織田信長は戦国でも五本指に入る人だと思います
別に否定する気持ちはないですが、よく信長は近代的な経済を捉えていたと言われますが、
それは天下の中央部に位置する京・堺をもっていたためにやはり近代的な経済に触れることができたゆえああいう政策を打てたと思います
逆に信玄は古くさいとか言われますが、京・堺を納めていたらかれも知略に長けてるので信長と同じようなことをしたと思います
長ったらしく締まりのない文章ですいません
小説のドリームに浸り続けたい人は下記を読まないでね。
でも、史実に近づきたい人は読んで、目を覚ましてね。
信長を「すごい革新的な」と唱える小説家は、
1、楽市楽座や関所撤廃など商業重視。重商主義。
2、農閑期にしか戦えない農民兵にかわる傭兵による常備軍
3、鉄砲重視
4、方面軍
5、鉄甲船
6、桶狭間の後に、東に向かわず、西へ、天下取りに動いた
などと述べます。しかし、学者の研究等では、
1、楽市楽座は商人主導の、当時は珍しくもない政策。信長の楽市楽座や関所撤廃は不徹底。歴史学者の藤木久志先生は、北陸への交通遮断も伴った信長の楽市楽座を、「流通の自由化よりも、浅井朝倉比叡山への経済ハラスメント」としている。また、信長は当時の通貨不足に対して、なぜか、通貨の発行に消極的であった。この点は、他の戦国大名に劣っている。
また、重商主義とは「商業を重視する政策」では間違い。当時の輸入超過の貿易は重商主義に値しない。
2、全くの間違い。上杉と武田は田植えや収穫期の農繁期にガンガン出兵している。当時の農家は大規模経営なので、いつでも男の一部は出兵できる。また、この時代では、銭で人を雇用すること自体が一般的ではない。
3、どの大名も重視している。徳川方の記録では、武田の鉄砲に徳川が苦しめられている。
4、正確には寄親寄騎と言い、鎌倉時代以前からある軍制。源氏も平家も足利も上杉も武田も、大きな武士団はみんな、寄親寄騎だったのだ。
5、「てつ」に関しては伝聞による1つしか一次史料が無い。単に「大きな戦闘用の船」に過ぎないようだ。
6、実際は、桶狭間後は、東へ侵略の手を伸ばしている。徳川により、それが不可能になっただけ。天下取りを広言するようになったのは、関東平野を除けば、当時、最高の食料生産地帯である、濃尾・伊勢平野を手に入れてからだ。
信長はかなり有能な人物だが、「時代を超えた革新」というのは、誇大広告。
むしろ、味方の座や荘園に安堵状を発行してしまったために、長生きしてしまったら、土地改革が遅れてしまう。信長が良いタイミングで死んでくれたから、秀吉が太閤検地を日本中に広められたのだ。太閤検地により、荘園制度が根絶されて、下人や作人が「解放」されて、自作農が作られたのだ。
※意外にも、通貨発行に最も成功した戦国大名は武田信玄である。後の江戸幕府の金貨の4進法は、武田家の通貨政策の模倣説が有力だ。
※残っている書類による推測によれば、戦国大名の土地政策の「近代化」度は、意外にも、1位・北条氏 2位・今川氏なのだ。数少ない信長の行政書類では、座や荘園を認めた、保守的なモノである。ただし、晩年に、急に、一部で丈量検地を行い始めた。
※ヤマモト氏>
ひっかかったね。大事なことを見落としているよ。
家康が関東を開発した頃は、戦国大名というより、「近世大名」。
人に対する評価というのは評価する人によってまちまちで、賛否両論あるのは仕方がないことですし、むしろ賛否両論に耳を傾けることはおもしろいですよね。ただ、その人の全体を見て、評価すべきところは評価し、否定すべきところは否定することが肝要かと思います。
さて、信長の政策についてですが、あくまで僕の個人的な意見ということを前提にして・・・
・楽市楽座政策
・近代的な経済感覚
・鉄砲を重視した戦略
・常備軍の編成
・軍団性の採用
・身分にとらわれない人材採用
・鉢植え式の家臣移動
・宗教勢力、朝廷との分離政策
これらは他の回答者の方のご指摘通り、信長固有の政策であるとは言い切れず、過去に同じことをした武将もいましたし、同時代にも同じことをしていた大名は多くいました。しかし、これらの政策を全て行った大名は信長の他にいたでしょうか?逆に信長もこれらの政策全てを自分で考えたのではないかと思います。
信長は、過去の事例、周辺の大名の政策を見て、聞いて、学び、それを吸収して実践していったところだと思います。
信長は情報の有益性を理解していたと言います(桶狭間の奇襲も情報収集力のよるところが大きいと思います)。また、地球儀を初めて見た信長は一瞬で地球が丸いことを理解したといいます(真実かどうかはわかりませんが・・・)
信長のすごいところはその革新性ではなく、情報収集力と吸収力、そして行動力だと僕は思います。
でも政教分離は信玄には出来なかったと思うよ。
公明党をみてると信長に排除して欲しくなる。
※残っている書類による推測によれば、戦国大名の土地政策の「近代化」度は、意外にも、1位・北条氏 2位・今川氏なのだ。数少ない信長の行政書類では、座や荘園を認めた、保守的なモノである。ただし、晩年に、急に、一部で丈量検地を行い始めた。
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まあ、間違いだけどね。。。。。。。。。
今川や北条が進んでいるなら、天下取ってる。
今川・北条の領土を大開発したのは、家康です。。。。。。。。。。
「近代的な経済に触れることができたゆえ」の「政策」とは具体的に何なのかよくわかりません。私の知る限り信長の経済政策は同時期の他大名と殆ど同じなのですが。
他の回答者様もおっしゃっていますが、たとえ信長を誰と入れ替えても信長と同じことは出来なかったように思います。
日本人は古来から現在にかけて、土地というものに固執する民族です。
たとえ上洛したとしても本拠地を移すことをせず、したがって経済基盤を作ることは出来なかったでしょう。逆に言えば、信長であればどの土地にいても天下を統一できた可能性もあります。きっと、尾張より遠方の土地でも物流を促進させて経済を発展させ、その資本力でもって近隣の諸大名を駆逐して大きくなっていけたのではないかと思います。
よく「京という位置に近かったから信長はあそこまで大きくなれた」という声も聞きますが、私はそうは思いません。むしろ、近すぎたがゆえに四面楚歌の形を作ってしまったということも否定できないのではないでしょうか?
もちろん、多分に運に恵まれてもいましたし、信長自身もそれほど戦上手ではなかったようですが、それらを差し引いても「信長であれば・・・」という期待感を持たせてくれる偉大な人物です。
信長は覇者で他の戦国大名と並べるのはどうかとも思います。他の戦国大名がほとんど本拠地を動かさない状況にあってどんどん中央へ拠点を移していくのは他と比べるものではありません。
信玄や謙信は上洛しても本拠地を動かず中央を支配する力があったか疑問です。まあ織田は中央に近い利点があったればこそで遠い甲斐や越後では難しい面もあったのでしょう。なので足利幕府が滅んでいても武田、上杉幕府が成立するかといえばまず無理ではないでしょうか?そういう意味では今川家は足利の縁続きなので幕府が滅べば今川幕府を開き京に本拠地を持つ可能性もあったでしょう。義元も氏真もその方が嬉しいでしょうし。
やはり信玄は信長のようなことはできないというのが私の見解ですね。
highfidelity_canyouhearmeさん
私も信長の運によるものはかなりあったと思いますね。今川義元を運良く討ち取り、運良く松平が独立し東の抑えができて西上し信玄も謙信も本格的に戦う前に死にましたから。そうでなければ弱兵の織田軍は大敗してどうなったか分かりません。ただ信玄も謙信も内政、外交には劣るものがありますからまだまだ混迷の時代が続いたのかもしれません。ただ信長は後半増長したためか天罰か滅んだのは残念かもしれませんね。
信長が京・堺を抑えたのは海外貿易のためです。尾張は全国的にも貧しく土地生産量が少ない為、信長の父の代から海外貿易で経済力をあげて傭兵を雇って軍事力を高めました。信長は更に軍事力をあげる為、日本ではとれなかった硝石を中国から輸入して弾薬の量を増やし、傭兵に鉄砲の練習をさせました。後に硝石の代わりとなる火薬を白川郷で生産させています。信長に限らず毛利も火薬の材料となる硝石を輸入してました。ですが信長のほうが輸入量も制作のノウハウも上だったでしょう。信長は傭兵が戦況が不利になるとすぐ裏切ると知っていたため、絶対に負けない戦争しかしませんでした。それには武器と訓練しかありません。信長が経済に通じたのは火薬を得る為です。
信長は確かに経済人だった面もありますね。
信長の父である信秀に影響が強かったからだと思います。信長自身もそうですが、信秀の織田家は小国尾張の下半分を支配する清洲織田家の分家でしかなく、地位は大名に比べたら下の下でしかありませんでした。
しかし、信秀は地元の商人を支配下に置くことで財政は大名並で、分家でありながら軍備も強大でした。
商人を味方につけ、経済を活性させればお金も(徴兵できる)人も集まる都いうことを信長は幼少から肌に感じて成長していっただろうと思われます。
また、早くから(堺を支配する前から)海上物流の重要性の認識や貨幣経済の有用性なども理解していたのも当時としては驚きです。(実際に国内でこれらが行われたのは江戸時代になってからですので、天才といえます)
これら全て幼少の頃からの影響によるものだと思うので、例え信玄が京、堺を支配していたとしても、近代的な経済運営は出来なかったと思います。
信長個人は間違いなく戦国五指に入る武将だと思います。
家臣の質としてはむしろ劣悪であったと言える織田家(秀吉のような偉材もいますがトータルでは劣悪と思います)において、織田家を伸長させたことは一に信長の手腕によるもので、この点では驚嘆に値すると思います。
ただ、天下統一寸前までいったことについては歴史的必然ではなく物凄く運に恵まれた結果であるとも思われます(少なくとも、桶狭間と信玄死亡の2つについては運に恵まれた結果でしょう)。
まあ、運の良さは別にしても信長が優れた武将であることは間違いないと思います。
戦国の革命児だと思いますし、尚且つ天才だと感じます。
恐怖で家臣を縛り付けるやり方と、無駄に人を殺しすぎた
のは大きなマイナスです
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