本願寺の歴史や西と東が分かれたことやどうやって成立したのか教えてください。
お願いします。
できたら簡単な言葉でお願いしたいです。
chaone21さん 初めましてこんばんは。
↓↓おっ ここでも一緒ですねkeisichou2008さんこんばんは。
該当の真宗在家髪有り僧侶です。
★本願寺の歴史(簡単に成り立ち)
本願寺成立は親鸞聖人死後、その荼毘にした地域のソバに親鸞さま
を偲び訪れる人々の念願によって廟堂が出来たのが本願寺の始まり
です。故に親鸞聖人が健在の頃は「本願寺」という形や組織はまだあ
りませんでした。その後廟堂が信者門徒の力により段々と立派になり
寺院の形式を擁してきました、そして血縁子孫のひ孫の覚如上人の
時に本願寺の基礎が出来きますが当時はまだ浄土真宗という確立
した教団ではなく、天台宗延暦寺の傘下に入る天台宗一寺院でしか
ありません。数代後にはやっと天台宗から別れ浄土真宗として確立する
ことになります。
★西と東が分かれたこと、ただ単に仲が悪いだけで東西に分裂する程の
エネルギーは起きません、ソコには時代の大きな力が働いたのです。
早く言えばその大きな要因は「信長・秀吉・家康」です。戦国時代にはその真
宗も他と同じように戦乱に無関係、中立とはいかず自らで行動せざるおえなく
なりました。その結果が一向一揆です(但し宗教信者ばかりによる完全な宗
教的独立や武装蜂起ではなく真宗信者のネットワークを使った多種の身分
階層による反体制闘争です)その一向一揆が戦国時代序盤は優勢に進む
のですが、本願寺教団内部では一揆での闘争推進派(タカ派)と一揆闘争
反対派(ハト派)に分かれいました。なにせ一揆勢同士で内部分裂抗争して
いた位です。そこに時代の雄織田信長の天下布武で領土が広がると共に一
向一揆勢が倒されていきます。そして石山合戦で本願寺タカ派は徹底抗戦
を掲げ、本願寺と教えを守る為全国門徒に戦いに参加協力せよの「檄」を
発しその効果で信長と長く戦う事は出来ましたが、最後には戦争のプロには
勝てる訳も無く負け同然の石山本願寺退去=退却する事になります。その時
にはタカ派は教団内での主導権を失い、さらに顕如門主からも信頼を失っていま
す。その後顕如上人は信長に勝てぬ・もう抵抗は無理だと完全降伏の意志で石
山本願寺を出ますがその際タカ派勢力とその中心になる教如上人(顕如上人の
長男)が石山本願寺から出ずに立て篭もり信長軍と対峙しますが多勢に無勢程
度の戦い、結局あっさりと追い出されます。その責により一時教如上人は父顕如
上人から勘当状態になります。その後時代は信長本能寺での横死と秀吉の天下
統一の中、顕如上人死後に本来門主は嫡子が継ぐべき所を天下人秀吉の後押
しにより長男教如上人を外して次男准如上人が後を継ぎ門主になるという前代未
聞の事態になります。これによって次男准如上人を押すハト派グループ、長男教如
上人を筆頭にするタカ派グループの内部分裂が激化し、本願寺内で完全な分裂
状態、その仲たがいに目を付けたのが家康。元々家康自身駿河だったかな?の
国主の時一向一揆に手を焼いた経験と一向一揆石山合戦で信長が手こずりその
影響で天下統一が遅延し、また本願寺を攻め滅ぼせなかった教訓を生かし、力攻
めではなく内部から瓦解させる方法をとり、後を継げなかった教如上人側に近寄
り、ついには教如上人を立てて東本願寺独立と旧本願寺勢力の分裂弱体化に
成功した。因みに当時の西本願寺(准如側)は秀吉派で幕府からは冷遇、東本願
寺(教如側)は家康派で幕府からは厚遇されるという扱いも両極端になり、東西は
完全に対立関係にあり、もし西本願寺が家康への不満と秀吉への恩義で大阪
城夏・冬の陣にて蜂起したならば、東本願寺が幕府側最前線基地として西本願
寺と闘うとさえ言ったそうです
※でも今は年月が経ち、東西仲が良くなりましたけど。
以下をご覧ください。
本願寺の歴史(『8.本願寺分立』を参照)(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E...
簡単に説明すると、『過去の浄土真宗の一揆で家康は苦しめられた。そこで、家康の家来が「本願寺の勢力を二つに分けた方がよいのでは」と家康に提案し、本願寺の分立が計画された。その後、教如は家康から「本願寺の東側にあった土地」をもらった。教如は「本願寺の東側にあった土地」に本願寺の一部を移し、本願寺を分立させた。』(本願寺=西本願寺、「本願寺の東にあった土地」=東本願寺)
仲が悪くて 別れた。
簡単すぎですか
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