2012年5月4日金曜日

真田幸村と伊達政宗のどちらの武将が好きですか? 僕は、真田幸村が好きです。理由...

真田幸村と伊達政宗のどちらの武将が好きですか?

僕は、真田幸村が好きです。理由も教えてくれるとありがたいです。

真田幸村



「真田日本一兵」と呼ばれた、戦国時代最高の武将。

戦略に長けており、真田丸を築き大阪の陣で大活躍。

大阪夏の陣は、勝ち目のない戦だった。

それでも真田幸村は、徳川家康の本陣を攻撃。

そのあまりの激しさに家康は本陣を捨て逃げたほどだった。

家康が、自陣を捨てて逃げたのは武田信玄との戦い以来だった。

さらに家康を追い詰めついに切腹させるところまで持ち込んだ。

その後、幸村は力尽き散華したが、家康は助けに来た息子を

幸村と見間違え土下座して命乞いをしたと言う。



伊達政宗



伊達正宗は若くして奥州を収めた、最強の外様大名。

奥州をとった正宗は、このまま一気に天下を取ろうと考えた。

しかし、その前に、豊臣秀吉に圧倒的な力を見せ付けられ

ついに秀吉に降伏する。しかし、政宗の野望は消えなかった。

関が原の戦いで、家康に味方して、60万石を得る。

伊達政宗の鎧は人気屈指の鎧である。

戦国時代の武将の中でも政宗は大人気である。



まとめてみたらこんな感じになりました。







真田幸村ですね。どんな理由があったにせよ、大名になる誘いを断って夏の陣でも敗色濃厚の豊臣側に残り、家康に一泡吹かせて、戦場で散った生き様は、まさに戦国武将のもの。徳川の太平の世を迎えるに当たり、誰もがしたくてもできず忘れかけた生き様だったからこそ、当時から称賛されたのだと思います。








伊達政宗は、非常にタフな武将だと思います。



①疫病になったが一命とりとめた、片目に成ってしまったが



②母親の兄が、すごい強敵で生涯いがみあい続けるが

政宗は、この叔父に討たれることは無かった。



③父を人質に取られた戦い を強襲で勝つ、が父は戦死。



④母親は弟を立てていて母に毒殺されかかったが助かった。



⑤小田原を攻めている豊臣の加勢に遅刻した政宗は

切腹は必至とされていたが徳川家康のトリナシで助かった。



⑥豊臣に反抗する一揆が東北各地で起ったが

これは政宗が黒幕して企てたとされて豊臣に詰問されたが

切腹は回避。



⑦劣悪なる外征、朝鮮の役に参戦、政宗はチャッカリしていた

らしく激戦に参加しないような感じになり怪我もすることなく

無事、帰国できた、ただ、朝鮮の秘宝や朝鮮の女を

日本に持ってきてしまうなど、ちょっとアレです(爆



このように伊達政宗は関が原の合戦の前に

少なくとも7回、死んでてもおかしくないドツボを

突破しており、それに比べれば

関が原の合戦や大坂城の攻防戦などは彼にしてみれば

ピンチでも、なんでもなかったかもしれない。







真田幸村です。大阪の陣の獅子奮迅ぶりは日本一の兵といわれるのにふさわしい活躍でした。







真田幸村です。

家康を殺しかける程の実力とは裏腹の悲劇的な最後にひかれました。

常に死と隣り合わせの環境で生き抜いた当時の武将達にしてみれば本望だったのかもしれません。







子供の頃はあんなにやさしく、物静かだったお主が何故又このような。



あの事以降、自分が田舎者丸出しの徳川家中の面々に、どのような視線をうけてきたのか、お前にも少しは分かるだろう。



幸いにも義父も家康公も、自分を信頼し可愛がってくれてはいるものの、跡継ぎである秀忠公の代になれば関が原の件があるだけに、この真田本家の行く末もわかりはしないのだ。



真田の家名を残す事だけが自分の使命である自分にすれば、お前の行動は身内にすっかり甘えきった生活をし、更に死に際してもなおかつ迷惑のかけどうしとは、兄とはいえお前もいい歳をした人間であろう、そのようなことにまで考えが及ばないとは兄として情けないばかりである。



これはお前のせいではないが、このような太平の世がくると、皆戦働きでの出世が望めないばかりに、今では醜いばかりの大名の足の引っ張り合いなのだ、今回の事もお前と出陣させた我がせがれ達が通じているとの密告も有ったようだ。

又、お前が活躍すればするほど、外様の大名は日本一だなんだと江戸城でもてはやしてくれるのだが、肝心の譜代大名・親藩大名の人々の苦虫を噛み潰した顔をお前に見せたいものだ、そのたびに自分は身を小さくしなければならないのである。



お前は一個の独立した人間だと思っているだろうが、あの時自分がそれこそ自分の命を投げ打って助けた命なのである、それを少しでも考えてくれたのなら、あのような行動は取る事は無かったであろうに、返す返すも残念である。



信繁君は人として、やってはならんことしているからね、戦国時代だからとはいえ、これは無しだと思うよ。

ですから、伊達政宗ですかね。







伊達政宗です。



真田幸村は武将としては素晴らしく大好きです。上田にも何度も遊びに行っています。

但し、大名として考えた場合、数多い家来と一緒に全滅したのはいかがでしょうか。 他の手は無かったのでしょうか。

兄はしっかり残っていますので、家来を養っていく方法があったのではないでしょうか。



伊達政宗は徳川時代下もしっかり根付き、幕末まで藩を保たせた礎を築きました。そこが好きです。

家臣や家のために、将来のために、我慢する東北の覇者の心持はかっこいいと思います。







あまりに【情報弱者なバカな解答者が2名】居るので解答します。



まず「毛利勝永」は確かに強いですが、旧家臣も多く

従え、それら家臣が頑張っています。

浪人を従えていたのは「真田、毛利、後藤、明石」などは

全員が同様です。そして全員がそれなりの旧家臣を従えています。



また「戦国時代」の戦は「大手、搦手」が基本であり

両名がそれを行なっただけです。

「大手」が優秀とする意味すら解らない。

「戦国時代」で重要な「戦」の基本も知らぬ愚の極みに

吐き気すら覚える、久しぶりの糞回答です。



また「毛利勝永」は「真田幸村」同様の講談名です。

///////////////////////////////////////////////

その上で解答します。



どっちも好きですね~。

両名が【戦国末期】の名将で年齢が同じで

「戦国最期の徒花」という言葉が合う気がして好きです。



徒花とは

・咲いても実を結ばない花。

・季節はずれに咲く花。狂い咲き。

・咲いてすぐ散る、はかない花。特に、桜の花。



「幸村」の咲いて散った桜も、散りましたが後世まで

「日の本一」で伝わり心に刻まれ

「政宗」の「遅れてきた狂い咲き」も結果を残した上に

多くの人の心に残り、両名凄いです。







伊達政宗。自分も東北出身だから。







先の回答者の方が名を上げて居られますが、真田幸村を上げるなら、毛利勝永を忘れてはいけません。

真田幸村が右翼から自らの家臣団を中心にした兵力で家康本陣に迫ったのに対して、

毛利勝永は今まで自分の家臣でもなかった寄せ集めの兵を指揮して、しかも、戦列の中央を守って、東軍の分厚い正面の敵を蹴散らして家康本陣に突入しています。しかも、退却の時に力尽きた幸村と違って、敗戦退却の中で兵をまとめつつ大阪城まで撤退しています。

だから、奇襲攻撃をかけようなどと作戦を立案する能力では幸村が優れていたかもしれませんが、実戦の中で兵を指揮させたら、毛利勝永の方がずっと有能な武将かもしれませんよ。



あれあれ、史実を歪めてまで、自説を主張しようという人が居ますね(笑)







断然伊達さん。



真田は実はそこまで活躍してなかったぽいし、大阪の陣では毛利なんたらが活躍したと聞きます。毛利は徳川四天王の息子3人をころしました。強いでしょう?真田とかカスだしwww

0 件のコメント:

コメントを投稿