めは木下藤吉郎と名乗り、信長の部下の中でも身分の低いものでしたが、やがてその才能を発揮して戦やその他もろもろの事で成果を挙げ、ドンドン出世して織田家の重臣になりました。
信長討たれる!の報を聞き秀吉は、すぐさま軍勢を率いて明智光秀を討ち、主君信長の敵を討つと共に、信長亡き後の世で各地を平定し天下を統一して、太閤の位に上り詰めました。
この辺は歴史的にもなかなか面白い時代なので、いろいろな書物などに取り上げられています。
代表としては"太閤記"などがありますので、イロイロ探して呼んでみると良いのではないでしょうか
天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。 このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。
同年5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に行軍し、同地の大部分を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せた。『信長公記』では信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害したと記録されている。一方、高野春秋では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曽義昌が、信長に寝返りこれを受け入れた。2月3日に武田氏に対しての大動員令を信忠に発令した。そして、駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から信忠が、それぞれ武田領への攻略を開始した。信忠軍は、軍監・滝川一益と、信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上ったと言われている。これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗もできずに敗北する。
気にいるかどうかは別として拙者のお勧めは
隆慶一郎先生の一夢庵風流記(戦国時代の傾奇者前田慶次の物語)は如何でござる。
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