2012年5月4日金曜日

織田信長は尾張の一勢力だったのに、どうしてあんなに広い範囲を勢力下におさめる...

織田信長は尾張の一勢力だったのに、どうしてあんなに広い範囲を勢力下におさめることができたのでしょうか。発展段階がありそれごとに理由が変化していると思いますので、発展段階とその理由を教えてください。







思想性です

他の戦国大名には

日本統一

天下を取るなんて考えがありませんでした

現状保持が精いっぱい

既得権を守るだけで十分でした

本来の中心地を捨て

新しいところに移る

そんな冒険は想像もしなかったでしょう








大義名分を巧みに利用したからです。



戦国大名は必ずと言って良いほど大義名分を利用しています。



上杉謙信は関東管領を継ぎ、関東へ勢力を広げ、北条氏康もまた、鎌倉公方を奉じて関八州の制覇を目論み、武田信玄は信濃守護を得ることでその統治を正当なものへしています。さらには三好長慶は管領代となることで幕府を牛耳り、毛利元就も支配地の守護職を獲得、大友宗麟も九州制覇のために九州探題職を得、それを理由に他国へ攻め込んでいます。



そこで信長です。追って見ていきましょう。



①織田家の家督(家中統一)

織田弾正家当主として、意に背く家臣どもを討伐。



②尾張守護家の保護者(尾張の統一)

尾張守護斯波義統を討った守護代の織田信友を逆臣として成敗、守護の命として国内の敵対者を討ち滅ぼし、最後には守護の斯波氏をも追放した。



③美濃の正当な領主(美濃平定)

信長の岳父(嫁の父親)は美濃国主斎藤道三であり、その道三より不当に美濃を奪った義龍・龍興親子と戦う。道三が信長に美濃を譲ると認めた「譲り状」を名分にその領地を奪った。



④将軍と天皇の命令(上洛戦)

将軍義輝は信長へ上洛を要請しており、正親町天皇もそれを求めていた。これにより信長が上洛するのを邪魔する者は逆賊となり、討ち滅ぼす正当性を持つことになった。途上の六角を滅ぼし、京畿周辺の大名たちを従えた。



⑤将軍の代理(京畿の平定)

上洛に成功し、将軍の代理として「将軍の命令」に従わない輩を成敗することが可能になった。それが朝倉家であり、浅井や三好家です。将軍義昭が画策した信長包囲網で知られるが、表向き将軍は「信長陣営」に属しており、正当性は信長にあった。



⑥武家のトップ(天下統一戦)

足利将軍を京から追放し、信長は右近衛大将へ任じられる。この職は将軍職と同等に見られており、武家のトップとして認められたことを意味する。現に足利将軍よりも官位は上となり、事実上、信長は武家の棟梁となった。これ以後、信長の命令は武家の中では絶対(形式上は)となる。



つまり、常に「俺が正しい」という理由を付けていたのです。他の大名も同じ事をしたが、信長が一番上手だったということです。秀吉、家康も同じ事をしています。







尾張は親戚の織田氏を滅ぼし勢力を増しました。



美濃は土岐諸氏が斉藤義龍に反抗し信長を

頼ったため、斉藤氏を滅ぼすだけで簡単に手に

入りました。



近江浅井領は家臣の離反により難攻だった小谷城が

落城した。



六角氏は攻めると戦わず甲賀へ逃げてしまいました。

甲賀は滝川一益の出身地なので攻めてきません

でした。







地の利です。京都に近い:周りに強国がなかった







桶狭間の戦いや長篠の戦いでけっこう広い土地を手に入れられたからじゃないかな…



よく分からないですけど…(笑)

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