"独眼竜"と呼ばれた政宗>>現役時代には、呼ばれていない。中国唐代の李克用=独眼龍なんですけど??ついでに、河北は、中国の地名で、河北新報社のことではないし。
歴史秘話ヒストリア◇よろい姿も生き方も対照的な戦国武将、伊達政宗と真田幸村。大坂夏の陣で1度だけ直接対決した二人の素顔に迫る。幸村が着ていた赤のよろいは、決死の覚悟の表れだった。関ケ原の戦いの前哨戦、大坂冬の陣と幾度も徳川軍を撃破し"名将"と呼ばれた幸村には、14年に及ぶ長い不遇の時代があった。それをはねのけ、戦に命を燃やした幸村の生き方をたどる。一方、黒のよろいを身に着け"独眼竜"と呼ばれた政宗は、知略で豊臣・徳川と渡り合った。"奥州の雄"として君臨した彼の原点は、家と領地、領民を守り抜くという決意にあった。知恵と策謀で天下人と渡り合い、生き残りを図った政宗の思いを探る。また政宗が支配していた地に幸村ゆかりのものが残されている謎を解明。大坂夏の陣で、徳川軍の一勢力として大坂城攻めに就いた政宗と、その軍勢に決死の覚悟で突撃した幸村との関係を伝える。
歴史秘話ヒストリア サブタイトルは、~いつも崖っぷちだった~ でしたね。このよな、「いつも崖っぷちだった」だった男が天下がとれるわけがありません。まして、天下の器も器量もなし!!![伊達政宗だけ取り上げられた 回のタイトルです。]ミスター過大評価!!!
関ヶ原の折、兄は必死に助命嘆願、義父にまで迷惑を掛け命をすくったのに。今、又真田を窮地に追いやるとは、家康のおぼえが兄が良かった為になんとかなっていますが、兄目線では迷惑至極でしょう。
おかげで秀忠には嫌われてしまいました、家康の死後父祖の地を離れなければならなくなったのも、信繁が要因なのは間違いないでしょう。
おまけに大阪内部でもクレームがついた赤備え、何一つとして武功の無いくせに戦の最中最も目立つ赤備えで兵士ともども統一するとは。
信繁にも言いたいことがあるのかもしれません、大阪に乞われてきたものの披露した戦略は淀ににべも無く退けられ、本気で戦をする気があるのか無いのか甘っちょろい意見ばかり、集まってきた武士達は死に花を咲かせる事に主眼をおいています。
開戦にあたって、悪く言えばこの際目立つだけ目だって名を上げ死んで行こうと決めたのでしょうが、真田本家のことを一切省みない所業はなんなのでしょうか?
兄・姉に仕送りまでしてもらっていたのに、ろくでもない弟と言えなくもありません、戦後講談で幕府をはばかって登場する真田幸村という架空の人物が真田信繁なのは間違いありません。幕府の政策に不満を持つ人にしてみれば、旗本連中まで三つ葉葵の旗を捨てて逃げ、家康が腰を抜かし殺されるぐらいならここで自殺するとわめくなんてのは痛快だったでしょうが、これも又真田本家にしてみれば迷惑だったでしょう、真田幸村なる人物の人気があがればあがるほど徳川での真田の立ち位置が悪くなりますから。
不肖の弟を持った兄の苦労がしのばれます。
まー信繁も血のつながった兄に迷惑をさんざんかけるロクデモない人間だったせいでしょうが、400年もたったいまだに真田幸村なんて徳川幕府に遠慮してつけられた名前で呼ばれているんですから報いをうけているんでしょうね、今頃幸村・幸村と言われて誰だそれ俺は真田源次郎信繁だーーーって叫んでるんでしょう。故人になって、本人が知りもしない名で呼ばれる屈辱は、自分には耐えられない屈辱です。
この文は完全に嘘ですね
伊達政宗VS真田幸村なんてもろ戦国BASARAじゃん 笑
こんちは。やはり天下人としての器は神君家康様だけではないでしょうか♪謙信、信玄、元就、氏康、政宗はあくまでも希代の名将の一人です。秀吉も信長も家康様には及ばないと私は思います。ただ、その家康様が幼い頃尊敬していた今川義元様は天下の器量を兼ね備えてたかもしれません。今川義元様は運が・・・(悲)
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