2012年5月5日土曜日

戦国時代について考えています。 戦国最強とうたわれた 武田・上杉 は本当に強かっ...

戦国時代について考えています。

戦国最強とうたわれた 武田・上杉 は本当に強かったか疑問です。

確かに、武田信玄配下の24将や謙信率いる上杉勢の強さは記録に残るところです。

しかし、川中島の合戦は一地方の戦国

大名の戦いで、後の軍記物に過大に記述されたりしたためでは?特に軍記物がかかれた徳川時代は、多くの甲州武田の遺臣を家康が吸収しており、現当主である徳川を三方ヶ原で敗走させた武田の武威を誇りたかったからでは・・・・。武田の遺臣たちは、時の流れで徳川に属しているが我々は特別な存在だということを認めてほしい。などの感情がはたらいていたのでは・・・。またその武田と互角に対峙した上杉をも評価することで存在意義を高めたのでは・・・・と考えますがどうでしょうか。

いま考えても、武田は滅び、上杉は幕末 中大名としてしか残っていません。信玄と謙信は、自家を保持する家臣団をもっていなかった。やはり、たいしたことがない地方大名だったのでは。皆さんどう思われますか?







栄枯盛衰は兵家の常ですからね。



>自家を保持する家臣団をもっていなかった。

>やはり、たいしたことがない地方大名だったのでは。



確かにそうなのかも知れませんが、

織田家は幕末に小大名としてしか残りませんでした。

しかし、織田家は確かに畿内を支配した当時の超大国でした。

第一、武田家を滅ぼしたのも、その織田家ですからね。



また、

野戦の名手を自認する徳川家康を真っ向からの会戦で、

完膚なきまでに撃破したのは武田だけなんですよね。

精強とされる三河武士が文字通り一瞬で蹴散らされました。

織田家の援軍も同じく壊滅し大将も討死してしまいました。

その恐怖体験は、家康の一生に影響を与えたといいます。



この後、家康が武田信玄を深く尊敬したため、

徳川家の兵法を武田式に改訂したりしていますから、

必然的に「武田は天下一」という評価になって来ます。



余談ですが、最強軍団たる武田家臣団は、

井伊家の軍勢を構成し、欧米でも有名な、

「井伊の赤備」(レッド・アーマーとか言うらしいですよ)

になります。この井伊家臣団は、長い太平の時代を経て、

なお精強な武士であり続けました。桜田門外の変です。

水戸浪士の襲撃後、現場には大量の手指が落ちていたとか。

井伊家中は、主君を逃がす為に、必死の防戦をした訳です。

その激戦の中。井伊家当主・直弼は、家臣を見捨てず、

結果として討死しました。逃げた安藤信正とは違います。








そもそも武田家・上杉家が戦国最強とまで呼ばれるようになったのはそれぞれ才能ある当主や有能な家臣団がいたからです。しかし結果的には武田家は滅び、上杉家は衰退してしまいました。なぜなら没落するときには最盛期のような有能な人材はすでにいなかったからです。



武田家には戦国時代、稀代の名将とうたわれた武田信玄がいました。彼が当主になってから先代までが広げた甲斐一国の領地から一気に拡大し信濃、上野、駿河などを領する当時の織田と並ぶ巨大な大名へとのし上がりました。また当時の家臣団も武田四名臣を含め、数多くの有能な家臣をそろえまさに「戦国最強軍団」でした。

しかし、信玄の死後から一転します。当主は子の勝頼となりますが父の業績があまりにもプレッシャーとなりまた家臣団とも結束が薄れていきました。そして武田家の運命を決しさせたのが「長篠の戦い」です。その戦いでは軽率な行動によって大敗。山県・馬場などをはじめ多くの重臣を失い、一気に没落していきました。そして織田軍による武田討伐ではさしたる抵抗もできず武田家は滅んでしまいました。



また上杉家は「軍神」とよばれ恐れられた、上杉謙信います。彼は「義」を重んじ領地拡大には消極的でしたが、戦では無類の威力を発揮し生涯一度も敗戦はないというほどでした。また家臣団も諸国から恐れられる武将が数多くいました。

しかし彼の死後は家督争いの長期化などから、その隙を突いて織田軍が侵攻し国力を大いに減退。また秀吉の台頭により、ついに秀吉の臣下となり、関が原の戦いなどを経て結果的に中大名におさまったのです。



武田家も上杉家も信玄・謙信という「天才」がいたおかげで戦国最強とまで上り詰めたのです。彼らの次の当主らは決して暗愚ではありませんが先代にはかなわず、また織田、豊臣が強大化しすでに雌雄は決しかけていたところだったので時代という面では衰退するのも仕方なかったのではないでしょうか。







やはり武田軍団と上杉軍団は強かったのではないでしょうか?確かに上杉家は米沢藩という大したこともない藩の藩主でしたが、それでも、幕末まで国がえや減封をされなかったのは、幕府が上杉の武勇を恐れてのことだったのではないでしょうか?(毛利の長州藩と同じように・・・)武田家が滅びたのも、信玄の跡を継いだ(実際には自分の息子の後見であった)四郎勝頼の当主としての力量がたりなかったためで、武田軍団そのものが弱かったわけではありません。もし仮に信玄が駒場で死んでいなければ(信玄があのとき死んでいても、信玄と同じかそれ以上の後継者が武田家を継いでいれば)、あるいは武田が天下を制していたかもしれません。謙信にも野心があれば、天下をとることも可能だったのでは?(実際に上洛もしているし・・・)







戦国最強という言葉の定義が何かということにもよると思うのですが、単純に信玄・謙信の頃の武田・上杉は最強だったといってもいいのではないかと思います。

武田家は滅び、上杉は中大名として・・・と両者の結末はあまり芳しくはありませんが、戦国時代が「それぞれが自分の保身のために強いものにつくという」考え方のもとで成り立っていますから、力がないと思われたら滅亡の道を歩むのは仕方のないことかもしれません。信長や秀吉でさえ自家を保持する家臣団をもてなかった(どころか滅亡に追い込む家臣団しか作れなかった)ことをみてもそこは戦国最強の話とは分けて考えるべきだと思います。

単純に信長と信玄・謙信の直接対決での結果で見れば、信玄・謙信の圧勝ですし、終始直接対決を避けています。

また、信玄・謙信ともに上洛の兵を挙げている点でも、他の上洛の兵を挙げるができなかった諸大名と比べて一つ頭が抜きんでていたといえるのかもしれません。







信玄の恋人だったとされる高坂昌信が書いた「甲陽軍艦」に、「戦には勝つ事より負けない事」

との記述があるそうです。

49勝3敗20分という信玄の数字を見ると無敵の武将のようですが、勝つ戦しかしなかったんです。



勝てない戦には出なかった!が答えかと思います。







信玄も謙信も戦闘では強かったが、国力では信長にはとてもかなわなかった。







武田や上杉だけじゃないですよ。伊達もです。西日本の大名のほうが強いんですよ。島津、毛利、豊臣と。そこで、東日本が勝つために徳川は、東日本を総括する策に出たのです。東日本全部一体化で、徳川が主君なら、西に勝てます。北条、上杉、武田、今川、伊達のような中小規模ではダメなんですよ。徳川が関東に行ったから、武田や真田や伊達の評価が上がったんでしょ。



※甲陽軍鑑の捏造です、武田最強は。武田は、織田に完敗してます。

0 件のコメント:

コメントを投稿