2012年5月8日火曜日

征夷大将軍について 学生の頃、戦国時代をならっていたときに先生が言っていたこ...

征夷大将軍について



学生の頃、戦国時代をならっていたときに先生が言っていたことで聞きたいことがあります




①幕府を開くためには征夷大将軍になる必要があるのですか?

またどんな理由ですか?

②征夷大将軍になるには皇族の血=源氏または平家の血が必要らしいのですが本当ですか?

先生が言うには

織田信長も徳川家康も源氏の血が流れているから征夷大将軍になれるけど

豊臣秀吉は農民出身だからなれないので関白になったと言っていたのですが







①幕府というのは、武官が兵を率いて出陣した時、本陣を敷いた場所の事で、本来は幕を張り、旗を立てて作戦会議を開いたりした場所の意味 ですから近衛大将や鎮守府将軍の本営も「幕府」だったそうです 厳密には「征夷大将軍」でないといけないのではありません 源頼朝も「将軍」でもあり「右大将」でもありました 後に征夷大将軍の家政機関・政府が幕府と呼ばれるようになりました

②これは俗説としてあるようですが、その様な事はありません 古代の坂上田村麻呂がいますし、鎌倉幕府の摂家将軍も存在します

おそらく これは、中世に武士たちの間で「源平交代説」というのがあり、「源氏と平氏が交代で天下を取る」と言う物です「平氏→鎌倉将軍の源氏→北条氏→足利氏」という武士政権の歴史が根拠で、源氏は征夷大将軍だった事からそんな話が生まれたと思われます



信長は源氏は称してないです。平氏と一時期藤原氏です 家康の源氏は系図の偽造の詐称です

秀吉は、足利家の養子になろうとして断られ、関白になりましたが、最初は藤原氏、次に新規の姓・豊臣氏を名乗りました








基本あの時代に言われていた事があります、それは源・平・藤・橘の四家出身でないと征夷大将軍になれないと。



源氏で出身でなくとも良いのは当然として、過去の征夷大将軍を調べれば分かる事ですよ。



天子様の子供でも征夷大将軍(宮将軍)もいるし。



でも、こんな事も代々年月が流れていくと、慣習という言葉で縛られるようになって行くのです、宮将軍立てたのは今から考えれば正統な天子様のしたことではないから、あれは関係ないのだとかいろいろ後付で理由などつけ始めて、その内頼朝は源氏で幕府を開いたその次は足利でやはり幕府を開いた。

これはもう、征夷大将軍=幕府となれば、過去は源氏出身者のみなのだと言うのでしょう。





秀吉は最初明らかに征夷大将軍を望んでいましたよ、でも秀吉の出自は有名ですよね、家康のようにうそ臭い新田源氏だなどと言う事も出来ないほどに。

そうなると、武士ですらないのですからね、まず武家に養子に入って武士にならなくちゃ、それなれば源氏の名門足利義昭がいるのですから、義昭の養子になろうと頼んだのですが断られたのですよ。

そして、誰かに吹き込まれたのでしょう、征夷大将軍って所詮公家と天子様が任命するんだから、公家の最高位関白より位は下だって。

だから、秀吉は途中から関白になろうと矛先を変えたのですよ、こちらのほうが簡単ですよね、腐っても鯛とがんばる足利義昭と違って、貧乏こじらせて肺炎にかかっていた連中に黄金の山を見せればいいのですから。





でもですよ、秀吉は後の世に言われるように、典型的な武士のような解決方法を取らないからこうなっているだけですよ。



公家を全員集合させます、自分を征夷大将軍に任命されるように、天子様に奏上せよって金の山を見せる、お土産だから持って帰れと。

過去に例が無いと拒絶する公家が出たら、又皆を集めてその場で、その者の首を天井に届くぐらいの勢いで飛ばす。



又金の山を見せて、お土産だから持って帰れと。



これで、100%征夷大将軍に任命されますよ、でもこれはのちのち軋轢を呼ぶのは確かですよね、天下人になった家康はさまざまな方法で朝廷に圧力をかけて軋轢呼びましたからね。

家康はいいのですよこんなことしても、世間がどう思おうと関係ないからね、でも秀吉は違うでしょ。



考えてみれば、秀吉の周りにいる者は、もともと織田政権下では同僚や上司なんですよ、そして秀吉は武士出身でない、なりあがりもいい所なのです、このような強引な事は出来ないんですよ、一般民衆もふくめ反感を買うような行動には出れないんですよ、これを口実に誰が謀反おこすか分からんでしょ、家康は油断ならないし九州だって東北だってまだまだ制圧したわけじゃないしね。

完全に制圧した後なら、秀吉も荒っぽい手法使ってでも征夷大将軍になったかも知れないけど、あの時点の秀吉では出来ないよね。



最後に、朝廷と天子様は、常に権力者と共にあるのです、分かりますかこの言葉の意味が。現代でもそうでしょ。







①につきましては、朝廷から任じられた将軍になる必要があり、征夷大将軍にこだわりません。

将軍が命令され現地に赴いて軍政を行う場所に幕を張ったことから幕府というようになり、鎮守府将軍などでも幕府を開けます。

ただし、源頼朝が征夷大将軍になり幕府を開いたことからそれが先例となり、足利、徳川が征夷大将軍に任命され幕府を開きました。



③につきましては大伴弟麻呂や坂上田村麻呂がいますし摂家将軍がいます。

源義仲が任じられた以降、鎌倉時代の摂家将軍と皇族将軍、南北朝時代の皇族将軍がいますが、殆ど源氏出身の人物が任じられているためにそのように感じるのではないでしょうか。







うーん、学校の先生までそのような誤解をしているとは・・・。学校の教科書に「○○年、△△は征夷大将軍に任命され××に幕府を開いた」と書いてあるので、先生も生徒もみんな「征夷大将軍=幕府を開くために必要な地位」と勘違いしてしまうのですね。征夷大将軍と幕府は本来無関係です。坂上田村麻呂や木曽義仲も征夷大将軍になっていますが彼らは幕府を開きましたか?開いてないですよね。



そもそも「征夷大将軍」って何だか知っていますか?征夷大将軍とは朝廷の役職の1つで、朝廷の勢力が及んでいない蝦夷(昔の言い方で東北地方のこと。北海道は当時まだ日本になっていない。)で反乱が起きた時、その反乱軍を征伐(蝦夷を征伐するから”征夷”です)するために派遣される討伐軍の司令官のことです。「武士のトップ」という意味もなければ、それになると幕府を開けるなんて意味もありません。



ではなぜ「征夷大将軍になると幕府が開ける」となったのか?それは源頼朝がそういう前例を作ったからです。征夷大将軍は都(京都)から遠く離れた東北地方で戦をするのが仕事です。そのため、戦いが長期化して資金や武器や兵士や食料が足りなくなると、朝廷の名でそれらを現地調達して良いという職務権限が与えられていました。頼朝はそれを悪用したのです。この職権を使えば関東一帯に武士による独立政権が作れると気付いた頼朝は、朝廷に対して自分を征夷大将軍にするよう執拗に迫りました。



しかし当時の朝廷のトップであった後白河法皇はそれを見抜いていて、自分が生きている間は絶対に頼朝を征夷大将軍にはしませんでした。教科書に書いてある「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年は後白河法皇の死んだ年で、それでようやく頼朝は征夷大将軍になれたのです。そこで鎌倉を中心に「蝦夷を征伐するため」と理由をつけて、あたかも独立した政府のような活動を始めました。この活動のことを現在私たちは鎌倉幕府と呼んでいるのです。「鎌倉幕府」と書いた看板が掛かった役所が当時あったわけではありません。



頼朝がこれをやるまで、日本中の誰もこんなアイデアは思いつきませんでした。「そうか、その手があったか!征夷大将軍になれば朝廷公認で自分の政府が作れるんだ!」というのが全国の武士に広まり、それで頼朝以後、天下を取った武士は朝廷に圧力を掛けて大して高い地位でもない征夷大将軍にしてもらい、頼朝のマネをして自分の政府(幕府)を作るようになったのです。



教科書を書く人ももう少し気を遣った書き方をしないと「幕府を開くには征夷大将軍になる必要がある」「征夷大将軍は武士のトップのこと」などと間違って覚える人が増えてしまいます。







①…

逆ですね。

幕府を開くためには征夷大将軍になる必要があるではなく、征夷大将軍になると幕府を開く権利を得るです。

(先生は必要条件と十分条件がわかっていないようですね)



もともと征夷大将軍というのは東国にいる朝敵を討伐するための役職で、朝廷のある京都から遠く離れた土地で活動するためにある程度独自の自治権ともいえるような権利を与えられた役職です。

この征夷大将軍が執る独自の政府が幕府ということです。

但し、歴代の将軍の中には幕府を開かなかった将軍もあり、必ずしも幕府を開く必要はないですね。



②…

征夷大将軍が源氏である必要があるというのは俗説、過去には源氏以外の征夷大将軍は存在しています。

秀吉が征夷大将軍に慣れなかったのは、タイミングが悪かったから…征夷大将軍になろうとしたときは小牧・長久手の戦いで千住的な敗北をした時点であり、東国の敵を倒すための征夷大将軍につくにはイメージが悪く就任できなかったのだと思います。



関白就任前後のタイミングであれば秀吉が征夷大将軍になることは可能だったかもしれませんが、征夷大将軍以上の位である関白になれそうだったのでなろうとしなかったのでしょう。







1.

これ、実はまったく逆なんです。



頼朝、尊氏、家康は征夷大将軍に任じられ武家の政権を樹立しました。

有態に言えば、尊氏や家康は頼朝の先例に倣った、つまり真似をしたんです。



そしてこの3つの武家政権は長い間存続しました。

(ただし鎌倉幕府の長=征夷大将軍は途中で変わりましたが)



頼朝、尊氏、家康が開いた武家政権が、当時「幕府」と呼ばれていたわけではないんです。



征夷大将軍を組織の長とし、長い期間存続したという共通点を持つこの3つの武家政権を

それぞれ「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」と呼んだ”歴史用語”なんですね。

そしてそれら武家政権を「幕府」と・・・・・



定義の問題なんです。



2.

先生が言われていたのは俗説です。



だって頼朝が征夷大将軍に任じられる以前、源氏や平家でもない人間が征夷大将軍に任じられています。

また鎌倉幕府の将軍は実朝が死んだ後、藤原氏(摂関家)が任じられています。



源氏、平氏、天皇の子孫・・・・・

どれにも当てはまらない例が数多くあるでしょう。



秀吉のことについてですが、関白は征夷大将軍などよりも身分的にはずっと高い役職(官職)なんですよ。



上にも記したように源氏や平氏以外にもなった先例がある征夷大将軍とは異なり

藤原氏本流である摂関家以外の者が関白職に任じられたのは全く初めて、前例がないこと。



農民出身だから征夷大将軍にはなれないけど関白にはなれる

これはちょっと考えてもおかしいと思いませんか?



いろいろ複雑ないきさつがあったんですけれどね。







そのとおりなのですが、

織田信長は確か平氏を名乗ったはずです

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