広島県の歴史上の人物や
歴史上の主なできごとを
教えてくださいm(_ _)m
古代 東広島市にある西ガガラ遺跡(約3万年前)が県内最古の遺跡。旧石器時代には居住が始まっていた。
ちなみに広島県の西半分は「安芸」(あき)と呼ばれるが、元々古事記では「阿岐」と書かれていた。東半分は「備後」(びんご)だが、本来は「吉備」(きび)と呼ばれた国を3つに分けたため。
奈良時代には聖武天皇によって国分寺が置かれたが、そこが国府(今で言えば県庁)の場所と思われる。(安芸は現東広島市。備後は現福山市神辺)実は広島市の基盤が出来たのは戦国以降。
平安時代の律令延喜式によれば、国力のランクは安芸も備後も上国。(大・上・中・下) 都会度?(中央からの距離)のランクは安芸・遠国、備後・中国。(近・中・遠)
平安時代後期には平家が天下を取りますが、厳島神社は平家の氏神として重視され、平清盛も一時安芸守の官位を持っていました。
鎌倉時代には源氏が安芸を押さえ、武田氏が支配。備後は長井氏。
南北朝期には、北朝方。室町期には守護職の安芸武田氏を押しのけ、山名氏が勢力を張り、備後も支配します。
戦国期には周防守護職の大内氏が安芸・備後を支配しますが、備後方面では出雲守護職の尼子氏の進出を許してしまいます。この大内vs尼子の対立の中、安芸の豪族毛利元就が台頭、大内も尼子も滅亡させ、中国地方全域から九州にも影響を及ぼします。
元就の死後、後継者の輝元は織田信長と敵対。が、本能寺の変後は豊臣秀吉を支持し、その天下統一に協力。豊臣政権五大老に列します。(当初は叔父の小早川隆景も。つまり毛利から二人)
しかし、秀吉の死後、西軍の総大将に祭り上げられ、関ヶ原の戦いに敗戦。家臣が徳川に内通していたおかげで滅亡は免れましたが、領土は大幅に減らされ、安芸も備後も失います。
その後は秀吉の元重臣、福島正則が支配しますが、元々徳川にとって目障りだった為、潰されます。その後に浅野家(秀吉の重臣浅野長政が祖)が安芸を支配し、幕末まで続きます。
一方備後には福島家取り潰し後、当時の徳川では最強にして最狂の男、水野勝成が西国の目付け役として入ります。政治家としては名君だった為、福山藩は栄え、福山市の基盤がつくられます。後に後継者が絶えたため、譜代の阿部家が入ります。
幕末においては、広島藩は比較的早くから薩長と同盟。福山藩からは阿部正弘が老中首座として安政の改革を行ったものの急死。大政奉還後は長州の攻撃に降伏しました。
その後は日清戦争以後、呉が海軍の拠点となり、戦艦大和も呉で生まれました。
そして、人類初の原子爆弾(リトルボ-イ)が広島市に投下された事により、その悲劇とともにヒロシマの名が人類史に刻まれる事となります。
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