2012年5月8日火曜日

十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているホームページを教えてください。 この現...

十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているホームページを教えてください。

この現代語訳がわかる方は、それを教えていただけるとありがたいです。







十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているサイトは多分ありません。

十八史略の現代語訳サイトはいくつかありますが、

傾向として春秋戦国時代~前漢時代あたりの逸話がほとんどです。



五丈原を勝手に登載します。質問しっぱなしはやめましょう。



【原文】

亮數挑懿戦。懿不出。

即懿以巾幗婦人之服。

亮使者至懿軍。

懿問其寝食及事煩簡、面不及戎事。

使者曰、

諸葛公夙興夜寐、

罰二十以上皆親覧。

所敢食不至數升。

懿告人曰、

食少事煩、其能久ャ。

亮病篤。有大星、赤面芒、

墜亮営中。

未幾亮卒。

長史楊儀、整軍還。

百姓奔告懿。

懿迫之。

姜維令儀反旗鳴鼓、

若牆向鋳。

懿不敢逼。

百姓爲之諺曰、

死諸葛、走生仲達。懿笑曰、

吾能料生、不能料死。

亮賞推演兵法、作八陣図。

至是懿案行其営塁、

歎曰、

天下奇材也。



【読み下し文】

亮、しばしば懿に戦いを挑む。懿、出でず。

すなわち遺るに巾幗婦人の服をもってす。

亮の使者、懿の軍に至る。

懿、その寝食および事の煩簡を問いて、戎事に及ばず。

使者曰く、

「諸葛公、夙に興き夜に寐ぬ

罰二十以上はみな親ら覧る。

敢食すると、ころは数升に至らず」。

懿、人に告げて曰く、

「食少なく事煩わし、それよく久しからんや」。

亮、病篤し。大星あり、赤くして芒あり、

亮の営中に墜つ。

いまだいくばくならずして亮卒す。

長史楊儀、軍を整えて還る。

百姓、奔りて懿に告ぐ。

懿、これを追う。

姜維、儀をして旗を反し鼓を鳴らし、

まさに懿に向かわんとするがごとくせしむ。

懿、あえて逼らず。

百姓これがために諺して曰く、

「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」。

懿、笑いて曰く、

「われよく生を料れども、死を料ること能わず」

亮かって兵法を推演して、八陣の図を作る。

ここに至りて、懿、その営塁を案行し、

歎じて曰く、

「天下の奇材なり」



【訳】

諸葛亮がしばしば戦を仕掛けたにもかかわらず、

司馬懿のほうは、応戦する気配をみせない。

そこで諸葛亮は、婦人用の頭巾と服を贈って、

司馬懿の臆病さをからかった。

その使者を前にして、

司馬懿は軍事のことには触れないで、

寝る時間はいつか、

公務に追いまくられていないかなどと、

もっぱら諸葛亮の日常について質問した。

「わが諸葛公は、

朝早くに起き、夜遅くに就寝なされます。

杖罪二十以上の軍律違反者は、

すべて自分で調べられます。

お食事の量は少なくて、

一日に三、四合程度です。」

使者がさがったあと、司馬懿は周囲の部将たちに言った。

「食事の量が少なくて、仕事は多忙をきわめている。

もう長くはないな」

彼が見抜いたように、

その後、諸葛亮は、重い病いにとりつかれた。

ある夜、大きな彗星が、すーっと赤い光亡を放ちながら、

諸葛亮の陣営のあたりに落ちた。

ほどなく、諸葛亮は没した。

蜀の長史楊儀があわただしく軍をまとめて引き上げるのを見て、

土地の者が魏軍へ注進におよんだ。

司馬懿は、ただちに迫撃を命じた。

「旗の向きをかえ、軍鼓を打ち鳴らして、

反撃するように見せかけよ」

将軍姜維の指示にしたがって、

楊儀が軍の態勢を向き変えたところ、

司馬懿はそれ以上追撃しようとしなかった。

「死せる諸葛亮。生ける仲達を走らす」

土地の人民がこんな諺をつくったと聞いて、

司馬懿は苦笑しながら、

「生きた人間のすることは見当がつくが、

死んだ人間は何をするやらわからぬからな」

生前、諸葛亮は、

各種の兵法から原理を割り出して

「八陣の図」という軍隊の配備法を編み出していた。

司馬懿は、蜀軍の引き揚げたあとの陣営を調べてまわったが、

こう嘆息したという。

「諸葛亮は天下の奇材だ!」








ホームページなんか探してないで図書館に行けよな。







十八史略は編年体なので、人物ごとに話が書いてありません。

十八史略の三国志の場面は割合さらりと平等の史観で記してあります。



つまり大本の十八史略に孔明だけの記述がないので無理です。



孔明が出てくるところについて知りたいのであれば底本になっている、

三国志をみたらいかがでしょう。

ART機で総合的に収益が見込める台

ART機で総合的に収益が見込める台

マイホにある台をあげますと

・ヱヴァ真実 ・エウレカ ・緑ドン ・新鬼武者 ・蒼天の拳

・秘宝伝 ・ハヤト疾風伝 ・創聖のアクエリオン

・サクラ大戦 ・サイバードラゴン ・ルパン三世 ・マクロス

・マジハロ ・天下布武 ・アントニオ猪木 ・デビルマンII

・戦国BASARA ・スカイラブ ・ダイナミックサンダーV

・リオスパ ・忍魂 ・モンキーターン ・バジリスク

・大逆転 ・ジャグラー

となります。

ある程度設定は入っており、ときたま6が入ってます。

マイホではエウレカに力を入れており、10台あります。

ジャグラーにはあまり力を入れてません。



エウレカが好きでずっと打っているのですが、

最近は全く勝てる気がせず、フリーズや5ptREGでしか勝てないのではないかとも思い始めるネガティブさです。

それでも打ち、銀行へ引き出しに行く毎日です。

Aタイプはあまり好きではないので、ほとんど打ちません。



ART機でトータルで勝つようにするためには、どんな機種を打てばいいのでしょうか?

サクラ大戦が一番その可能性があるのではないかと思っています。

モンキーターンの朝一、ゾーン狙いも悪くないと思います。



設定看破することがその道への近道だとわかっているのですが、エウレカなどは設定判別が難しいです。

ほぼ初心者なのでいろいろ教えてください。

とにかくスロットが大好きです! 長文失礼しました







ART機のみなどの縛りをつけると非常に勝ちの確率は下がると思われますパチスロが好きなら出来れば全ての台を好きになった方が断然勝ち易くはなると思います、特に最近は集団で台取りに来ている若者をよく見かけるのであの間を縫ってとなるとかなり厳しい状況になるとは思いますが、期待収支がプラスの台を打ち続ければ間違いないと思います



特にART機は判別に時間がかかり難しいと思うので時間に余裕があるなら年配の方のハイエナが一番勝ちに近いと思います、朝一変更挙動も他人に打って貰って観察、ART当選が表示されないカウンターの店舗も多いのでそういった店舗こそ観察が非常に効果を発揮します、ただこれ全く面白くないのと完全に嫌な奴になるので絡まれる危険性も大です、でもどうしても大きい勝ちにこだわるならこういった方法になると思います



ただ6をしっかり使うお店できっちり判別作業をして見抜く努力を怠らなければ、よほど間違いが無い限り遊んで楽しんでちょっとおこづかい程度ならあると思いますよ、プロとして生活するのは至難だと思いますが



台で言えばどこの店舗もモンキーターンは95%以上1だと思うし笑うも怖いうちの近くではまだ秘宝伝とかVIVAとかのほうが使ってる感じがするから朝一変更挙動を見て周囲観察しながらっていうのが最近のパターンになってます、まあそれだけでも朝一ツモることもあるし高設定に行き着いたと感じることもあるし月収支大勝とまでは行かないけどまだマイナスまで落ち込んだことは無いよ








マイホって1店舗?

機種を一つに絞っても良いけど、だったらイベントで確実に狙い機種に高設定入れてくる店舗を複数キープしておかないと。

それでイベントに合わせて打ちに行く。

ただ、朝イチで席取り出来ないと厳しい。

それと、設定看破は難しかろうが面倒臭かろうがトータルプラスにしたいなら必須です。

低設定をズルズル打ってたら金がズンチャカズンチャカ減っていくし、たまたま高設定に座れたのに序盤出枚数がパッとしないから捨てるなんて勿体ない事も…

最後に、保険の的な意味でかまわないからホール設置機種全ての天井と期待収支がプラスになるゲーム数は把握しておくこと!

携帯サイトやメモを活用しておけば楽ですよ。







捕捉回答□一撃が外れたら?(と思たら駄目前提)好きでも無い台にぶっ込むより、好きな台にぶっ込んだ方が気持ちイイ♪それが出玉に繋がればもっと気持ちイイ♪でしょう?(-.-)y-~□

先の回答と同意見です。m(_ _)m

因みに、エヴァはARTでは無くてRT機です。

単機より、複数台での立回りでないと?

どの台も期待できるし、期待できないし?







機種を限定しては勝つのは厳しいんじゃないでしょうか?

そもそもパチンコ屋は非営利目的ではないのですから、この機種をやれば勝てるなんて有り得ないです。



状況に応じて、立ち回る事が必要です。





しかし、どうしても機種を限定するのであれば、設定6の期待値が高い方がいいに決まっています。



たまに6が入るとの事ですが、仮に全ての機種に均等な割合で6が入ったとしましょう。



狙い台を絞れないのであれば、ツモ率は同じです。



ツモった数が一緒ならば、ツモった時に6万しか勝てない台(エウレカ等)より10万勝てる台(緑ドン等)でしょう。



しかし、店側も採算をとらなくてはいけないので均等な割合では入れないでしょう。



ですので、状況に応じて台を選択する必要があるのです。

こんばんわ。質問ですが、戦国無双3エンパイアーズが

こんばんわ。質問ですが、戦国無双3エンパイアーズが

気になっています。それで幾つか聞きますが、



味方は強いですか?、3Zからの変更点はどういったものですか?



武将の、移動速度は遅いですか?、第一、第二秘蔵武器は簡単に取れますか?



3980円で売っていたのですが、買ったら勿体無いでしょうか?損しますか?



面白いですか?、他にお勧めがあれば教えて下さい難しい、レース系、ロードが長い、フリーズがある等の



ゲームは個人的に無理なゲームですので、回答は控えて下さい。



教えて下さい、お願いします。







まず、3Zとは全く別のゲームだと思ってください。

戦闘はありますがあくまでも内政の一つ、施設を建てて国力を強化(人口・収入・幸福・兵力等の数値を上げる)、隣国に侵攻・防衛を繰り返し、領土を広げて天下統一を目指す、シュミレーション要素の強いゲームです。

武器・防具・馬は全て共通ですが、レベルは戦闘毎にリセットされます。

初めからすべてのチャージ攻撃は使用可能ですが、毎回レベル1からのスタートになります(戦闘中のレベルアップのスピードはかなり早いですが)

また、操作したいキャラを登用して自国に配置しなければ、戦闘には使えません。



何も無しの状態では、武将の移動速度は遅いです。

足袋を装備すれば、移動速度を上げる事が出来ます。



秘蔵武器は、まず鍛冶屋を建設します。

鍛冶屋からの依頼をクリアし、鍛冶屋のレベルを4にあげます。

その後、各キャラごとに武器を獲得せよとの任務が発生します。その任務をクリアすれば、そのキャラの秘蔵武器を獲得する事が出来ます。

GREEに登録してもレア武器はもらえません。が、電波塔やロケット台などの特別な施設を建設する事が出来るようになります。



empiresシリーズはイベント会話等が多く、3Zとはまた違う楽しみ方の出来るものなので、私は楽しんで遊んでいますが、3Zと同じ感覚で3empiresを購入すると戸惑われる方が少なくないようです。



3Zが楽しめたのであれば、無双OROCHI Zの方が個人的にはオススメです。

無双シリーズでは一番、敵の表示数が多いと思います。1000斬りは当たり前、少し頑張れば2000斬りもいけます。

武器の錬成も自分好みに出来ます。

三国4と戦国2までのキャラ+OROCHIオリジナルキャラの総勢90人以上がプレイ可能です。

11月2日にBest版(ゲーム内容は同じで値段が安くなったもの)が4000円ほどで発売されます。

12月には続編の無双OROCHI2が発売予定です。

こちらは三国6+戦国3+OROCHIオリジナルキャラの総勢120人以上がプレイ可能です。








簡単に言えば、箱庭内政で兵力など強化→戦闘パートで国を攻め、天下統一を目指すゲームです。



味方は、こちら側の兵力が敵国より高ければ、戦闘で頑張ってくれます。



今回は、戦闘ごとに毎回レベル1から開始されますが、学問所(施設)を建てたり立志をつけた武器があれば、レベルはサクサク上がります。

アクションは、最初から全て開放されているので苦手なキャラでも使う気になりました。



移動速度は、そのままでは遅いキャラも居ますが、良い足袋や馬があれば大丈夫です。

ステージも3より狭くなって動きやすいです。



レア武器1&2は、条件を1つだけクリアすれば獲得出来るようになったので、かなり楽です。

※GREEに登録しなくても獲得出来ます。



私は楽しんでいます。

じっくりプレイするのが好きならオススメします。



公式サイト

http://www.gamecity.ne.jp/sengoku3/emp/



攻略に関しては、攻略Wikiが便利です。

http://www16.atwiki.jp/sengoku3empires/







簡単に言うと、無双ではない



・施設のLv上げのために時間を進めるだけの完全な作業ゲーム。

・結局アクションパートをやらなければならない苦痛。

・一番気に入らなかった点はユニーク武器の取得にGREEに登録しなければならない事。

・エディットの不自由化

・味方は紙のように死にますので弱いです。

日本の16世紀の戦国時代において、 織田信長は、天下を取った のですか? 天下を取...

日本の16世紀の戦国時代において、

織田信長は、天下を取った のですか?

天下を取れそうだった のですか?



豊臣秀吉は?



要するに、何をもって「天下を取った」と言えるのでしょうか?







明智光秀に邪魔されてなければ、取れてました。

つまり、天下を取る一歩手前まで来ていたのです。

厳密に言うと、とれてませんが、取れたということでも良いのではないでしょうか?





全ての大名を従えて天下統一では?








「信長は天下をとることができる状態であったにもかかわらず天下をとることをせず天下統一を目指して道半ばに倒れた」と私は思っています。

「天下をとる」と「天下統一」は違うということに関しては前の回答者さんと一緒です。信長は「天下統一」はできなかったものの世間から「天下人」(天下を取った人)と思われ天下人としての条件も満たしていたと思います。しかし「天下は取らなかった」天下をとるということは将軍になって幕府を作るなり、関白なりなんなりになって天下に号令をかけることを意図することが要件であったと思います。しかしそれを信長は拒否し、あくまで天下統一を目指したように感じました。



・・・日本語ぐちゃぐちゃですね・・・「近畿を抑え、自他共に認める最も力を持った勢力であり、天下に号令をかける体制を作り上げた」ことをもって「天下を取った」と私は考えています。







ずばり、信長は「天下」を取りました。でもかっこ付きの天下です。

当時、畿内を制覇した人物を、庶民(公家や僧侶も含む)は「天下人」と呼んだと、当時の日記にあります。だから、信長は勿論、三好長慶も「天下人」であったわけです。

ただ信長は全国を統一できませんでした。そのあとを受けた秀吉によって、全国統一がなされたわけです。



つまり、「天下を取る」イコール「全国統一」ではなかったわけです。







信長は天下統一はできていません。

秀吉は統一しました。

★印以降は多分、国内に服従していない大名などがいない状態かと。







取れていません。

天下統一の過程で、

夢破れました。



天下を統一したのは、

豊臣秀吉ということでよいでしょう。

全ての勢力が彼に屈し、

彼の政策が全国に実施されたわけですからね。

「戦国策」の、「淳于髠一日」から、「豈特七士也。」」までの口語訳をお願いしま...

「戦国策」の、「淳于髠一日」から、「豈特七士也。」」までの口語訳をお願いします!!

できるだけ早めに;;







<口語訳>

淳于髠 は一日に七人の賢者を宣王に拝謁させた。王は淳于髠に訊ねた。<先生こちらに来て教えて下さい。私(寡人)は千里に一人の賢者がいればお互いが肩を並べるほど多く、百世に一人の聖人があれば踵をつけて歩くほど多いと聞いております。それなのに今、先生は一朝に七人もの賢者を紹介してくれました。このことは天下に賢者が多いということなのでしょうか>と。

淳于髠は答えた。<そうではありません。鳥は翼の模様が同じ同士で聚(あつま)って居り、獣は同じ足痕をもつ同士であれば倶(とも)に行きます。今 柴胡・桔梗を沮沢(湿地)に求めるならば、たとえ何世代かかっても 一草をも得られないでしょうが、睪黍・梁父の山陰にまで行き之を求めれば、車一台満載する程に載せられるでしょう。物にはそれぞれ類(カテゴリー)が有ります。今 私髠は賢者の類(カテゴリー)に入ります。王に仕える士大夫を髠に推薦するよう求めるのは、例えば河から水を挹(く)み、篝火から火を取るように容易なことです。髠が再び王に賢者を推薦しようとするならば、どうして特に七人だけに限るでしょうか?>(いえいくらでも紹介できるでしょう)と *疇は畝で区切られた田畑の領域から「類(たぐい)」の意味です。



<比肩随踵>の熟語として、次々に続いて絶え間のない様子。多くの人が後から後へと続く様子を表す言葉となりました。比肩随踵の「比肩」は肩を並べる意味で、「踵」はかかと。「随踵」はかかとを接して続くことです。

携帯の乙女ゲームにハマっていて、天下一戦国LOVERSや恋人は専属SPなどの会社は...

携帯の乙女ゲームにハマっていて、天下一戦国LOVERSや恋人は専属SPなどの会社は大概やり尽くしました。

似たような携帯サイトでオススメの乙女ゲームはありませんか?







かなり大手なとこなのですでに知っていたらすいません(;^_^A

BL&乙女ゲームポータルサイト

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ここから色んな乙女ゲームのダウンロードへとべます(^^)

僕と私の恋愛事情は絶対やるべき!!



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イラストが超美麗です

結構オススメ(^^)

秀吉が主人公の小説

秀吉が主人公の小説

豊臣秀吉が主人公の小説を探しています。

お勧め小説を教えてください。



お願いします。







今でこそ、主君の織田信長が人気ですけれど、80年代に津本陽の「下天は夢か」が出版されるまで、信長は至って不人気でした。

その分と言うか、豊臣秀吉は非常に人気で、「歴史作家なら、一度は秀吉を書く」と言っていいほど、巷に溢れていました。

その大半はもう、入手しがたくなっていますけれど、あるいはひょっこり復刊されるかもしれません。



私が覚えている、秀吉小説を挙げると……

吉川英治「新書太閤記」(講談社文庫)

海音寺潮五郎「新・太閤記」(絶)

早乙女貢「おれは日吉丸」「おれは藤吉郎」(絶)

司馬遼太郎「新史太閤記」(新潮文庫)

山田智彦「秀吉暗殺」(絶)

堺屋太一「秀吉 夢を超えた男」(文春文庫)

山田風太郎「妖説太閤記」(講談社文庫)

山岡荘八「豊臣秀吉 異本太閤記」(講談社文庫)

津本陽「夢のまた夢」(文春文庫)

まだまだあると思いますが……



一番のお勧めは、吉川英治でしょう。

戦後、日本国民を勇気づけるために書かれ、物資不足の折にも、優先的に用紙供給されたという”国民的作品”。NHK大河ドラマ第三作にも選ばれ、名優・緒形拳のTVデヴュー作でもあります。

普段あんまり本を読まない人の家にも、置いてあったというくらい広く読まれた伝説の長編。

ただし、全11巻もあるうえ、吉川が秀吉が天下をとり、有頂天になっている姿を描く気をなくしたため、「家康が秀吉に頭を下げた場面」で終わっています。

しかし、熱く書き込まれた戦国模様、夢中になるストーリー展開の上手さは、今も「国民的文学」と呼ばれるのにふさわしい。



同じく大河の原作になった堺屋太一の作品は、秀吉の一生を今日的視点から分かりやすく描いています。秀吉の行動や事件が、歴史にどういった影響があったか、今日から見ればどういった意味があるかを、彼らしく実に明快に描いています。

友人に譲ってあげたら彼は大いに気に入って、しょっちゅう読み返しているそうです。



まあ一番読みやすく分かりやすいのは、山岡荘八でしょう。

全6巻と手ごろな長さで、しかも講談調の読みやすい文章では彼の右に出る人は多くないでしょう。彼の作品を原作にした、横山光輝のコミック版もありますし。



山田風太郎の作品は、すごい異色作。

秀吉の「暗黒面」を抉り出した小説で、明るい出世物語に隠された秀吉の本性を告発しています。

「庶民は自分たちを苦しめた人物を、英雄として祭り上げるものだ」と言う皮肉な結末が印象的。一度は読んでおくといいでしょうね。








宇月原晴明

「聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)」



はいかがでしょうか?

史実からはかけ離れていますが、エンターティメント性の強い面白い小説だと思います。







司馬遼太郎さんの、「新史太閤記」を、おすすめします。

織田信忠の正室

織田信忠の正室

織田信忠の正室は誰でしょうか?

最初は武田信玄の息女(松姫?)と婚約していましたが

両家の反目後は破棄されました。

しかし、その後正室がいたと言う話は聞きません。

天下政権の織田家の嫡男に正室がいないのは

当時の常識では考えられません。

(三法師の母の実家はそこまでの名家ではなかったはずです。)

信長はどういったつもりだったのでしょうか?

信忠が成人するころなら当然それなりの家から

正室を向かえる必要があったと思うのですが。







まったくの推測で失礼します。

信忠自身が一貫して「松姫を正室として迎える」ことにこだわっていたということは考えられないでしょうか?

信忠と松姫は、婚約期間中、文通を通じて心の交流を深めてお互いを思い合っていたと言われます。

松姫の方も、婚約破談後も結婚していないようですから、お互いに「織田と武田が仲直りして結婚する」ことをあきらめていなかった可能性も考えられるようにも思われます。

織田家の女房の手記かなんかに、信長と信忠が一時期不和だったことが記されているらしいですが、それを婚約破談が原因ではないかとする説もあります。



wikipediaには、武田家滅亡後、信忠が松姫に迎えの使者を送り、松姫も会いに行くつもりであったこと、しかも信忠が死ぬとすぐに出家して、武田家の菩提のみならず信忠の菩提まで弔っているとあります。



「同年6月、信忠から迎えの使者が訪れ会いに行こうとした最中に、本能寺の変が勃発し織田信長・信忠父子が自刃して果てる(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもあるが、生前に松姫と信忠が会ったという可能性すら低く、何らかの誤りと考えられている)。

同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。」



武田の滅亡によってではなく、信忠の死によって出家したのだとしたら、お互いにそこまで思いやる絆があった・・・ということもあったのかも知れないような気がしてきます。

戦国時代にそこまでピュアな恋愛が・・・とも思いますが、信忠も信長の息子ですから、一度こうと思ったことはガンとしてなかなか曲げないたちだったのではないでしょうか。

信長も「信忠は向こう見ずなところがあるから、よくよく諌めるように」と、信忠の与力に書き送っていますし、気性が激しくて一本気な感じだったようなので、そういうこともないこともないのかな・・・と思います。

(本能寺で敵襲を知った信長が、最初に信忠の謀反を疑ったという話もありますから、信長に対する反抗気質もしっかり持っていたのでは・・・。)









> harima_no_sukeさん

すいません、信忠の側室には、森可成の娘も入っていたと言われていますが、どうなのでしょうか?

森一族も清和源氏の名門だし、信長お気に入りの森蘭丸の姉妹ということになりますし、信忠とりまきの美濃衆に連なる家です。

織田家の危機を身を挺して守り討ち死にした森可成のことを、信長はたいそう気に留めていたらしく、亡き可成の子どもを面倒見て相当取り立てていますから、森可成に面目を立てるために嫡男の妻に入れたという気がします。





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追記:信長の心中について



信長にとっては、ぶっちゃけて「正室」などという形式的なものはどうでも良かったのではないでしょうか。

信忠の正室も、必要があれば入れるし、特に差し迫った必要がなければ「将来使える手駒」として温存しておき、空位のままあけておけば良い・・・という感じで。



「権威」の面でも天皇家を凌駕しようかという信長でしたから、五摂家から嫁を入れる・・・というのは公家・朝廷に信長政権に付け入る隙を与えることにもなるので、あまり考える余地はなかったような気がします。

例えば公家・朝廷から輿入れしてきた正室が世継ぎを生んでしまうと、当然、正室の実家が力を持ってしまいます。

古来から藤原氏や平家が行ってきたように、信長の娘を天皇に輿入れさせ、織田の血筋を天皇位につかせる・・・という方が現実的な気がします。

むしろ公家や朝廷から信忠の正室をとろうという気があったのなら、朝廷との協調路線をとる意志があるということですから、それなら本能寺の変は起こらなかったのでは・・・?

(徳川家も何度か朝廷から正室を入れていますが、なぜか跡継ぎは一度も生まれておらず、朝廷の影響力が増すのを恐れて、幕府が「闇に葬っていた」という説があります。)



ただ、この頃は朝廷のあり方も含めて日本の政体をどうするかという大切な時期でした。

長年打ち捨てられてきた信忠の正室の座も、もしかするとあらたな必要性で動き出す可能性もあったかも知れません。

天下統一後は、朝鮮・明へ侵攻するつもりだったわけですから、征服した王朝の皇族から正室を入れる・・・という大構想もありえたような気がしてきます。

それならばあるいは天皇家から正室を入れて、日本の支配は信忠に任せる・・・というパターンもありうるかも知れませんが、日本の支配は次男以下の仕事という腹積もりだったかも知れません。








織田信長の心境としては嫡男の信忠の正室は政治的な必要性がない限り迎えないというものだったと思います。

信長自身の例からも正室を迎える婚姻というのは政略かさもなければ江戸中期の徳川家のように儀礼のようなものです。

すでに天下統一もみえてきた織田家からしたら他の戦国大名家から殊更、嫡男との縁組を結ぶほど重要な家が無かったということがまずありました。

武田家との婚姻が実際に行なわれていれば例え敵対した家の娘といえど男子を産むなど織田家に貢献すれば正室として史実に残ったかもしれませんがこれは実現しませんでした。

武家で適当な相手がいなければ公家か皇族ですがこれが織田信長の政権構想とも微妙に絡む問題です。

私は信長は天皇家を廃止する意図は無かったと思いますが、関白・太政大臣・征夷大将軍のどれに付き政権を打ち立てるかは明確にしなかったことからも信長自身が迷っていたと考えています。

このため嫡男の嫁取りを考えた場合に摂関家かそれとも足利将軍家の日野家のように下位の公家か、いっそ権威と天皇を取り込むなら皇族か決断しかねていたのでしょう。

信忠の場合は子供がいたので側室はいたわけですから政治的に切迫した必要性もなければ別にいいと判断したのでしょう。







ハッキリとしたことは、分かりませんが

小田原の香林寺という所に、「信長女」と伝わる人の墓があるそうで

この女性は、北条氏直の許婚の信長の娘・・と言われてるそうですが

一方では、そうではなく織田信忠の正室と伝えられてるそです。



この女性は、本能寺の時に信忠の家臣が伴なって小田原に来たそうです。

これだけで考えると、信長の死後だとしても何故、ひっそりと小田原に行く必要があるのか?

もし、信長の娘であるなら花嫁行列でも、そうじゃなくても、ある程度の行列で小田原入りする気がします・・。

しかも、婚約の段階で小田原入りしないと思うんです。

もし、この女性が信忠正室なら、子供もいないし信忠も亡くなったので

家臣が伴をし、実家に帰された・・と考えますが・・。



私も、憶測ですが^^:

参考までに・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0



追記・・すいません。大事なことを書き忘れてました。

 この説で考えると、質問の「信忠正室」は、北条家となります。 







織田信忠の妻として挙げられるのは、

摂津の塩河長満の娘ひとりです。



この塩河氏は、清和源氏の創始者とも呼べる源満仲の娘婿から続く家系を誇り、

摂津ではもっとも由緒ある武家となります。

ですから、三法師の母の実家が名家ではない、というのは少し違う気がします。



たしかに戦国時代の塩河氏は、荒木村重の組下、池田恒興の組下になっていますが、

北摂一帯を支配し続けていましたし、

鎌倉、室町を生き抜いた武家ですから、

正妻かは不明ですが、信忠の妻となるには見劣りしないのではないでしょうか?



それと、信忠が主将となった武田攻めのとき、

高遠城に籠もる仁科盛信を攻めますが、

このとき、信忠は降伏の勧告を行っています。

盛信は松姫の実兄になりますので、信忠の心の奥底には、

見たこともない婚約者を慕う気持ちがあったのかも知れません。

また松姫も、武田家滅亡後は盛信たちの兄弟と共に、

信忠も弔ったようですので、互いに心に秘めたものがあったのでしょうね。







信長は、自分の子供であろうと、政治の道具としていた感じが強いです。

松姫との婚約も政治でしたから。

武田を滅ぼした後、他に強敵は毛利ぐらいしかなかったので、政略的に正室を迎える大名がなかったからではないでしょうか。



(-o-)/

徳川秀忠のドラマについて。

徳川秀忠のドラマについて。

今度の大河ドラマは「江~姫たちの戦国~」です。

江役を上野樹里さんがして、徳川秀忠を向井理さんです。

(だがな、私としては「葵 徳川三代」の

お江を岩下志麻さんと(ちょっと極道タイプの恐妻家)

徳川秀忠(徳川家康の子供で、お江に頭の上がらないボンボンタイプの愛妻家)の

方が見比べてしまうのですが)



ところで、質問です。

結構、大河ドラマやそのほかの時代劇ドラマでは、どの徳川秀忠が良いと思いますか?

①大河ドラマでは

「徳川家康」「独眼竜正宗」の、勝野洋。

「春日の局」の中村雅俊。

「琉球の風」の岸谷五郎。

「葵 徳川三代」の西田敏行。

「武蔵 MUSASHI」の中村獅童。

「功名が辻」の中村梅雀。

「天地人」の西川明教。

普通の時代劇だと

「大奥~第一章~」の渡辺いっけい。

「天下騒乱~徳川三代の陰謀」の山下真司。

その他の時代劇ドラマ

どれもいいキャラクターなので決められません。

②今度の徳川秀忠の役を向井理さんが演じます。

すいませんが、この前まで「ゲゲゲの女房」が始まるまで、

向井さんの演技を見たことがないので、詳しいことは知りませんでした。

(最近ドラマを見ていない、自分なのもので)

今度の向井さんの秀忠はどうなっていくと思いますか?

(今の旬な俳優ですし、かっこいいし、クールな俳優だと思いますが)

またどんなキャラクターとなるでしょうか?



今度の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」を楽しみにしています。







①『春日局』の中村雅俊です。

なんか大河では一番印象に残ってます。

子供だったのでストーリーはうろ覚えですが。



②原作を読みましたが、

間抜けぶってて、すごく冷めてて、江をからかって遊んでる感じなんですが、

実は…みたいないわゆるクールのふりしたツンデレキャラでした。

めちゃくちゃ少女漫画的なキャラになると思います。

きっと恋愛色は篤姫より強いかと。

向井さんはクールな役が多いのでピッタリかもですね。

任天堂wiiのソフト(アクション)を買いたいと思います wiiのソフトでおすすめ又は...

任天堂wiiのソフト(アクション)を買いたいと思います

wiiのソフトでおすすめ又はハマった、気に入ったアクションゲームを教えて下さい

ちなみに私が持っているアクション系ゲームは



●大乱闘スマッシュブラザーズX

●戦国BASARA2英雄外伝ダブルパック

●機動戦士ガンダムMS戦線0079

●ワンピースアンリミテッドクルーズ エピソード1 波に揺れる秘宝

●ワンピースアンリミテッドクルーズ エピソード2 目覚める勇者

●ワンピース アンミリテッドアドベンチャー

●ブリーチ バーサスクルセイド

●ブリーチ 白刃きらめく円舞曲

●ソニックと秘密のリング

●ソニックライダーズ シューティングスターストーリー

●大神

●アルゴスの戦士

●スーパーペーパーマリオ

●スーパーマリオギャラクシー

●ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス

●ソニック ワールドアドベンチャー

●ソニックと暗黒の騎士

●デッドライジング ゾンビのいけにえ

●ドラゴンボール 天下一大冒険

●ドラゴンボールZ スパーキングメテオ

●ナルト疾風伝 激闘忍者大戦EX3

●バイオハザード4

●パンチアウト

●メトロイドプライム1&2&3

●ワリオランドシェイク

●ヴァルハラナイツ エルダールサーガ

です







バイオハザードアンブレラクロニクルズか、来年のバイオハザードダークサイドクロニクルズ

いえば、ばいおはざーど








キャプテン★レインボーとかどうでしょうか?

金ヶ崎で信長、秀吉、家康が討死したら誰が天下人になりますか?

金ヶ崎で信長、秀吉、家康が討死したら誰が天下人になりますか?







順当に行って朝倉義景でしょう。



三人が越前で死ぬということは、朝倉軍がそのまま入京する可能性が強いです。となれば、武力を持たない幕府(つまり足利義昭)は再び朝倉義景の庇護下に入るわけで、浅井<朝倉の関係から天下人は義景になるでしょう。ここで三好三人衆が巻き返しを図ることは考えられますが、義昭自身が兄・義輝の仇である三好より朝倉を頼りにするはずです。



義景は傀儡管領に細川昭元を就け、自らは管領代に就任、長政は相伴衆あたりでしょうか?つまりかつての大内義興政権のようなものが出来上がるわけです。この時代、天下=幕府、天下人=幕府の最高権力者ですから、天下人は朝倉義景です。



※ちなみに朝廷は、信長が幕府権威の代わりに頼ったことで、その権威を回復させています。よって幕府が京に存在している限り、その力は無視しても構わない程度に小さいものでしょう。



ただ稀代の当主・信長&家康が滅んだとなれば、その遺領の争奪戦が始まります。



南近江は伊賀に潜伏していた六角の勢力が復活し、一部は浅井領となる。伊勢は北畠具教が茶筅(織田信雄)を殺し、復活。美濃は東西から浅井と武田の草刈場となり、尾張一国は奇妙丸(織田信忠)を跡継ぎに織田の遺臣が頑強に抵抗、三河も同じ。ただ遠江は武田に席巻される。



ま、概ねこのようなところでしょうか?後は朝倉義景が政権をどれほど維持出来るかです。



義景に課せられる命令は二つ。兄の仇である三好の討伐と織田家を滅ぼすこと。しかし、朝倉家の兵力では京の維持で手一杯であり、尾張へ向かうことは出来ないでしょう。北畠や六角も織田残党が自国内に存在するだろうから、兵を外へ向けるのは困難。すると、織田征伐は信玄に委ねることになります。ただ信玄の寿命は迫っており、恐らくは織田家滅亡一歩手前で寿命が来ると予測します。織田と徳川の家臣は優秀なのが多いので、あっさり負けることはないと思います。(信玄が死ねば、織田&徳川は一時的に巻き返す)



そして、この後ですが、家中での義景の横暴さを考えると、恐らく義昭と義景の対立が始まるはずです。つまり朝倉包囲網が密かに形成されます。信長の器量を以ってしてようやく包囲網は破れたわけで、義景程度では政権維持は不可能でしょう。また包囲網形成で織田の力を再び欲した義昭によって信忠は赦免され、信忠×松姫婚姻復活で武田と和睦、滅亡を免れるでしょう。(史実で三好を許した義昭なら、義景と敵対した今、信長亡き織田家を味方に引き入れても不思議はない)よって包囲網は着実に輪を狭め、信長討死から義景が政権維持できるのは、3~5年と予測します。その後は、一時的に三好となり、そして上杉か毛利の後、謙信が死ねば毛利独裁になるでしょう。流石に将軍から頼られれば、毛利元就の遺訓もあったものではないはずです。(事実、輝元自身に野心はある)尚、武田勝頼にも可能性があると思います。



よって最初の天下人に朝倉義景、その後は毛利輝元と考えます。但し天下統一の気配はまったく見られず、戦国時代がもう50~100年は続いたことになったのではないでしょうか?








武田信玄が一歩リードだと思います。

国力、人材ともに申し分ないですし。

西上作戦を開始して混乱する徳川、織田家を併呑し、天下に号令をかけると思います。

武田家は源氏の流れを汲む名門ですから、征夷大将軍に就任し武田幕府が開かれるかも。







南蛮諸国の属国になる可能性が高いです。



信玄あたりが義昭を担いで中央に力を持つかもしれませんが、それは三好長慶が幕府を牛耳ったくらいの事にしかならず、各地での戦乱は収まらず、本願寺は諸国に治外法権をつくり、とにかくバラバラな状態が続くでしょう。



3大英雄が揃って滅ばずとも、信長一人が滅びただけでこの状態になった筈です。もう少し後ならともかく、この時期の秀吉、家康に天下国家のビジョンはありません。



戦国時代は誰もが天下統一を志していた時代に思われがちですが、実際に国家の統一をイメージしていたのは織田信長一人です。

三好、今川、武田などは京都で幕府の実権を掌握しようとしたに過ぎません。

そのことと天下統一は違います。



信長が統一を急いだ理由の一つは、諸外国からの侵略を防ぐには強力な統一国家が必要と考えたからです。



よってその信長が金ヶ崎の段階で滅んだとすれば、国内に信長に継ぐ者がおらず、内乱の果て南蛮の属国になっていた可能性が高いのではないでしょうか。







北条が膨張していって

天下を取る気がします







一応台頭者を潰したので足利義昭=室町幕府の天下が長引くのでは無いかと思います。

それ以降は可能性がありすぎてなんともいえませんが、史実より分権的な社会が成立していたと思います。







実力№1は本願寺ではないでしょうか。日本を宗教国家に塗り替えたかもしれません。仏敵信長のいない状況でモチベーションが続いたか、いまいち自信はありませんが。







どう考えも、戦国時代がずぶずぶのままの状態で推移するとしかいえないな。

下手するとスペインやポルトガルの植民地になっていたかもしれない。







足利幕府再興が一番有力でしょうね。



まず、毛利と上杉は天下を目指さないどちらかといえば

幕府に要職を与えられたら気持ち的には十分でしょう。



島津の前には、毛利がいてるし。長宗我部は本州に対して

兵力が貧弱すぎる。

機内には、天下を狙えるほどの国力を持った大名が居ないし。



武田、北条はお互いに敵が多く、伊達は戦国の中では上洛は

無理でしょう。



もしかしたら・・・・蒲生氏郷か島左近







毛利・・・・力はあるが、年。島津・・・・遠い九州統一が精一杯。長宗我部・・・・水軍なら強いかも。伊達・・・・政宗若いし、ちょっと遠い。武田勝頼・・・・子、信勝が優秀らしいから、もしかしたら武田氏が強いかも、織田、徳川の領土丸々取って、上杉、北条と講和。上洛。敵は浅井、朝倉で。







天下を掌握する野望に燃える武将たちは他にも多数存在していた筈ですし、別の武将達が戦国時代の主役に躍り出るだけの事であると思いますよ。

全国的には多数ギラギラしている野望を抱き、しかも戦にも滅法強かった様な武将達が数名存在していた筈です。

伊達政宗とかにしてみれば、戦国時代の主役達よりも20才位年代的に若かった有力武将だったのですから「好機到来」と捉える事でしょう。







その時は足利義昭が室町幕府を再興します。

250枚!!豊臣秀吉についてお願いいたしますm(__)m まったく歴史について無知なの...

250枚!!豊臣秀吉についてお願いいたしますm(__)m



まったく歴史について無知なので教えてほしいです(>_<)



BAは回答が早い&適切だった人にします(^o^)/

~教えてほしいこと~

・豊臣秀吉が全国統一するまでを簡単に教えてください。

・社会の自由研究に使えそうなこと。

・どんな人だったか。(性格など)



あと、3人の武将とは誰でしょうか。

みなさんどうかお願いします。







本来この「天下」ということばは、古代中国に由来し、春秋末期に至り周王朝が衰えて国内が分裂状態に陥ったとき、新しい主権者による統一社会の実現の目標として創出された地理的・政治的・文化的観念であった。やがて「修身斉家、治国平天下」という形で儒教的政治理念――徳治主義――を形成することになり、この「天下」観念はわが国にも早くから伝えられ、すでに古代の詔勅や宣命(せんみょう)などにも「天下」の語が頻用されている。中世にも源頼朝(よりとも)が鎌倉開幕にあたって「天下草創」と称したことや、また足利尊氏(あしかがたかうじ)の室町開幕が「天下をも草創し給(たまひ)ける」といわれたことなどもよく知られており、このように日本の歴史において中央集権的な国家体制、あるいは新しい中央集権の樹立が指向されるときには、当然想起されるべき概念とさえなっていた。1565年(永禄8)5月、天下の支配者たる将軍の地位にあった足利義輝(よしてる)が松永久秀によって弑逆(しいぎゃく)され、それより約2年後の67年8月に織田信長が美濃(みの)国井ノ口城の斎藤龍興(たつおき)を逐(お)って、同城を岐阜城と改名し、同年11月ころより「天下布武」の印を始用するのも、天下雄飛の第一歩を踏み出そうとする意識の表れである。この「天下」意識は武家のみでなく、職人の世界においても現れ、16世紀中ごろより塗師(ぬし)の「天下一」、畳刺(たたみさ)しの「天下一」というように、第一人者、日本一というほどの意味で職人たちが「天下一」を号するのも、職能による実力主義の表れである。と同時にこの民衆の「天下」意識のなかには戦国100年の争乱に倦(う)み、秩序の安定と平和の希求があったであろう。








◆全国統一するまでは

織田信長に仕えて織田政権の中枢として、

信長が日本の中部地方を統一するのを支援した。

その後、秀吉は、

中国の毛利輝元、

東海の徳川家康、

北陸の上杉景勝

を家来にし、

四国の長宗我部元親、

九州の島津義久、

関東の北条氏政

を戦で倒して全国統一します。



農民出身で、トップにまでのぼりつめたのは

世界史上非常に稀なことでした。



戦の方針としては、兵力の損失を避けるため、

それまでだれも用いていなかった戦法を用いたこと

(例:鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めなど)

農民出身だったため、譜代の家臣を持たなかったので、

有力な武将は倒してしまうのではなく、降参させて

味方として使う戦術を採用していました。



※人間関係の基本は、相手のことを良く考えること

=>コラム(豊臣秀吉に学ぶ)

http://www.c-road.jp/6column/column01.html





◆社会の自由研究で使えそうなこととしては、

経済や文化面を研究してみることもできると思います。



例えば、秀吉は太閤検地を実施しますが、

検地以前、地主でもあり武装集団でもあった土豪は、

経済的、軍事的に村を支配していていましたが、

太閤検地により、一地一人耕作制が進み、

土地に対する権利が認められ、

土地所有の明確化が進み、

農民の勤労意欲が向上しました。



秀吉が実施した太閤検地によって、

日本全土の石高は18,578,110石

と算出されました。

これは、日本で初めてGNP(国民総生産)を計算したことで有名です。



また、文化面でも、安土・桃山時代は、

陶芸・茶の湯その他さまざまな面で華やかな時代です。

トップの秀吉が明るい性格だったので、

それが当時の日本文化に反映されたと考えられます。



秀吉の登場により、大名としての名声を保つことの条件として、

茶道を極めることも含まれていたわけで、

これは安土・桃山時代以前にはなかったことです。



◆3武将は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です



3武将の性格を表現する有名な川柳がありますが



織田信長(鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス)

豊臣秀吉(鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス)

徳川家康(鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス)







1 農民の出である これは秀吉のコンプレックス



2 信長の家来になって いろんな戦で活躍する 信長を逃がすため殿(しんがり)っていうかなり死にやすい囮になったこともある



3 奥さんは同じ織田家仲間の妹の ねね のちの高台院



4 戦の過程で蜂須賀党や有力になりそうな加藤清正、福島正則など小さい頃からかわいがったりする ねねが作った料理とか一緒に食べるレベル



5 信長が全国統一する計画の一部の役割として秀吉は中国地方の毛利家討伐をまかされる



6 信長が本能寺で明智光秀に殺される



7 たったの三日という信じられないような神速で四国から引き揚げて光秀を山崎の戦いでやぶる

中国地方から引き揚げるのを「中国大返し」

山崎の戦いで天王山をとったほうが勝ちだ的な状況になったことから 受験のとき夏は受験の天王山っていう



8 山崎の合戦の後、信長の後継者だれよってなったなかで、秀吉と柴田勝家っていうのが候補であがっていて賤ヶ岳の戦いで勝家をたおす



9 西の薩摩などの九州、東の北条氏をたをす 北条を攻めたのを小田原攻めというが 北条VS全国 にもっていって北条はどうしようもなく 北条側の会議がもうどうしよかぁってなって 会議で何にも決まらないことを 小田原評定 っていう



10 徳川家康がチャンスをうかがって小牧・長久手の戦いをしかけてきたけど、頭を使って停戦協定結んで家康を負かす



11 最後は武力じゃなく、政治力で天下統一、 自分は関白になって聚楽第っていうのつくり天皇を横につけて自分の偉さをアピール。全国に力を示した。



12 刀狩りやったり長さや枡の大きさを統一したり 文化的に天下を統一





秀吉という人物は日本史の中でもかなり描写の多い人物なので簡単に説明してもかなりの長さになってしまいます。

この人の性格としては人を使うことに長けていたということですね、今でもその知恵がビジネス書などにしょうかいされたりしてます。



有名すぎるエピソードの中で一夜で城を作ったり(いまでいうビルを1日で立てちゃったよくらいの衝撃でしょう)

冬に信長の草履を懐で暖めてたり

木を数えるのに一本一本数えるのではなく ひもをたくさん用意して、たとえば1000本なら手元に2本余ったら木の数は998本だみたいな

とても知恵が働いた人だったんでしょう。



天下統一後、秀吉は晩年、朝鮮に出兵をするのですが このせいで韓国などからはかなり嫌われている人物となっています。







・豊臣秀吉が全国統一するまで

→http://www.geocities.jp/yuutarou19800126/sengoku4.html 詳細が書かれていました☆



・どんな人だったか

→表面的にお調子者、実質は陰湿で根に持つ。陽気で洒落は好きだが、冗談は通じない。

情愛は細やかであるが、冷たく突き放す事もある。いろいろな事に興味を持ち、器用にこなす。

派手好き。あまり利づめで動かない。



・3人の武将

→織田信長・豊臣秀吉・徳川家康



正しいかどうかは、わかりませんが、ご参考までに。。。







織田信長の家来になり、頭を使った戦術(1夜で城を建てるなど)で戦に勝ち天下統一に至る。

性格はエンターテナー。話術で武将の戦意を崩す。

三武将、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。

伊達政宗って何が凄くて有名な人なのですか? ネットで検索しても「戦国一、頭が...

伊達政宗って何が凄くて有名な人なのですか?



ネットで検索しても「戦国一、頭が悪い大名」の内容しかヒットしません。

輝かしい戦歴は一つもありませんし。



伊達政宗の凄い所を教えてく

ださい。







彼が現在の人気に値する『大した人物』であることは間違いないと思います

彼の行動や思惑が当ったこともあれば、外れたこともあります

でも、東北に生まれて本気で天下を狙ったのは

長い歴史の中で後にも先にも彼1人です

それは何故でしょう?

東北人の真の敵は信長でも秀吉でも家康でもない

『冬将軍』だからです

遅い春を、短い夏を、駆け足でやって来る秋を

長くて厳しい冬を生き延びるために暮らします

そして迎える冬、

雪かき、雪下ろし、そしてまた下ろした雪の雪かき…、

東北に生きるものは毎年、敵と戦う前に冬と戦い我が身をすり減らします

寒さに身をすくめれば、自然と顔は下を向く

下を向けば反骨心は削がれ

中央の権威、権力に逆らえようはずもありません

アテルイの敗北以来、東北に住まう者はすっかり自信も自尊心も失ってしまいました



しかし、彼は違ったのです

婚姻関係も含めて内に篭りたがるこの地のシガラミを断ち切り

威風をもって領内の者を奮い立たせて権力者に堂々と渡り合い

隙あらば天下をと野心を燃やし

自らの存在を高らかにアピールしました



我々にとって異質でありながらもっとも求心力がある存在

精気が漲る彼に惹きつけられるのです

「今は耐えるので精一杯、けれど何時か見てろよ…。」

政宗の生き様に我が身を重ねる

それが東北人のガマン強さ、粘り強さに繋がっているのだと思います








ネットで検索しても「戦国一、頭が悪い大名」の内容しかヒットしません。???そちらの方が不思議ですね?

正宗の業績は文献も沢山ありますから、ネットで検索すれば色々出て来ますよ。







僕も伊達政宗が好きなわけじゃないんですけどこうやって伊達政宗を批判している人は

だいたい「僕歴史好きでなんでも知ってます・・」的な人が多いです。伊達政宗は関ヶ原の戦いで上杉景勝

や徳川家康と重大な駆け引きをしています。政宗を贔屓するわけじゃありませんが政宗を

馬鹿にしてる奴はもし自分が政宗だったらもう最上や南部ボコボコにされていると思いますよ

とゆうわけで政宗はすごいと思いますよ・・







実力に比して、過大評価が段違いで、評価されまくってるとこでしょうか?







戦国時代を生き残り「石高」が「外様」の中でNo3となりました。



1位 徳川家 400万石

2位 前田家 100万石

3位 島津家 80万石

4位 伊達家 60万石



このような好成績を残し、また行動が為に成るや

「片目」で見た目がユニークなど合わさり凄いとされています。



この成績で凄いと思えなければ

その人間の観察眼がおかしいです。







どの武将も だいたい、ご当地の観光の目玉に

なっており、そのてんでは伊達政宗も関係各県の

持ち上げ が相当あるので、それも あるのじゃ

ないでしょうか。

仙台には、伊達政宗 の素晴らしく立派な甲冑姿の

騎馬状態の銅像が、あります、去年の地震でも

壊れなかったそうで、あの像が、東北のヒトの

伊達政宗への崇拝を凝縮しているのではないかと

思います。ところで、東北といっても

伊達政宗の宿敵で伯父の最上義光の ご当地

山形県は、伊達政宗で、なしに

最上義光の素晴らしい甲冑姿の騎馬の銅像が

おったっています、そんなもんなんでしょうね。







まず 頭が悪かったは嘘です

立派な教養人であって その確かな記録も残ってます

頭が悪かった などと言うのは歴史に詳しくない方々が言うセリフですね 無視したほうがいいですよ

まず阿呆は周りに無能な者を置きます それは有能な者をおくと、自分の立場を危うくなると思い 遠ざけるためです(心理学で証明されてます)

上杉憲政などがそうでした 調べてみてください

それに比べて伊達家は片倉小十郎 伊達成実 鬼庭綱元 後藤信康など有能な武将が沢山います、これだけでも頭が悪かった訳ではないと分かります



戦歴については 初陣で相馬に勝利し、父輝宗の代に奪われた土地を一度に取り返しました

人取橋の戦いで佐竹、相馬、畠山、芦名連合軍に1/10の兵で挑み(それしか用意できなかった) 最後まで粘り 遠国である佐竹を撃退させ 佐竹の援軍としてやってきた芦名 相馬の大義名分をなくし撃退させ最後に畠山に攻め込み勝利するなど 采配にも長けてました

時代は変わりますが大阪冬の陣 あの真田幸村と唯一対等に戦ったのが伊達軍でした



仙台藩の政治についても 北条家の政治を見習い 石高は一時100万(当時としてはもの凄いですよ)を越えたと言われます



まぁ確かに 美化されすぎな所もありますが けして阿呆ではなく 有能な武将であったことは間違いありません







確か若い時分20代前半で奥州一の大大名になったというのが凄い戦歴だと思います。



石高で言えば一時だけど100万石をはるかに超えてたんじゃなかったですかね、200万国ぐらいだったかな?



あの今川義元でも織田と闘う時にやっと100万石前後だったと思いますのでそれはそれで大したもんだと思います。



政宗以前植宗時代には鎌倉時代からの名家であり、積極的な政略結婚を推進したことも重なって、それなりに奥州の盟主的存在だったようですが植宗・晴宗時代のいざこざで相当国力を疲弊してた間に蘆名氏が台頭し、その背後には佐竹氏がいましたので非常に厳しい状況にありました。



そんな中を大石氏や畠山氏、蘆名氏等々次々と破って20代前半で奥州の覇者と言われていたのは凄いと思います。



まあそれと仙台市の整備等を考えるに行政能力も大したもんだと思います。



あと普通にやってれば100万石をゆうに超えていただろうに色々と欲にかられてあわよくば天下をなんて考えていたので領地拡大を許されませんでしたが泰平の世になって開き直って国力増強を図り、裏石高で100万石を達成していたところはさすがだと思いますよ。



まあ私もあんまり詳しくないんですがこういったところでしょうか?







伊達政宗のすごいところは、「世渡りがうまかった」です。

僕も以前はアンチ伊達政宗でしたが、後からだんだんと好きになってきました。

仙台をあれだけの町に発展させて、外様ながらも幕府から改易にされることなく守り抜いた処世術、これですかね。

あと、ビジュアル的なセンスの良さですかね。あの甲冑は戦国一伊達です。







伊達政宗の実績は全然大したことはありません。

後に仙台が発展したことで持ち上げられたに過ぎないのです。



凄いところと言えば、何もしていないのに有名になったことくらいでしょうか。







能や茶道等を嗜んでおり、千利休にお点前が武士らしく堂々としていてすばらしいと褒められたことがあります。







これ、いちおう質問は「伊達政宗はなぜ有名なのか?(実績に比べて)」という質問でしょう?

ならば、伊達政宗の悪口をいくら書いても解答にならないと思いますけど。

伊達政宗がどうしてメジャーか。仙台伊達家が大領主として幕末まで続いたからです。戦国大名の価値は「輝かしい戦歴」なんかにはありません。いくら途中で得点稼いでも最後にゼロになったら、大名としては失格です。戦歴なんかカスです。

どんな手を使っても家を残す、それが戦国大名の評価ポイントです。その意味で、伊達政宗ほど凄い戦国大名はいません。「あれだけの戦歴」なのに「あれだけの領地」を守ったのですから。







結局は地方区の戦国大名で凄いところ何もありません。逆に言えば周りに大した強敵も居なかったと言うべきですね。強いて言えば幕末まで生き延びた戦国大名の一つですが、薩摩の島津氏に較べても知名度は遥かに格下です。

戦国一の戦上手は誰だと思いますか? 戦術、戦略とありますが、それぞれ凄いと思う...

戦国一の戦上手は誰だと思いますか?

戦術、戦略とありますが、それぞれ凄いと思う人物をお上げください。

やはり武田信玄か上杉謙信あたりは鉄板でしょうか?







単純に戦上手ですよね?

天下うんぬんでなく

弱兵を率いても勝てる如水でしょう。信玄、謙信、家康それから島津…は確かに強いですが、率いている武将が凄いし、兵が強いですから。信長も弱兵を率いてた点は似てますが、やっぱり負け戦も多いです。農民を率いても勝っちゃい、逆に清正のような強い武将使っても勝っちゃう如水でしょう。








最終的に目的を達した徳川家康、その家康を一ひねりにした武田信玄などが鉄板と思いますが、



私はあえて、島津義弘を推します(笑)



関が原では1000名とか300名とかいわれる手勢で参戦、敵陣中央を突破しての退却をしました。

更に薩摩は、西軍にも関わらず領地を失っていません。







戦の目的を達成した徳川家康となりますかね



他の人に無い

見据えることやバランス感覚や運や手段を選ぶ器量など兼ね備えていたのでしょう

家康の描くビジョンがより現実に実を結ぶものだったこともあるでしょうね



周りとの関係や人間バランス抜きで

戦だけで見ますとその狂気も含め織田信長は戦乱と混沌の時代の象徴と言える存在と思います

戦国の世であるからこそ生まれた申し子というか戦国の世と切り離して考えられない



それと言われる通り武田・上杉は鉄板だと思われます

皆、甲乙つけがたいのでそれぞれの好みになりますかね



最終目的を成しえた徳川家康で







上杉謙信だと思います。



武田信玄と北条氏康を同時に戦っていたし、織田信長を手取川で打ち破って弱いと言っていたからです







真田親子です、関ヶ原の戦でも、秀忠の進軍を遅らせたという、実績は素晴らしいことです。残念ながら三成が破れて、流人にされますが、もし、生きていれば、大阪夏の陣でもとても面白い展開になっていたことでしょう。しかし、息子の幸村も素晴らしい才能ですね、あとすこしで家康の首までとれたのにと思うと、残念です。真田丸の設計もとても素晴らしいことです。大阪城の弱点をこれにより、強点に変換していますし。







織田信長を推す。理由は単純に最大勢力になったからです。目先の勝利だけではなく政治的、戦略的判断に優れていたから出来たのです。

補足 豊臣秀吉、徳川家康の偉業は認めますが、それも織田信長の築いた勢力を引き継いだけの話です。天下布武の旗の元、戦国時代の日本統一を誰よりも早く目指し、当時の征位大将軍の足利氏を追放し、朝廷との関係を築き、経済を奨励し新兵器の火縄銃の大量生産を可能にし戦国時代の戦術を一変させ、一向一揆集に情け容赦ない弾圧により政教分離を進めた信長の優れている政治力、戦略眼がなければ、戦国時代の終焉はなかったと思います。

戦術的にも桶狭間の戦いで戦術的不利を覆し、幾度かある敗戦にも生き残り最大版図を築いたのですから、自分の中では信長です。







そりゃ徳川家康ですよ。

いちばん達者だったから、最後に勝ちを得たってことですし。







戦術

長槍・火縄銃の大量運用と相撲の奨励、方面軍団制、関所廃止の新鋭機軸・織田信長。



戦略

個人の采配で大敗が少ないといった点では豊臣秀吉を推してみます。

(領土拡張どころか外交・朝廷工作・合戦で全国を統一しています。)

戦国時代で一番の勝ち組は誰ですか?

戦国時代で一番の勝ち組は誰ですか?

回答待ってます



日本の戦国時代でお願いします







天下をとった家康ですーーーーー。








江戸の住民。



田舎が都会になったのだから。







公家ですね。



戦国の世が終わり、幕府の庇護を受けることが出来るようになりました。



伝統的な行事は主に公家によって為されていましたが、それも平和があってこそです。







商人・町民だと思います。







面白い質問です。

でも勝ち組?単純に考えたら、徳川だけどそんな答えを求めているわけではなさそうなので・・・ためしに色々あげてみましょう。



まず細川家・・・元々幕臣だつたのに信長に乗り換えて、対幕府・朝廷要員として重用。「本能寺の変」では親しい明智につかず(ガラシャ夫人は光秀の娘。おまけに光秀に息子はいないので後継者にもなれる)、基本的に日和見なのにそう思われずに、うまく秀吉の部下になる。関が原では徳川につきついに熊本の領主として大大名となる。

次は黒田官兵衛(これでいいはずだけどパソコンでは一発ででない)元は播州で割拠する小名の家老職。それが信長の先見性を見抜いて、自ら部下同然になる。もっとも依然として元の君主は生きているので二股?本人は元の君主もまた信長の部下になるものと思っていたのでそうとは感じていなかった。だが見捨てられたと感じた君主は播州蜂起でカンベエと袂をわかつ。おかげでカンベエは地下牢にとじこめられ、片足を悪くし半分はげにもなってしまう。これがこの名軍師、最大の失敗。そして本能寺の変では秀吉の尻を叩いて天下を取らせたといわれる。ただあまり報われなかったが、それは秀吉に警戒されたため。のちに関が原がおきた時、なんと九州の片隅わずか10万石程度の小藩、おまけに主力は徳川方の味方として出兵・・・そんな中で兵をあげ、九州の豊臣方をあつとい馬に平らげ、最後に残った薩摩攻略の直前に関が原の勝利の報がとどく。ある意味不運。

もつとも逸話に秀吉が「わしが死んだら誰が天下をとる?」の質問に居並ぶ大名達が色々名をあげるが「違うよ。このちんばさ」と指名された男である、このくらいはあたりまえか。このあと福岡で大大名になるが、秀吉が警戒するくらいである、当然家康も警戒<関が原で大阪方の裏切り工作をした息子の名前であたえられる。晩年は子どもを集めて遊び暮らしたといわれるので、ある意味人生の達人でもあったでしょう。

島津家・・・島津に馬鹿殿なしといわれるほど、よい君主に恵まれた藩です。ただ、その勃興期に秀吉とぶつかったのが、身の不運。大敗後、元の領地に押し込められたわけですが、もし信長ならもつと酷いことになつたとおもわれます。そういう意味では幸運。さらに関が原で三成の拙劣な指揮に起こった島津は戦わず、三成方の敗北が決まってから動きます。なんと徳川の陣の前を横切り脱出にかかったのです。「関が原の退き口」といつて薩摩の伝説になつた壮絶な脱出劇のはじまりでした。その時の兵は2000弱。帰り着いた時は100をきりました、だが総大将は生き延びたのです。この勇猛な行動のおかげで島津はついに領土を削られること無く、大大名として残りました。また九州征服時に増えた家臣のせいできわめて貧しい藩になりましたが・・・

沖縄を征服・中国との密貿易で巨万の隠し財産をきずきます。これが後の倒幕の原資となるわけですが、勝ち組というには微妙?

前田家・・・犬千代さんですね。秀吉の友人であつたため、柴田の与力であつても厚遇され、秀吉の引きでドンドン領地が増え、楽して出世したタイプ。本来なら、その引き立ての反対給付として、家康と敵対しなければならない時にあっさり死亡。利家が死んだら義理立てはすんだと一気に徳川に膝を屈します。もつとも、100万石です。なかなか徳川の監視も厳しいと、徳川時代を通じ文化に力をいれます。町を歩くと謡がきこえるという加賀文化が花ひらくことになります。勝ち組。



ついつい徳川時代までいれてしまうので、質問にもどり「戦国時代っていつからいつまでだ?」

1473-1573だいたいこのあたり。応仁の乱から、信長が足利将軍を追い出し天下統一に乗り出すまで・・・・えぇぇぇーっ!

信長が生きてる!!!ひつかけ問題か?



ならば答えは 織田信長 この人が一番。

もし宗教組織をいれていいなら 浄土真宗本願寺

・・・なかなか大変な問題でした。







これで家康っていったら、あんまりですよね。



土佐二十四万石を貰った山内一豊にしておきます。







豊臣秀吉。戦国時代じゃなかったら成り上がてないでしょうかね。家康が天下取った、安土桃山時代だから戦国時代ではないような。







徳川家でしょ?



きっとこんな答えでは、いけないんでしょうね。



質問の趣旨が図りかねます。

天下一戦国LOVERSについて質問です。 DSが発売になりますが、対象年齢は何歳...

天下一戦国LOVERSについて質問です。

DSが発売になりますが、対象年齢は何歳からでしょうか??








対象年齢は17歳以上です。

ちなみに、CEROはD。

本能寺の変について皆さんは黒幕は誰だと思いますか?

本能寺の変について皆さんは黒幕は誰だと思いますか?

明智光秀が謀反をおこしたのは明白ですが誰が後ろで操っていたのか?



1.羽柴秀吉(私は今でもこいつだと感じています。)

2.徳川家康

3.朝廷

4.明智光秀単独説(謀反をおこし、目的を達成した後の行動が光秀にしては楽観的すぎるような気がする。)

5.その他



理由等も教えて下さい。







その後の光秀の行動からして、4の単独説でしょう。次は3の朝廷黒幕説でしょうか。直前に朝廷は信長に対し「いかなる官にも任ぜよう」と事実上、政権を選択させる使者を送っていますが、信長は鼻で笑ったと言われています。『時の政権の正当性は天皇によって担保される。』昔からの日本の国体の仕組みであり、天皇家が世界で唯一万世一系統で残っている最大の秘密です。(権力争いから超越した存在になることにより誰も手を出さなくなりました。~すごい知恵と言われています。)現在も選挙によって選ばれた与党の党首が国会で内閣総理大臣に指名され組閣した後、皇居にて天皇から認証されることにより政権の正当性が担保されています。平安時代から現在まで変わっていません。信長は唯一侵してはならない日本のルールを侵そうとしました。光秀がこれを聞いて、決意した可能性もあります。

質問者には申し訳ないですが、1はまずないです。秀吉自身が中国大返しを振り返って子飼いの武将達の前で、はっきりそう言っていますから。「あの時ばかりは、援軍に来るはずの光秀が謀叛を起こし、信長様もやって来ないと知って、毛利の大軍が目の前に迫って来ているのに自分は一体どうなるのかと、ただ狼狽するばかりで頭の中は真っ白になり我を見失っていた。その時、官兵衛が軍扇で我が肩を叩き「殿しっかりなさりませ、天下取りの運が廻って来ましたぞ」と諫言され、我に帰りその気になった」と。

補足について:大きな勘違いをしておられるようですが、勝てる戰で信長を安土から引っ張り出すために援軍を要請したのではなく、当時毛利は3か国差し出して降伏を申し出ており、秀吉はこれを信長に報告しただけです。(高松城の救援のために毛利本隊が出陣してきた事と)なぜならば、秀吉は前線の一司令官にすぎません。国同士の交渉(すなわち外交)は戦国時代の当時も国同士で行っていました。だから、信長に報告したのです。勝手にけりを着けたら信長の性格からして、それこそ軍例違反で秀吉は信長に一族皆殺しにされます。~現在でも重罪で、国によっては銃殺刑も十分あり得ます。(信長はかつての信長包囲網の中心であり、石山本願寺を10年間救援し続けた毛利を許す気はなく、光秀に出陣を命じ、毛利と決着を着けるべき、自らも出陣しようとしたのです。)








光秀は切れ物です秀吉に匹敵かそれ以上の人物だったと言われており、その切れ者の光秀が信長を打ち取った後の事は支離滅裂感があります。行き当たりばったりの感じですこれはかなり考えずらく、研究者も首を傾げてるようです

周到な光秀がこんな行き当たりばったりをやるのは確かにおかしいと感じます、これは言われている公家などからそそのかされてってのなら、前々からなんらかの工作をしてるはずです、秀吉陰謀説も秀吉に利用されてるってのを光秀が見抜けないはずなくこれも考えずらいのでは



結局なぜ何でしょうか?







黒幕はいません。



①事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物がどのようにして光秀と接触したのか説明がない。②実行時期の見通しと、機密漏洩防止の対策への説明がない。

③光秀が謀反に同意しても、重臣をどう説得力したのか説明がない。

④黒幕が事件の前も後も光秀の謀反を具体的に支援していないのはなぜか説明がない。

⑤裏付ける史料がない。



以上5つが黒幕肯定論者の穴です。誰もこの5つを説明できないのです。



おわかりですか?



光秀の単独犯行だということが。







4、単独犯。



光秀は、本能寺の変の後、細川と筒井に手紙を出しています。



考えて見てください、当時でも謀反は大罪なんですよ、だから寝返らせた大名を、お前は利で簡単に寝返るので信用出来ないと殺す事だって有るでしょ。

あの戦国時代でもこれは非情に意味嫌われる行為だったのです、これを肯定すると、さすがに誰を信用すればよいのかとなりますからね、何も出来なくなってしまうでしょ。



その、細川と筒井を見方にするのが光秀の一番最初にしなければいけない必須事項です、あなたならどうしますか?



自分なら、理由を書いて自分の利だけでした行為ではない、誰々も合意の上の行動だから安心して合力して欲しいって書くでしょ、下手したら嘘を書いてでもこの二人を見方にしないと畿内を抑えれないんだから、この二人が味方していれば秀吉には絶対負けませんよ、秀吉も山崎で性急に戦をしなかったでしょうが、もししたら負けていたと秀吉本人が筒井に言ってるんだから。

でも、実際に誠実な人だよね光秀は、かねてからの遺恨これありって、それじゃ細川も謀反人光秀にほいほいついていけないよね。

朝廷でも家康でも秀吉でも、実際何も書いていないし、黒幕がいたとしたら、あまりにも不細工すぎるでしょその黒幕が。







1に一票です。



おおざっぱに言うと直後に一番得したヤツ…なので。









朝廷。信長が既成の概念全てを否定し、新しい世の中を作ろうとしたから。元号まで口出しされ改変されては、もはや権威もなにもあったもんじゃない。







僕は光秀単独だと思います。



面白く極端に考えたら、家康の接待=殺す。



お前が家康を殺せと信長に命じられいたのではないかと。。。。

でも、光秀はその素振りも見せず、もたもたとして普通に接待をしているので

しびれを切らした信長が怒りだし万座の席で叱責され、お役御免。

その上、領地を召し上げられ切り取り御免と言う無茶を言われる。

そして秀吉の手伝いに行かされる。



恥をかき、屈辱を味あわされて過去の事も併せて

『俺には俺のやり方があるのに!くそーーーーー信長!殺してやる!』と

思ったのではないか。



光秀の軍の兵士が残している日記に『家康を殺すのだと思って従軍していた』と

言う物があります。

そして、直前に信長を討つと言うのを聞かされたようです。

何も知らされず進軍している一兵士が、勝手に『家康を殺すんだ』と

思いこんでいたと言う事は、元々家康を殺す計画があったから混乱なく

進軍できたのではないかと。



怒り心頭の光秀は、咄嗟に家康暗殺計画を利用できる今なら、もし信長に進軍を

知られても怪しまれず本能寺近くまで行けると思い、『自分の領地、家臣を守るには

今しかない』と謀反を起こした。

だから、決行後の対応がグダグダになる。



なーーーんて妄想はどうでしょうか。



まあ、『信長嫌い』と言い合う事はあっても、光秀を操って謀反を起こさせ信長を

殺させるなんて推理小説みたいな事は冷静に考えて催眠術でも使わない限り

無理でしょうから理由はどうあれ単独行動でしょう。



陰謀説を説いている研究家も、陰謀があったと言う前提で考えれば色々

黒幕は浮かぶが、陰謀だけを信じた偏った見方だと言ってますしね。



『時は今、あめが下しる、五月かな』も連歌の専門家からしたら

強引な解釈らしいですし。







5その他、です。

明智光秀は謀反決行の直前、家臣たちに聴いています。

予定どおり西へ進撃するか反転して東へ進撃するか、と。

東へ進撃する案を家臣の大多数が賛成したから

謀反は決行できたのです。

家臣の大半が西へ行こうと言ったら謀反は起きていませんでした。

もっとも光秀は決議の強制は、しなかったので

謀反に従わなかった武者もいました。(可児才蔵など)

これは非常に多くのサムライたちが信長はイヤだと思っていて

明智の謀反に賛同したことを意味しています、そういう勢いの

下からの突き上げに乗って明智光秀は、その大きな流れを

指揮して織田信長を討ったことになります。

だから、それを何に例えるかは、軍隊を味方にして

軍の中枢層の大多数の参加を確立して体制を

転覆させるクーデターのようなものだと思います。



明智光秀のような武将単独で謀反の指揮を

家臣らに有無を言わさず強要させるには

光秀はカリスマが足りなかった気はします。

チェニジアで起ったアラブ諸国の反独裁運動の多発が

タイミングよく好例でしょう。

ムバラク大統領というのは、終身大統領を

しようとしておりサダト大統領が暗殺されて以来

ずっとエジプトの首領をやっています、

このような独裁者の体制は

軍部の支持を得てでないと

とても革命とか体制転覆は無理であり

織田信長は日本史上、屈指の独裁者です。

明智光秀は、クーデターを家臣たちに提示して

家臣らに支持されたので体制転覆が可能でした。







5、当時の日本社会です。単独では黒幕にもなれません。たくさんの自称黒幕はいるでしょうがね。







こんにちは。



この問題も謎が多いですよね。

個人的には1か2と思います。

4は彼の性格からして(想像ですが)、一人で出来る事とは思えません。

誰かが操ったとしか考えられません。



なので、少し面白い説として、信長の自作自演説というのも。

信長が光秀に本能寺を攻撃させたというもの。

信長は、バーンアウト症候群に陥り、何もかもやる気を失った。

蘭丸に首を切らせたと言っているが、死体が見つかってないから死んでないのではないかというもの。



これも滑稽ですね。







補足を受けて



援軍は光秀だけではありません。

信長公記「惟任日向守、長岡与一郎、池川勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。」





野望説、(一瞬のチャンスに賭けた)が最も欠点が少ないです。



黒幕説には証拠が無く、また、準備期間や伝達時間から考えて、作家の想像の域をでれませんね。

「領地を取り上げられて、毛利領の出雲・石見を切り取る」「母を見殺しにされた」「家康の饗応で叱責」などの恨み説も創作。信長は「光秀を見習え」と広言してましたし、また、光秀の地位は、近代の「近衛第2師団長」というべき地位でした。身内や側近並みの信頼度です。

また、信長公記によれば、先に出発するも、信長の指揮下で、高山右近や中川瀬兵衛たちと共に、秀吉を助けに行くことになってましたから、これも名誉なことです。(同年の武田攻めよりもデラックスな出陣)

革新対保守による対立説も、バブル期の作家の革新的信長像をうのみにした説であり、史実とは思われません。

また、光秀が、変後「何もできてない」というのも間違いで、わずか10日余りで多くの事をなしえています。



※電話も郵便局も無い、連絡だけでも時間のかかる時代の10日余りは、現代の1日か2日でしょう。



変後、短時日で、光秀は近江と若狭の国人衆の大部分を味方に引き込んでいます。蒲生や山岡の例外を除いて。(つまり、主殺しという汚名は、さほどマイナスにならなかった、という事。光秀は柴田・徳川など東側の勢力に対抗する準備に取りかかっていた。)

さらに、筒井もいったんは、光秀に従って、河内に軍の一部を侵攻させています。後に、秀吉の接近を知って裏切りましたが。(秀吉が早く帰ってこなければ、光秀側でいたという事。)

細川は、例外的に中立となりましたが、積極的に敵対したわけではありません。

光秀自身が、「50~100日で近国を制覇する」と豪語してますが、もっと早いペースで、畿内を制覇しつつありました。

秀吉が早く帰って来なければ、内部分裂していた四国遠征軍も撃破され、摂津の国人衆も吸収して、相当な大軍に成長していたでしょう。

(一級史料天正記によれば、最大寄騎の宇喜多を残した大返しの実態は、半ば成功・半ば失敗の中返しでした。山崎に間に合ったのは1万人余りでした。秀吉は、現代の大阪府にいた摂津衆と四国遠征軍残党を吸収して、それを主力として、山崎の戦いで勝ちました。特に、摂津衆1万の吸収が戦いの帰趨を定めました。秀吉は「信長様は生きている」というデマによって、彼らが光秀側や中立に陥る事を防ぎました。信長の死体が見つかっていなかったので、結果的にこのデマはホームランになりました。万が一、信長が生きていれば、光秀側に勝利はあり得ませんからね。)



秀吉は、自身の家来は少なく、信長の家来を借りた状態でした。ですから、信長の急死は、軍の解体の危機でした。史実では奇跡的な手腕で、譜代という中核を持たない、特殊な戦国大名として自立できたのですが、これは、誰にも予想できなかったでしょう。これも満塁ホームラン。普通なら、滝川軍のように解体するはずでした。

柴田は前田など有力寄騎を北陸に残していて、全軍を率いる事ができませんでしたから、近江国内で足止めされていたでしょう。そのうちに、膨張した光秀軍に襲われます。

徳川が光秀と戦うとしても、近江を抜けるのに手間取っているうちに、膨張した光秀軍に対抗できなくなって、引き上げるしかなくなるでしょう。



このように、秀吉の大逆転ホームラン2連打が無ければ、光秀が勝ち残る可能性は十分にありますから、本能寺の変は、単なる下克上なのでしょう。

なお、ホームランを打つことを前提とした作戦などあり得ませんから、秀吉黒幕説は間違いでしょう。一揆に襲われかけた家康も黒幕のはずは無いです。



※四国の政策についての、親三好派(秀吉)と親長宗我部派(光秀)の対立説は、一面の真理を含むと思われます。が、あくまで、一因でしょう。



※山崎まで二日間では無い。







みなさんがおっしゃっているように、信長は殺されても仕方ない(殺しは良くないです)と思われるくらい我が儘放題でした。

誰が黒幕でも有り得るというのは、逆に明智を利用すれば誰にでも出来たことですから容疑者多数のため、しかも、信長が殺されても仕方ないと思われてる以上、みんな黒幕なんて誰でもいいってことになってしまうんですよね。こんなにやりやすい犯罪はないのでは?

言ってみれば一種の黙殺とも言えるのではないでしょうか。

私個人的には当時としては驚異的なスピードで明智を退治できた秀吉が一番怪しいですね。

たった2日で300km近くも大群を率いて移動するなんて当時では神隠しくらいしか出来ませんよ。







本能寺の変はたくさんの説があります。黒幕説はその一説に過ぎません。簡単に説を紹介すると、信長から天下を奪わんとする野望説。数多くの仕打ち(丹波における母親の処刑(正確には波多野家の人質にさせられ磔に)、自身の領地の没収、安土城に徳川家康を招いた際の接待役を解任される、武田を滅ぼした戦勝祝いの席で、「これでわしらも骨を折った甲斐があった!」との発言で、信長に「お前ごときが何をした!」と蹴り飛ばされる。光秀は髪が薄かった為金柑頭とよく罵られた)などを受けて謀叛を起こした怨恨説。

加えて四国討伐回避説、発作説、信長の野望阻止説、徳川討伐と土岐明智家滅亡の危機回避説などがあります。

それと黒幕説は羽柴秀吉や徳川家康など誰をとっても、あっても状況証拠に留まるので都市伝説並みの信憑性だと言われ然程有力視されていません。

私は怨恨説が一番有力なのかなと思います。何故ならもし私が光秀の立場なら信長から受ける仕打ちはとても耐え難いものだと思います。

乱世の習いとは言え、光秀も人間です。実の母親を磔にされ、まだ領地を治めてもいない山陰地方(石見、出雲)を切り取り次第と言って今ある領地を没収されたり理不尽なことをされ続ければ主君に対して叛意を抱いても不思議ではありませんし、謀叛を起こす動機としては十分だと思います。

後、本能寺の変には直接は関係してませんが、光秀は熱心に仏教を信仰していた為、残虐非道と言われた比叡山焼き討ち事件も、事件から時が経ってますが、変を決起させた一因とも言われています。

本能寺の変は数多くの謎があり解明されてないことがたくさんあります。なのでどの説を信じるかは個人の自由だと思いますが。



余談ですが、黒幕説の一つの逸話で光秀が山崎の合戦後に家康に匿われて、それが後の天海大僧正こと南光坊天海だとする説があります。これもかなり信憑性に欠けますが。







4だな。

信長を裏切ったのは光秀だけじゃない。浅井長政や松永久秀 荒木村重など。彼らに黒幕がいたんでしょうかね?

明智勢は長浜城も攻めてなかったい?秀吉が黒幕ならそんなことするかい?それなら家康の方がよほど怪しい。嫡男信康の件で動機は強烈だし武田攻めの後や安土接待で信長が光秀を打擲した現場に家康もいたわけで信長憎しの動機をお互い共有できる。また本能寺の変で穴山信君を同行し彼は脱出の際変死してる。しかも穴山領や甲斐信濃は都合よく家康領になっている。畿内から領国に帰った家康なのに信長の敵討ちに兵をすんなり出していない。また謀反人明智の重臣斉藤利三の娘春日を嫡孫家光の乳母にしてるなどなど。

直江兼続について教えてください

直江兼続について教えてください







超簡単に書くと・・・。

上杉謙信の跡継ぎ、景勝に仕え、上杉家を支える。

関ヶ原の役では、家康にけんかを売る。

東北で奮戦した。

敗れて、上杉家の領土が大幅に減らされたあとも、領国経営に尽力する。



もう少し詳しく書くと・・・。

上杉謙信の一族、長尾政景の家臣・樋口兼豊の子として生まれる。

幼いころから聡明で、政景の妻に見込まれ、政景の跡継ぎ、景勝(当時の名は顕景)の小姓に。

景勝が謙信の養子になり、兼続の才覚も謙信に見込まれ、景勝とともに英才教育を受ける。

謙信の死後の跡継ぎ争いでは、景勝を支え、勝利。

その後も景勝を支え続け、いろいろなピンチもあったが乗り切り、戦国を生き残る。

そして上杉は豊臣秀吉の家臣に。

秀吉曰く、「天下の仕置きを任せることができるのは、小早川隆景と直江兼続と堀直政のみ」。

関ヶ原の役では西軍につき、家康に喧嘩を売る。(このことで家康は天下取りの機会を得ることができた)

そして、敵方の最上義光を攻める。

でも、関ヶ原の戦いでは味方が一日で破れ上杉は家康に降伏。

そして上杉は大幅に領土を減らされたが、兼続はいろいろ頑張って領国経営に尽力。

至急!!!江戸時代の外交政策について

至急!!!江戸時代の外交政策について

江戸時代の幕府の外交政策はどの様に変化していったのか

教えてください!



できたら最初はこうだったけど最後らへんは

こうなったみたいな書き方でお願いします!!







toeuryantheさん の仰る通り量が膨大なので・・・、



まず戦国時代にまで戻ります。

教科書の通り鉄砲とキリスト教が伝わりますがそれ以

外にも異人(特に宣教師)達がもたらしたものは沢山ありました。

大まかなところで医術、造船術、鉱山技術などといったものです。

そしてこれを餌に有力者(戦国大名)たちの入信を図りました。

当時としては新技術の伝来、寺社仏閣の武力台頭もあって

キリスト教は歓迎されましたが秀吉以降、世の中が安定するに

従って政権への恭順低下の恐れと信者獲得による宣教師たち

の専横によってキリスト教の弾圧が始まったのは教科書で説明

されています。



さて、天下は秀吉から家康に移ります。当時の日本において

戦国大名(と、その身近にいる人)ほど諸外国に精通した人間

はいません。もたらされる新知識はライバルに差をつけたい統治

者にこそ最も有益であるしそれをもたらす宣教師たちも現地の有

力者の庇護を得るからこそ活動できるのですから。ここに目をつ

けたのが家康でした。キリスト教は邪魔だが新しい技術はほしい。

しかも他の人間の手には渡らず、自分のものだけに・・・。

そのために生まれた政策が『鎖国』でした。



いわゆる徳川幕府の鎖国とは外国との関係を一切断つものでは

なく諸外国よりもたらされる新知識を独占するために諸藩に外国

との関係を持つことを禁止するものだったのです。



時が流れて幕末、いかに対外貿易の利益を独占していようと所

詮、狭い玄関で行っている以上世界の時事からは乗り遅れます。

まして当時の世界は新天地を求めて諸外国が進出しそれを裏打

ちするだけの技術も確立されていました。当然、そんなことも知りま

せん。(って、言うか理解できなかったでしょう。)ある日、突然、異

国の船がやってきて『俺たちと手を結べ』と言ってきたからさぁ、大変。

現実と理想のはざまに立たされた幕府と世界のせの字も知らない

朝廷・攘夷志士、現実を理解するわずかな識者たちの動乱の幕末

期にはいります。ここら辺の時期は最早一つの研究テーマ並みの容

量になるので漫画『風雲児たち 幕末編』を読んでもらうのが一番

早いです。正直、ここで説明するには膨大ですから。



かいつまんで言うと鎖国を守りたい幕府だが開きすぎた技術力を目の

当たりにして開国を行いその上で政権維持を図りたいのに対して

『神州日本』という古き体質に固執するが実力面では幕府にかなわ

ないため暗躍する朝廷、そして最早従来の徳川政権下ではうだつの

上がらない所を朝廷にあおられて捲土重来を夢見る侍たちとまったく

新しい日本の形を模索する人間たちのドロドロの暗闘劇になります。








260年ですので・・・・・



最後の20年だけでも大仕事ですよ。

真田幸村、上杉謙信、伊達正宗。 あなたが最も評価する武将は誰ですか?

真田幸村、上杉謙信、伊達正宗。



あなたが最も評価する武将は誰ですか?







真田信繁(幸村)は、自分勝手すぎる。



関ヶ原後、自分と父が助命されたのをどう思っているのか?

兄が、その助命嘆願でどれだけ苦労し、その結果徳川で身の狭い思いをさせたと思っていないのか?



この頃はもう徳川将軍は秀忠に譲られていますが、関が原遅参の原因を自分と父が演出しており、そのせいで現将軍から信之がどう思われているか考えれば、豊臣の呼ばれるままに大阪に行くなんて出来ませんよ普通。

兄は、ことのほか家康の覚え目出度いので、父の上田の領地まで戦後貰っておりますが、家康亡き後秀忠はすかさず信之に川中島への国替えを命じている事でも、秀忠がどう思っていたか直ぐに分かります。

大阪の陣での活躍は、活躍すればする程、兄・真田を窮地に追い込むのです、兄は病気を理由に子供達を参陣させていますが、戦中に信繁とその子供達が通じていると家康や秀忠に訴え出たものもあったようですからね。

いくら兄弟とはいえ、このような最低限の仁義もきれない人間だから、後世にまで名を残そうと華々しく活躍したのに、今現在に至っても徳川幕府に遠慮して勝手につくられた幸村などと、本人でも誰だそいつはと言う名前で呼ばれるんですよ。





伊達政宗、東北一の大名にまで版図を広げましたが、秀吉によって野望を打ち砕かれました、永年の苦労も父から譲られた当初の所領の大きさになってしまいました。

秀吉政権では、九州の佐々の例に倣って一揆をおこさせ、蒲生を失脚に追い込み、自分が領地を任されることを期待しています。でも、これ秀吉にばればれ。



家康政権では、関ヶ原の際に又こそこそ動きます、直江と不可侵の約束を密かに結び、南部領に一揆を勃発させ自分の領地にしようと画策、東軍勝利を聞くや上杉領にも攻撃を仕掛けます。

姑息以外の何者でもないですが、このような姑息の動きでさえも他の大名はもうする者はいなかったのです、黒田如水を除いては。

その点では、天下の野望の火が消えるギリギリまで、自分の家の保身を考えつつ、良くやったほうではないでしょうか。

しかし、大阪に陣後は伊達家存続の為にはなりふりかまわないようになり、とうとう将軍家光の時代には、ぷりぷり腰を振って擦り寄る老犬と化していたのは残念です。





上杉謙信、戦国時代の価値観では典型的なキチガイです。

戦国時代は、一坪でも多くの領地を手に入れるために、戦争をした時代なんです。

このキチガイが戦争をさせれば、やたら強いんだからしゃれになりません、これには北条も武田もほとほと困ったようです。

関東管領職になってからは、何度も関東に出陣していますが、何も自分の領土にしなくとも、代官を置くぐらいでも大分違ったと思うんですけどね、冬になって越後に戻るとオセロのように北条にひっくりかされるんですから、これを何度も繰り返すのは少し寒い気がしますが、このような潔癖さがあるからこそ信頼もされるのでしょう。



戦国時代ほど、この信頼と言う言葉の軽い時代はなかったと思うのです、それを考えたときに人と人のつながりに絶対欠かせないものを大切にした人ですからね、天下人になった家康でも必要であれば平気で嘘をついたし裏切りもしています、そのような時代だからこそ、このような上杉謙信を一番に評価します。








好き嫌いは別にして、私は織田信長のように発想の転換力(常識に捕らわれない考え力)のある人物を高く評価していますので。



この3人なら伊達政宗です。



徳川の天下取り後、約60万石しかない土地を、武力ではなく知恵を使い100万石にした(100万石になったときには政宗は亡くなっていますが)。







chokoice2010さん ヨーロッパに使節を、送ったり、>>>>これは家康の外交方針によるものです!!!政宗はそれに従っただけ!!!へタレ(笑)。。。。。

文武に長けている武将でと思います。>>>>>文はおいといて、武に長けていないだろう!!!!!!過大評価!!!!!!!!!!!



最も評価する武将は、超人的英雄の偉大なる織田信長公!!最も過大評価されている武将は、ミスター過大評価・伊達政宗(笑)!!!!!







僕は、伊達政宗です。

まあ、もともと人気のある戦国武将ですが、

若い頃は、天下への、野望に燃え、

ヨーロッパに使節を、送ったり、

天下に旗を掲げる夢が潰えたら、平和の世界を望み

米作りに目を傾け、実現できなかった、100万石を、

死後数十年で実現したりと

文武に長けている武将でと思います。







この中だったら、上杉謙信。この中以外なら、豊臣秀吉







普通に上杉謙信でしょう。







上杉謙信。

悪いですが、他の2人とはレベルが違いすぎます。







武将としてなら上杉謙信

大名なら伊達政宗。









この中では上杉謙信ですね。

格が違います。



伊達「政」宗だよ。







やっぱり上杉謙信です

歴史上の人物で誰がすきですか? 自分は吉田松陰です・

歴史上の人物で誰がすきですか?



自分は吉田松陰です・







織田信長



発想が素晴らしくユニークで目的に向かって一直線に突き進む。



政教分離を推し進めた。



あれほど苦しめられた石山本願寺を武装解除を条件に信仰の自由は認めた。



仏教勢力を抑える道具として使ったとしてもキリスト教に対する政策は秀吉とは随分違ったものになっただろう。



高山右近、黒田如水、蒲生氏郷などキリシタン大名も多く存在していただけに全面禁教にならなければキリシタン大名の領地には華やかなキリスト教文化が根付き今日のクリスマスも随分違ったものになっていたかも知れません。



前歴や身分などは一切関係なし、徹底した能力主義による抜擢、用が終わればお払い箱に・・・まるでアメリカメジャーリーグを彷彿とさせる人事政策。



譜代の重臣を用済みになったからと追放したのは悪い点ですね。引退させ隠居させそれなりの余生を保障すべきだったでしょう。



また天下を半分手中に収めた自分の命の価値が解っていなかった・・・荒木村重、松永久秀など家臣の謀反の予兆はあったのだから十分な護衛を付けなかったのは脇が甘すぎますね。



秀吉や光秀のような中途採用の外様でも能力さえあれば大抜擢、大きな権限を与えます。



しかし、その抜擢した明智光秀に寝首をかかれる所を目の当りにした家康は譜代の家臣団しか信頼は置けないと外様大名を幕府の要職に就けない方向に向かいます。



織田政権が続いていれば能力主義が定着していたでしょうか?



和を重んじる日本社会ですが・・・鎖国をせず、海外との交流が続いていれば・・・



中央集権的で重商政策を取る強大な軍事力を持つ織田幕府・・・能力主義の官僚制度が発達し、絶対王政に向かったかも。



信長が本能寺で光秀に殺されていなければ・・・今の信長人気は存在しない。



それは天下統一後の信長が長生きすれば当然権力保持のために家康化する・・・息子たちに大領地を与える。



大阪に本拠を置いた事は間違いないだろう。



海外遠征は?少なくとも秀吉よりは上手くやっただろう。



戦国時代を生き抜いた精鋭・・・しかも鉄砲で武装している。



信長が長生きして織田政権が続けば・・・秀吉も家康も忠臣・名将で世を終えていただろう。



信長の苛烈な競争システムが続いていれば現代の日本社会も異なった物になった事は確かです。



確かに紅蓮の炎の中で横死したからこ今の信長人気であることは間違いないですね。



兵農分離を進め銭で雇った常備軍を創設。



農閑期に関係なく戦が出来る織田軍団は兵農分離していない他の戦国大名と戦った場合長期戦が可能なので最終的には必ず勝つ。



鉄砲を効率的に戦力化した。



鉄張の巨艦を作り最強の水軍を創設。



現在の資本主義経済社会を先取りするような楽市楽座の重商主義的経済政策。



銭こそ力の源泉・・・永楽銭の旗印がそれを証明しています。



信長は日本人離れした天才です。



和を重んじる日本社会からは抹殺される運命にあったのか・・・それしても惜しい男を光秀は殺しました。








リチャードファインマンという物理学者にあこがれます。

天才のくせにすごく人間くさい。そして女好き。あぁ天才だって人間だと感じさせます。

アインシュタイン然り、「ノーベル賞がもらったって、物理問題が解決するわけじゃないし邪魔なだけだ」なんて、授賞式で言えるような人間かっこよすぎる・・







マザーテレサです。。。。日本人限定だったらすみません







源 頼朝。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

秀吉の朝鮮出兵は何故行われたのですか。明国との合戦のため、あるいは南京への天...

秀吉の朝鮮出兵は何故行われたのですか。明国との合戦のため、あるいは南京への天皇遷都を目論んだからですか。

成果はなかった筈ですが、朝鮮からの貿易を築こうとしたのですか。







明の征服を本気で考えたかもしれませんが、

一番の理由は諸大名の力を抑えるためにあったと思われます。

戦国時代が終わったため膨大な戦費を抑えることが可能になりました。

その分の費用を国力増加に注ぐことができるわけですが、

諸大名に国力をつけられて困るのは天下人です。

よって、何かしら壮大な事業を起こし、

膨大な出費をさせて国力増加を防がなければなりません。

そこで考えたのが朝鮮出兵です。

再び膨大な戦費を負担させようと画策したのです。

徳川家康は朝鮮出兵の失敗を考慮し、

一方で諸大名の国力増加を防ぐために参勤交代を義務付けました。

伊達政宗がまともに戦ったのは、人取橋ぐらいで、それも相手の撤退のおかげ。 摺上...

伊達政宗がまともに戦ったのは、人取橋ぐらいで、それも相手の撤退のおかげ。 摺上原だって、葦名の内部崩壊だし ほとんど戦っていない。稙宗・晴宗・輝宗がつくり上げてきた親戚の信頼関係を裏切りまくって勢力拡大

+惣無事令を破って勢力拡大=評価に値しない。大坂夏の陣・・・・後藤又兵衛基次隊が二千八百に対して伊達隊が所属していた東軍部隊は二万三千もの大部隊で圧勝(唯一評価できる、まぁ負けたらなおさらDQNだけど。)。しかし、真田幸村と毛利勝永の三千に撃破される。しかもその十分の一の敵と戦った戦闘でのダメージが大きく次の日の決戦では後方で休養しなければならないほどの有り様。政宗は後藤隊との戦闘(道明寺の戦い)の際に、同じく先陣争いをして大戦果をあげた神保相茂の部隊を襲って全滅させている。その理が、伊達隊に割り込んで戦功を立てた事を悔しがって突然味方に襲いかかったのである。これは当たり前の事ながら諸大名の大ヒンシュクを買い、特に島津家では『薩藩旧記増補』等で散々にこき下ろされている。他にも前田、直江にカス扱いされている。>>>>>なんで、伊達政宗みたいなカス・うんこ・糞武将が、天下の三英傑はもちろんのこと、それより下だが毛利・島津・上杉・武田・北条などの戦国の雄と一緒にされるんですか???????







関ヶ原以後も存続したという面では織田、武田、北条よりも上と見る

>>>>>>>>>

その論理だと、蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏よりも、伊達が上ってこと??????



栄枯盛衰は、世の常だし。



生きているうちに、どれだけがんばったかが評価されるべきでは?



伊達氏の子孫や仙台人が、仙台の発展を全部政宗の手柄に結びつけているほうが、おかしいだろ。








一つ言わせてもらいますが、、



直江みたいなカスにカスあつかいされるって

かなりかわいそうですね政宗、、、、

直江みたいなカス武将がそもそも政宗をカスあつかいできるか疑問です



でもたしかに北条と一緒にされるのは心外ですね、、、







伊達政宗って仙台のですか?

まあ、sendai334みたいなアニオタヒキニートを世に輩出するような土地ですからねえ 藁藁



ちとおかしな土地ですな。



他の方はまともだと信じたい 藁







伊達政宗って・・・、過大評価=伊達政宗 みたいな過大評価の代名詞的存在ですよね!!質問者さんが、以前おっしゃっていたgoogle検索・yahoo検索で、「過大評価」で入力したところ、関連ワードで、両方できたたのは伊達政宗(戦国武将で)だけでしたね!!まさに過大評価!で、回答ですが、浅井長政程度くらいの扱いでいいと思うんですがねぇ!







ゲームの画像を貼った方が激しく気になるのですが…。

史実の、実際の伊達政宗について問うているんですよね?違ったらすみません。



人気なのは、「伊達男」所以たるものでは?

彼は武将、というより、なんというか…。時代思考に囚われない、という自分のセンスを大事にしたとか、そんなじゃないですか?瑞鳳殿とか、水玉の着物とか…。派手好きの美男子だからでしょうね。多分。

それか、右目に天然痘を患い、さらに母には疎まれ(とはいっても、お母様と実は仲が良かったんですよーなんていう説もあるのですが、嫌われるのがメジャーですよね)、にも関わらず自ら「独眼竜」を名乗り立派になりましたとさ。

この波乱万丈にありながらも頑張った!これが人々の心を掴むのでは?

誰だって、不運な状況の中でも、たとえどんな結果であろうとめげずに頑張る人にはキュンとくるものです。きっと。

だからこそ、酷い人質生活のせいで、浮浪者なみの醜悪な容姿で入城したとされる真田信繁(幸村)も人気なのでは?



まあ全国に知れ渡るきっかけとなった大きな理由は、私は「独眼竜政宗」だと思いますが。

渡辺謙さんの演じる「カッコイイ政宗」が日本中の人の心をガバリと掻っ攫ったんじゃないかと。

(私も攫われかけました。)



…まぁ、要点をまとめれば、

・カッコイイし

・派手だし、お洒落だし、グルメだし(ずんだ餅とか)



かぶくその姿がファッションリーダー的なものだったんでしょうね。伊達政宗は。







伊達政宗が人気なのは・・・

きっとあの政宗の他とは違う異色を放つ婆娑羅武将。ってことだと思います。

たとえば、あの眼帯が、最初はコンプレックスだったけどなんとかっていう人にコンプレックスを自分の特色にしろと言われて内気な性格から派手なパフォーマンスをいろいろする人物となった。とか。

そのためいまは独眼竜政宗なんてかっこいい名前がついたんですよね♪

眼帯がなかったら今これほど人気ではなかったかもしれないですし、だから戦の成績がいいから人気とかいうわけではないんだと思いますよ。

その武将の人柄も人気には深くかかわってくるのではないかと思います!(クールガイだったらしいですよ)







こんにちは。もういいじゃないですか。仙台の若い女性が怒りますよ。(笑)極端な話し質問者さんが亡くなってからも仙台がもっと発展し日本屈指の街になったりしたらまだ評価は上がりますよ。結局の所は仙台=伊達政宗になってるからではないでしょうか。熊本の加藤清正などもシンボルになってますし。小田原は氏康になってないからイマイチ人気もないのでは。追加☆仲間を使って解答したり、自分で解答したり駄目だなぁ~~質問者さんは技量ないよ。観覧数みたら虚しくならないかな? もっと頭使おうよ♪政宗以下になるよ。







それは「東北で随一の版図を持った」という事実と

関ヶ原以後も「勢力を保持した」という事実からだと思います。

単なる糞武将では随一の版図を持つことはできないでしょう。

また、関ヶ原以後も存続したという面では織田、武田、北条よりも上と見る事もできます。



戦国武将の評価基準は多様であり、戦のみを扱って上下を語る、というのはどうかと思います。







こういう質問が最近多いですね。

伊達政宗が過大評価されるのが、そんなに許せないんですかね。



別にいいじゃないですか、放っておけば。

ゲームだかアニメだかの影響なんて、すぐに次の主役が出れば消え去る運命なんですから。

戦国BASARAの長曾我部元親って姫なんですか?

戦国BASARAの長曾我部元親って姫なんですか?

すみません漢字違ってたりしたら・・・BASARAの長曾我部のことを知りたいので

詳しいことを教えて下さい。

色々なサイトを回っていると元親がよく姫とか姫ちゃん

とか呼ばれてて・・・

元親の過去や詳しいことを教えていただけたらと思います。

ついでに毛利元就も・・・







『天衣無縫』 長曾我部元親(ちょうそかべ もとちか)

声:石野竜三 一人称:「俺」

年齢は22歳。自身を「鬼ヶ島の鬼」と称する、長曾我部家の当主にして総大将。伊達政宗とは逆側になる左目を紫の眼帯で覆い隠している。ただし、理由は明らかにされておらず、政宗のように失明しているのかどうかは定かでない。

海賊の親分のイメージで描かれており、一見乱暴な荒くれ者に見えるが、利家とまつ曰く「いい人」。

兵士(子分)たちからも「アニキ」と呼ばれ慕われており、熱狂的な親衛隊(全員男)までいる。頭にバンダナを巻いたしゃべるオウムをペットとして連れている点も、海賊のイメージを強調している。天下への興味は薄いらしく、『英雄外伝』外伝ストーリーの最後に「俺は天下よりも、風の吹くまま海を旅していたい」といった意味合いの発言をしている。

技術力に長けていて、攻め寄せてくる敵を要塞富嶽で砲撃したり、後述の木騎を始めとする兵器を実用化するなど新しい戦術を取り入れる柔軟な思考の持ち主でもある(ただ重騎などの最新兵器は高価なため、財政状況は常に危機的らしい)。また、機械や兵器そのものが好きらしく、『2』では忠勝を仲間にするために家康を誘拐した。

『2』で使用可能キャラクターに昇格。ストーリーモードでは海賊船に乗って全国の財宝を探しに行くという展開になっており、部下の存在をないがしろにする毛利元就の戦い方に不快感を示す一方、自身と同様にアニキ肌で荒くれ者の軍を纏め上げている伊達政宗とは意気投合する一幕が見られる。また、『英雄外伝』では家康と固い友情で結ばれる。ただし、毛利との関係については、戦闘中の会話や撃破時の反応など、単純な敵対関係とはいえない部分もあり、元親のストーリーモードでは唯一、討ち死にではなく退却扱いとなる人物でもある。

『2』のまつのストーリーモードではカジキマグロを釣りたいと言うまつと利家に快く船を貸し、釣りを許可した。その影響か、利家とまつは倒しても撤退扱いとなり、まつと闘うと長曾我部軍兵士が飯をごちそうになったことを感謝したりする。衣装は海賊をイメージしているのか、パイレーツ・オブ・カリビアンを彷彿とさせる南蛮風の洋服。



○『2』というのは、戦国basara2のことです。



○元親は小さい頃、色が白く、女の子みたいだったので、



幼少期は「姫若子」と呼ばれていたんで、姫ちゃんとかって呼ばれているのでは?








Wikipediaの長宗我部元親(長曽我部元親)の項目からの抜粋です。



「幼少の頃は、長身だが色白で大人しく軟弱ともうつけ者とも評される性格から、「姫若子」と揶揄されていたという説が有る」

「初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話が有る。秦泉寺豊後は『槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの』と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し鬼若子と言われる程の活躍をしたとされる」

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E...)



「姫」→「鬼」への変貌ぶりが印象的ですね。



偏った記述がある場合もありますが、基本的に、歴史上の人物の事績や逸話を調べるならWikipediaで事足ります。

気軽に利用できますし、元親以外にも詳しく載っていますので、一読されてはいかがでしょうか。



【補足に対して】

読みは「ひめわこ」です。







長曾我部元親は幼少時

体が弱くてあまり肉付きのいいほうではなかったようです

まるで女の子のように可愛かったらしいです

そのせいで周りからは「姫若子」と呼ばれていたみたいです



そのせいではないですかね^^



もっと詳しく専門的に知りたいのであればwikiを使ってみるといいかもしれません

私は長曾我部ファンなんで少しでもお役に立てるといいのですが^^;



読み方は「ひめわこ」ですよ!

織田信長、豊臣秀吉とも歴史上の大人物ですが、織田家、豊臣家とも実質的に一代の短...

織田信長、豊臣秀吉とも歴史上の大人物ですが、織田家、豊臣家とも実質的に一代の短命だったのに対し、徳川が15代260年以上も続いたその差は何ですか?







織田信長はあのまま行ってたら、戦国の大大名は居なくなっても百万石クラスの家臣が4・5人+徳川家康が残って後世に影響力を残したでしょう。

豊臣秀吉政権下だと、徳川・毛利・上杉・前田などの秀吉家臣出身でない大諸侯が残っていて、たとえ秀頼が天下を継承していても運営は難しいものであったでしょう。



徳川家康は自身が最大勢力であった上に、豊臣家を潰し、毛利・上杉を大幅減俸して幕府に対抗できないようにしました。

江戸中期の石高番付をみると、幕府を除く石高ベストテンの十位で25万石程度で、ベストテン内には御三家が全て入っているという有様でした。

すなわち、幕府400万石、旗本400万石という大勢力に対して、最大勢力である前田家でも分家を合わせて120万石程度、それ以下の家だともっと少ないということになり、軍事的に到底かなわないと戦う前に思わせる効果がありました。



また、室町幕府や豊臣政権を学習して、外様の大大名や御三家などが政治中枢に関われないようにしました。

これによって幕府内で大きな力を持っても領地は10万石程度、せいぜい井伊家の35万石までしか領地が無いという、政治力と軍事力の分散化も行われました。



徳川幕府は三代以降、子供が将軍でも政治に支障がないように構築され、現に四代将軍家綱は10歳で将軍になり、七代将軍家継は4歳で将軍になりましたが、反乱などは起きず幕府は揺らぎませんでした。








信長さん、秀吉さんが様々な施策で

「武力」を「武士」に統一し「戦乱」を抑止するなかで

「自由経済」を推進しておりましたが、



「戦場」が縮小する時代に入り

「自由経済」が制御不能と成り

「朝鮮出兵」など「戦場」が再度必要となりました。

「封建社会」において自由経済のおける政権維持は

古今東西「戦場」を作り出すことしかありません。



上記の失敗から「家康」さんは

「計画経済」を推進し「自由経済」を抑止しております。



「封建社会」の「平和」時には有効な施策であり

信長さん、秀吉さん、その他の戦国大名があってできた

ことですが時代にそった経済感覚が良かったと思います。



現在も同じで「貧乏人100人」居るから「金持ち1人」と同じく

「自由経済」と「計画経済」は天秤するべきです。







徳川家康が他の二人より優れている点は学習能力だと思います。信長・秀吉の政策を同時代に体験し、尚且つ歴史の研究に熱心だったので専制君主である自分自身が死んだ後も徳川家が生き残る制度を完成させることが出来たのではないでしょうか。







後継者ですね。

秀吉の後継者の秀頼は子供で自分で政治を行うことができず、結果家康に利用されるだけ利用された挙句に攻め滅ぼされています。

信長も本能寺の際跡継ぎの信忠も一緒に死んでしまった為正当な後継者がいなくなってしまい、結局後継者争いが起きてしまい、それを秀吉につけこまれて気付いたら後継者の地位も秀吉に持っていかれました。

徳川家は特に家督争いをすることもなく円滑に世代交代が行われ、付け込まれる隙がなかった。







子供の数と質はもちろんのこと。

そのときの天下の情勢ですね。

信長が死んだとき、秀吉が受け継ぎましたが、

このときに信長の子供で質のいい人がいたら、

変わっていたかもしれません。(本能寺の変で死んだ信忠が生きていれば、織田は崩壊しなかったといわれています。)

その後、秀吉が死んだ後も、子供秀頼がまだ幼いのに対し、家康はまだ存命中です。

そして、豊臣政権の中の崩壊に乗じて、家康が兵を挙げて天下を取ったわけです。

つまり、信長のときも秀吉のときも

ある程度情勢がよければ崩壊しなかったわけです。

答えは天下の情勢の違いです。







子供の数および質です。徳川家康の子供は16人です。

今、戦国時代に逆戻りしてしまったらいったいどこの都道府県が天下を統一すると思...

今、戦国時代に逆戻りしてしまったらいったいどこの都道府県が天下を統一すると思いますか?やっぱり東名阪のいずれかでしょうか?意外と、ここが強いかも。などありましたら教えてください。







東京以外考えられません。



近代戦争は物量が勝敗を分けます。

東京は一地方自治体に過ぎませんが

世界の中堅国以上の国力があります。








地元岐阜を推します

『美濃を制するものは天下を制す』

あるいは三人もの天下人を排出した愛知も有力です

おそらく東京は利用されるだけで終り(尾張)でしょう

権力に近すぎるのも問題です

遠すぎず近すぎず、東西交通の要所となる東海のいずれかが制すると思います







東京都にどれだけ人口が集まろうと、兵力にならなければ意味がないのでは??



神奈川県は「神奈川都民」が多くて、基地が複数あることから兵力には事欠かないし、これは他でも言えるけど港もあるから空以外にも海外と通じる手段がある。



というか、東京と神奈川が組んでみればいいのではないかな?







戦国時代同様に他国家との交流が殆どなく、食料の自給率で考えたら、日本では数少ない100%達成の北海道ですかね。



東京都はその人口を都内の農地では賄い切れないでしょう。戦う以前に餓死する人が大量に…。







どこもかしこも腐り切っています。

天下統一を考える前に私腹を肥やすのに夢中です。

全てが金の時代ですから 東京ですね。

資金力があるのと石原都知事に天下統一の気力があります。







どこに攻めのぼるのかが問題ですが、案外神奈川県かも。横須賀に圧倒的な海軍力があり、厚木の航空基地もある。対抗できるのは小松の空軍力を持つ石川県か? 陸上兵力なら北海道だろうが、攻め上がるまでに途中で阻止されそうだから、やはり空と海の軍事力が重要。神奈川県は工業生産も多く、県民所得は東京、大阪、愛知に次ぐ国内4位。東京の労働力の多くも神奈川県から通っている訳だからいざとなったら強い。







その「頭のいい人」が集まっちゃってるのも、東京都ですよ。



人口ばかりが云々されていますけど、経済面ではどう?東京以外の都道府県で「自力で賄いきれる所」はあります?

国として分離したとして、東京以外のところは「市民が自活することさえ出来ない状態」ですよ。食っていくことさえままならない状態で、戦争どころじゃありません。



同盟を締結するなら、たいていはまず「東京都との同盟を締結して、近くの敵県に兵力の増援を依頼するでしょうね。または経済支援をお願いして代わりに兵力を提供する。遠交近攻は戦略の基本ですから。







土佐(高知県)だと思います。戦国時代一領具足を率いて

四国全土を統一したほどの強さです。

後は兵糧の確保という点で越後(新潟県)・蝦夷地(北海道)ですかね。

武蔵(東京)は人口が多い、天子様(天皇)を立てられるという点がありますが

兵糧が確保できないと思います。







石原慎太郎を大将とする東京勢と東国原英夫を大将とする南九州勢との戦いになれば面白いと思います。







ご存知ですか?東京は日本の人口の約1/10を占めていることを。

文禄・慶長の役について詳しく書かれている、おススメの書籍を教えてください。 で...

文禄・慶長の役について詳しく書かれている、おススメの書籍を教えてください。

できれば図説付きだと有り難いのですが…。







やはり、韓国を刺激しない為か、現在はあまりみないですね! ネットソースだけですが!よろしければ!



やはり 一度目、文禄(懐柔政策) 二度目、慶長(掃討戦) この後は、三度目の征服戦といくはずが、秀吉が、死んだので、中止!

秀吉日本軍、圧倒的勝利!連戦連勝!世界に敵無し!戦国統一日本軍!(全世界の鉄砲合計数約40万丁! 日本軍だけで80万丁=国内生産)

約7年の戦い!その結果、李氏朝鮮=韓国の国民人口が7分の1になる!

(李氏朝鮮=韓国、北、南)(明国=中国)



※文禄・慶長の役http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%BD%B9#....



※釜山鎮の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E9%8E%AE%E3%81%AE%E...



※忠州の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E...



※東莱城の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E...



※尚州の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E...



※晋州城攻防戦http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E5%B7%9E%E5%9F%8E%E6%94%BB%E...



※臨津江の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B4%A5%E6%B1%9F%E3%81%AE%E...



※泗川の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E...



※明国滅亡!



※清国建国!!!漁夫の利を得たヌルハチ=ラストエンペラーの、開祖ヌルハチ!が、秀吉の変わりに、ボロボロにされた、明国軍=明国をのっとり、清国を建国!)のちの(現中国)



※李氏朝鮮存続!=韓国=李氏朝鮮に、秀吉の死により、日本へは、帰らずに、現地で嫁をとった、日本人のサムライ達が、多数存在して、李氏朝鮮に、帰化した 。

その後、元日本人のサムライ達が、李氏朝鮮に加担して、女心族ヌルハチを追い払い、かろうじて李氏朝鮮国を防衛し、国は残るが、結局、明国時代の属国的地位関係は、清国になっても変わらなかった)のちの(現韓国、北朝鮮)



※徳川家康=徳川幕府成立!

秀吉(韓国、中国、の歴史の中で、悪魔と考えられている)の死により、その後の日本国内のみでの、確実な、天下を考えた、家康の考えにより、海外から、日本軍を撤収させ、秀吉日本軍を、二つの勢力に、分散させ、関が原の合戦を画策し、勝利を収める!!=徳川幕府成立。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85



※日本軍は、確か、全部で49番隊が総兵力!確か秀吉本陣軍は、49番隊位だったと思う!家康が48番隊だったかな?

結局、すべて出陣する事は無く、29番隊くらいで、秀吉が死んだと思ったけど!秀吉としてみれば、せっかく、手塩にかけた、日本統一秀吉軍(大半は、旧織田信長軍)を

すべて出陣させずに、亡くなったので、残念だったのでは無いのでしょうか?3回目の総力戦が始まれば、ヌルハチの変わりに、秀吉の家来の加藤清正あたりが、日本の兄弟国(当時は日本の延長線上の大名征伐という感覚)として、ヌルハチの変わりに、大名として君臨したと思われますが?



※倭城 =日本人にはあまり知られていないが、韓国には、その当時の、日本軍が作った倭城跡(石垣など)が、まだ30箇所以上あり、観光客相手の、倭城跡ツアーなども、ある!



http://www.castle7.org/wajou1.htm



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9F%8E実際に秀吉が 中国大陸を治められなかったわけなので、もし織田信長が、生きていれば、秀吉が、総大将として渡海したはずです、秀吉にとっては、国内の政治は、信長に任せておける訳ですから、思う存分、大陸を切り取りたかったのが、本音ではないのでしょうか?(やむなく日本国内の政治を行っている間に、戦場とは、違う、慣れない、気苦労で、早世してしまったと考えられます・・・やはり、政治は、政治のプロ、信長あっての事ですね!)

戦国無双って最近声優イベントやったりキャラソン出したりしてますよね。無双にそ...

戦国無双って最近声優イベントやったりキャラソン出したりしてますよね。無双にそんなイメージなかったので最初にこれを知ったときビックリしました。
そこで質問なんですが、







1、私と同じようにビックリした方おられますか?またこのことを知ったときの感想を教えてください。



2、キャラソンを出しているキャラクターを教えてください。



3、キャラソンの中でおすすめを教えてください。







また、三國無双でもこのようなことをしているのかも教えていただきたいです。

回答お願いします。







こんばんは

「戦国無双(以下、「戦むそ」と略す)」大好きな

いちファンです。

僭越ながら 回答致します。





1、について ↓

ビックリ(驚愕)と言うよりは 歓喜 と言った感情が

私の場合 主で、先に湧きました。

こうしたキャラ(の声優さん)に歌わせる発展は

個人的に嫌いじゃなく

寧ろ好き な部類なので 非常に嬉しかったです、正直。

そのキャラソン第一弾の『仰ぎて天に愧じず』も想像以上に

素晴らしい名曲で、この展開は継続していくだろうと確信致しました。





2、について ↓

キャラソンに関わる CD情報を詳細にお伝え致します。



「戦国無双 百花饗演」(2009年9月23日 発売)

記念すべき、「戦むそ」の

初キャラソン『仰ぎて天に愧じず』【歌:真田幸村&直江兼続&石田三成】

が収録されたCD。

カラオケも同時収録。

このキャラソンの他には

今迄のサントラ未収録 のゲームBGM曲と

ドラマが全二話 と

モノローグが 全二編 収録。





「戦国無双3光華繚演」(2009年12月23日 発売)

『天翔ける竜の如く』【歌:伊達政宗】

『風と雲の掟』【歌:竹中半兵衛&黒田官兵衛】

が収録されたCD。

カラオケも同時収録。

このカラオケは三種類あり

普通のカラオケ と

半兵衛とデュエットできる 官兵衛の歌声のみを抜いたもの

官兵衛とデュエットできる 半兵衛の歌声のみを抜いたもの がある。

このキャラソンの他には ドラマが三話 と

モノローグが 一編 収録。





「戦国無双3 閃・烈歌奥義」(2010年3月24日 発売)

1 『明鏡止水 ~もののふが道~』【歌:幸村】

2 『道、分かつとも』【歌:三成&加藤清正】

3 『とこしえに咲く花』【歌:浅井長政&お市】

4 『天翔ける竜の如く』

5 『風と雲の掟』

6 『一望千里の風』【歌:立花宗茂】

7 『奏 ~抗い候~』【歌:長宗我部元親】

8 『大河滔々』【歌:毛利元就】

9 『仰ぎて天に愧じず 』

10 『極 ~苛烈五十年~』【歌:織田信長】

4トラック、5トラック、9トラックは再録。

編曲(アレンジ)などは 全く変わってない。

カラオケ不要・歌を聴ければ充分・ドラマやモノローグは興味無い

なら これ一枚でOK。

他の7曲は 完全新曲。これら7曲のカラオケは無し。





「戦国無双3 飛・翔歌奥義」(2010年10月6日 発売)

1 『焔 ~武火燃ゆる~』【歌:信長&明智光秀】

2 『愛と義の嵐!』【歌:兼続】

3 『狭霧之彼方』【歌:三成{ボイスで島左近 共演}】

4 『侍魂 ~KIZUNA~』【歌:島左近{ボイスで三成 共演}】

5 『暁更之光』【歌:光秀】

新曲全5曲&カラオケ完備。

中の人のトークを収録の

「武笑トーク 戦国大喜利!!」なるおまけディスク 同梱。

なので、全二枚組構成。値段が少々高い。





「戦国無双3Z 天・轟歌奥義 」(2011年5月25日 発売)

1 『男・一番槍』【歌:福島正則】

2 『刻 ~意思して候~』【歌:元親】

3 『青冥之鷹』【歌:幸村】

4 『天下遙かに越えて』【歌:政宗】

5 『天晴!』【歌:幸村&兼続&三成】

新曲全5曲&カラオケ完備。

中の人のトークを収録の

「武笑トーク 続・戦国大喜利!!」なるおまけディスク 同梱。

なので、全二枚組構成。値段が少々高い。



と言う訳で 「戦むそ」のキャラソンCDは

全五枚 発売されてる。



新情報として

「戦国無双 ばらえてぃCD」

と言う新CDが 2011年10月12日 新発売予定。

コチラは「戦国無双3光華繚演」の様に

キャラソン数曲とドラマ がメインの収録される模様。

全二枚組構成 の予定。





3、について ↓

これは 完全に質問者様の好みの武将による、と思いますが

主観的には 信長 様を 無双武将中で、最も愛好してるので

『極 ~苛烈五十年~』が 一番お勧めです。

二番を歌いきり、終盤の大サビへ繋がる間奏に

あの“敦盛”を聴けるのが 最高です!





≪三國無双でもこのようなことをしているのか≫ について ↓

情報を詳細にお伝え致します。



「真・三國無双6 王覇・響歌乱舞」(2011年5月25日 発売)

1 『TRUE DRAGON』【歌:趙雲】

2 『Change the World』【歌:司馬昭】

3 『Silent Phoenix』【歌:曹丕】

4 『Crimson Wings 』【歌:陸遜】

5 『KING OF DESTROYER』【歌:呂布】

新曲全5曲&カラオケ完備。

中の人のトークを収録の

「武笑トーク 満漢全席」なるおまけディスク 同梱。

なので、全二枚組構成。値段が少々高い。

「真・三國無双」の 初キャラソンCD。

全五勢力の代表が熱唱。



新情報として

「真・三國無双6 烈星・衝天煌舞」

と言う新たなCDが 2011年10月12日 新発売予定。

コチラも「戦国無双3光華繚演」式で

キャラソン一曲 『HEAVEN'S WILL』【歌:司馬師】

とドラマ数本 がメインの内容。





以上、駄文・散文、失礼致します。










こんばんは。それぞれのキャラソンについては皆様が説明されているので、補足までに回答致します。当方女なので、女性目線になりますがご了承下さい。





元々コーエーは他のゲームシリーズ(ネオロマシリーズ、いわゆる乙女ゲームです。)で頻繁にイベントをし、キャラソンを出してきました。もう15年近く続いています。





無双シリーズには女性受けするキャラも多いですし、そして何より歌のお上手な声優さんが多く参加していますので、「何時かは無双もキャラソンやイベントがあるのでは?」と無双シリーズとネオロマシリーズ両方が好きな女性ファンの間では常々言われてきました。

(余談ですが、無双シリーズにはネオロマシリーズにも出演なさっている声優さんもいます。曹丕役の神奈延年さん、長宗我部元親/遠呂智/司馬師役の置鮎龍太郎さん等がそうです。特に上記のお二人は10年以上前からネオロマシリーズに出演している為キャラソンも多く、また歌唱力も高いです。)



ですので、私はキャラソン発売やイベント開催を知った時は「やっぱり無双でもやるんだ!」と思いました。と、同時に嬉しかったです。キャラソンとか好きなので。





オススメというか、好きなキャラソンは…皆良い曲ばかりなので迷いますが、曹丕の「Silent Phoenix」、石田三成の「狭霧之彼方」とかですかね。バラードからロックまで色々ありますよ(笑)



男性声優さんのイベントには女性が多く集まる(と思っている)ので、女性目線で答えさせて頂きましたが、何だか回答になっていなくて大変申し訳ないです…。







他の方が戦国無双について答えているので私は三國無双について答えますw



三國無双でもイベント開催やキャラソンの収録されたCDを発売していますよ。



キャラソンを出しているキャラは趙雲、曹丕、陸遜、司馬昭、呂布でもうすぐ司馬師のキャラソンも発売するようです。



間違いがあったらすいません;







1、戦国無双3発売から、そういうイベントが目立つようになったような気がします。

私も最初はびっくりしました^^チケット代高っ!って感じですかねw



2、真田幸村・石田三成・直江兼続・織田信長・明智光秀・伊達政宗・市・浅井長政・竹中半兵衛・黒田官兵衛・立花宗茂・島左近・毛利元就・長宗我部元親・福島正則・加藤清正

だったと思います。記入漏れがあったらすいません;

現在、CDが4枚発売されていたと思います。



三国無双でも、イベントが9月に行われるようです。

CDも発売されているようですね。参考程度に…

http://www.gamecity.ne.jp/media/event/2011/smusou/

岐阜といえば何が有名ですか?良ければ有名どころからマニアックなところまで教え...

岐阜といえば何が有名ですか?良ければ有名どころからマニアックなところまで教えてください。







岐阜県の有名



飛騨高山・・・小京都の代表格

下呂温泉・・・天下の名湯

白川郷・・・日本の原風景を残す世界遺産、合掌造り

郡上八幡・・・郡上おどりで知られる

朴葉味噌・・・飛騨の名物

飛騨牛・・・「ひつまぶし」ならぬ「牛まぶし」という食べ方がある

神岡鉱山・・・スーパーカミオカンデ

御嶽山・・・標高3000m級

美濃焼き・・・岐阜県は陶磁器生産量日本一である

関が原・・・天下分け目の関が原

関市・・・全国的な刃物の生産地

口裂け女・・・実は岐阜発祥

大垣・・・奥の細道むすびの地





岐阜市の有名



金華山・・・頂上には岐阜城がそびえる。夜景もキレイ

長良川・・・鵜飼で知られる。日本三大清流

柳ヶ瀬・・・岐阜で一番の繁華街。柳ヶ瀬ブルース

金津園・・・西日本最大級のソープランド街

斉藤道三・・・美濃の戦国大名

美濃和紙・・・岐阜提灯・岐阜和傘・岐阜うちわ

アパレル・・・一昔前はファッションの先端地であった









「岐阜」という地名はもともと織田信長がつけたもの。

岐阜の岐は、「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事にちなんでおり、天下統一の拠点の地という意味がある。

岐阜の阜は、「小高い丘」という意味で、孔子の生誕地である曲阜から、太平と学問の地あれという願いが込められている。








養老軒という和菓子屋さんのフルーツ大福がおいしいです。



和菓子も洋菓子も大好き!!という欲張りさんならきっとお気に召します。







岐阜駅南の金津園(ソープ街)







岐阜市内

長良川の鵜飼

金華山(岐阜城)

名鉄の電車

PSPのシミュレーションゲーム

PSPのシミュレーションゲーム

PSPのシミュレーションゲームで、例えば、戦国時代のゲームだとすると、自分は足軽から始まって、色んな戦国大名の下につい



たりして、自分がのし上がる…みたいなゲームはありませんか?。何か、自分が有名な戦国大名になって、その人の歴史を追



体験…みたいのは嫌です。



戦国時代をモチーフのゲームだけじゃなく、こういう感じの、まんが奥の細道とか、ゲーム発展途上国Ⅱみたいなゲームが、PSP



でありませんかね?







太閤立志伝5 はいかがですか?



一武将や商人・忍者・海賊

等色々なプレイが可能です。



登場人物は戦国時代の人です。



例)秀吉で開始して出奔

商人としてクリアを目指す。



秀吉で開始して謀反して天下統一を目指す。



プレイ可能な人物はカード入手で増え、650人が主人公として使用できます。

貴方の好きな戦国武将は?

貴方の好きな戦国武将は?

メジャーでもマイナーでも構いませんので、貴方の好きな戦国武将を1人教えてください。







織田信長



発想が素晴らしくユニークで目的に向かって一直線に突き進む。



政教分離を推し進めた。



あれほど苦しめられた石山本願寺を武装解除を条件に信仰の自由は認めた。



仏教勢力を抑える道具として使ったとしてもキリスト教に対する政策は秀吉とは随分違ったものになっただろう。



高山右近、黒田如水、蒲生氏郷などキリシタン大名も多く存在していただけに全面禁教にならなければキリシタン大名の領地には華やかなキリスト教文化が根付き今日のクリスマスも随分違ったものになっていたかも知れません。



前歴や身分などは一切関係なし、徹底した能力主義による抜擢、用が終わればお払い箱に・・・まるでアメリカメジャーリーグを彷彿とさせる人事政策。



譜代の重臣を用済みになったからと追放したのは悪い点ですね。引退させ隠居させそれなりの余生を保障すべきだったでしょう。



また天下を半分手中に収めた自分の命の価値が解っていなかった・・・荒木村重、松永久秀など家臣の謀反の予兆はあったのだから十分な護衛を付けなかったのは脇が甘すぎますね。



秀吉や光秀のような中途採用の外様でも能力さえあれば大抜擢、大きな権限を与えます。



しかし、その抜擢した明智光秀に寝首をかかれる所を目の当りにした家康は譜代の家臣団しか信頼は置けないと外様大名を幕府の要職に就けない方向に向かいます。



織田政権が続いていれば能力主義が定着していたでしょうか?



和を重んじる日本社会ですが・・・鎖国をせず、海外との交流が続いていれば・・・



中央集権的で重商政策を取る強大な軍事力を持つ織田幕府・・・能力主義の官僚制度が発達し、絶対王政に向かったかも。



信長が本能寺で光秀に殺されていなければ・・・今の信長人気は存在しない。



それは天下統一後の信長が長生きすれば当然権力保持のために家康化する・・・息子たちに大領地を与える。



大阪に本拠を置いた事は間違いないだろう。



海外遠征は?少なくとも秀吉よりは上手くやっただろう。



戦国時代を生き抜いた精鋭・・・しかも鉄砲で武装している。



信長が長生きして織田政権が続けば・・・秀吉も家康も忠臣・名将で世を終えていただろう。



信長の苛烈な競争システムが続いていれば現代の日本社会も異なった物になった事は確かです。



確かに紅蓮の炎の中で横死したからこ今の信長人気であることは間違いないですね。



兵農分離を進め銭で雇った常備軍を創設。



農閑期に関係なく戦が出来る織田軍団は兵農分離していない他の戦国大名と戦った場合長期戦が可能なので最終的には必ず勝つ。



鉄砲を効率的に戦力化した。



鉄張の巨艦を作り最強の水軍を創設。



現在の資本主義経済社会を先取りするような楽市楽座の重商主義的経済政策。



銭こそ力の源泉・・・永楽銭の旗印がそれを証明しています。



信長は日本人離れした天才です。



和を重んじる日本社会からは抹殺される運命にあったのか・・・それしても惜しい男を光秀は殺しました。








藤堂高虎 世渡り上手なんですよ~







山本勘助かな。

最後まで主人に忠誠を尽くした、意志の強さには涙!!!

アニメ戦国BASARAって面白いですか?。

アニメ戦国BASARAって面白いですか?。

自分は戦国BASARAというのをあまり知りません、テレビゲームというのは知ってます(プレイした事は無い)がアニメ化してたのはハガレン視聴中にCMを観て知りました。

7月から戦国BASARA弐が放送されますが第一期を観てませんが弐から観ても楽しめそうでしょうか。







ファンの意見なので参考になるかわかりませんが…。





個人的には好きです。ただ、歴史は忠実であるべきだとか、戦国時代のリアルな戦いが見たい、という見方をされる方には向かないストーリーだと思います。

(歴史的にはありえない登場人物ですし、通常の人間のレベルを越えた跳躍・技がありますので)。

戦国時代なので当然戦い・死というものはありますけれども、それらの合間にギャク的なもの等が挟まっているので、私は楽しめました。キャラクターも個性がかなりきついキャラクターもいるのでそういう意味でも面白かったです。

ただ質問主様が、武将のイメージが崩れるのを嫌がられると楽しめないかもしれないです。



また、アニメのストーリー=ゲームのストーリーではありません。ゲームのストーリーの一部を入れつつ、オリジナル展開をしているといった印象を1期では受けました。なのでゲームをしていないと楽しめない、という事はないと思います。







第一期と第二期の違いを述べておきますと。



第一期:織田信長の天下統一を伊達政宗・真田幸村等の武将らが阻むストーリー

第二期:第一期の後(多分数年後?)に豊臣秀吉が台頭し、武将らと天下を争うストーリー



ですね(2期は推測を含みますが)。なので1期の続編的な部分は否めません。





が、第一期は深夜放送だったので見ていない・見られなかったファンの方もいると思います。

それらを考えある程度はアニメの方でもフォローを入れると思うので、1期を見ていなくても大丈夫だと思います。









+++追記





戦国BASARA2以降に関しては、漫画版なども出ています。アニメになるとしたらゲームよりもそちらの方がストーリーに近いかもしれないので、そちらをご覧になるのもいいかもしれません。

確かにyoutubeなどにも出ていますけれども違法アップロードですし、削除される事も多いので正直お勧めはしません…。








まず戦国BASARAというのは戦国と入っておりますが、完全別世界の戦国時代です。例えば、伊達政宗が英語を喋る、本多忠勝はロボット、織田信長は完全に魔王、豊臣秀吉は猿と言うよりゴリラ、他にも史実と性格が真逆な武将がいたりします。これらを許容出来るのであれば、ツッコミ所が多く、面白いと思います。

そして、アニメ第二期に関してですが、一期の時に二期は無いつもりで作っていたらしく、一期で死んだ筈の武将が出てくるらしいので完全にリセットされていると思います。なので二期から観ても全く問題ないと思います。







私は面白いと思います^^



でもあれは歴史に忠実でないので、

本格的な歴女さんとかには好かれないかもしれないですね。

現に私の身の回りに反バサラ派が数人います…



実は私もつい最近興味を持ちました。

なので2期に備えて動画サイトで視聴しています^^

それだと心配ありませんしねvv



作画も良い方だと思うので、おすすめします♪

江~姫たちの戦国~「利休切腹」を見た感想を聞かせて下さい

江~姫たちの戦国~「利休切腹」を見た感想を聞かせて下さい







千利休の切腹のいきさつを考察したものはいくつかあると思いますが、今回のものは実に率直で素晴らしい。秀吉という人物、利休という人物を本当によくとらえている。それでいて従来の資料もしっかり出しているんですから、枝葉末節にこだわるべきでないと思います。どんないきさつがあるにせよ、要はこうなのだと思っていいのだと言えると思ったのです。



利休というのは一道を極めた人です。しかしあそこでもし秀吉の茶頭を務めきっていたとしたなら、そうはならなかった。秀吉はただ人並みに幸せになろうとしただけです。人からとやかくねたまれることに反発しただけです。しかしそんなことでは俗物でしかない。俗物を引き立てる芸術家では、なんにもならない。でもただでさえ出自を卑しまれ、ねたまれ、陰では馬鹿にされどうしの秀吉の側から利休が去ってしまったら、秀吉の面目は地に落ちてしまうという事になる。



秀吉というのは最後は自分でない他者のために心を使える人だった。それが秀吉の成功の一番のかなめでした。しかし天下統一ののち彼は人並みに家族愛に執着してしまった。ただそれだけでもう木下藤吉郎の誠実さは白々しいものになる。

百姓の茶でもいい。茶の精神はもてなしの誠意です。繊細な心遣いです。もう戻ることのできないズレをハッキリと否定された秀吉の涙に感動しました。千利休はなぜ切腹に至ったか。これ以上の解答を私は知りません。

まったく今年の大河はうっかり目が離せません。さすがは五十作目。最低にして最高です。








利休がバカなだけでしょう。





史実は何故切腹させられたか全く分かっていませんが、ドラマ通りと考えたら、殺されて当たり前ですね。







秀吉は現代で言うところの総理大臣とかのレベルではないですからね。





僕は利休の切腹は政治失脚だと思ってますから、石田なりとドロドロとやりあって欲しかったです。







豊臣秀吉と言う男がいかに腹黒い男だかわかりますね。



あぁ、切ない。

【三国志】&【戦国】登場人物の漫画で面白いものを教えてください。 事実に基づ...

【三国志】&【戦国】登場人物の漫画で面白いものを教えてください。



事実に基づいてるものでなくてかまいません。

なんなら完全ギャグ漫画でもOK!



下記漫画は読んだので他を教えてください。

゚+.ヽ(●′з`●)ノ。

●三国志

●蒼天航路

●劉備くん シリーズ

●突き刺せ!呂布子ちゃん

●花の慶次

●義風堂々



~ちなみに~

【戦国】を希望する理由は、「戦国無双」「戦国BASARA」にハマった為です(/ω\)キャッ

なので、コレの登場人物だと倍嬉しいです★







有名なものだとセンゴクとかへうげものでしょうね。自分は読んだことないのでそのほかの物を。戦国ものばかりですが……。



「殿といっしょ」

「うっかり戦国4コマかいこ」

どちらもおもしろいです。たくさんキャラが出てくるのでご希望に添えるかと。



「姫武将政宗伝ぼんたん」

伊達政宗が女だったら……という話。意外と話が破綻していなくておもしろいです。

「伊達の鬼軍師片倉小十郎」

片倉小十郎の話です。小十郎がかっこいいです。



「戦國ストレイズ」

「天下一!!」

どちらも女子高生がタイムスリップして織田信長に仕える話。

戦國ストレイズはキャラがみんなかっこいい。BASARA好きならいいかも。天下一!!は作者さんが歴史物に定評のある方でよく調べて描かれています。かっこいい森乱丸が見れます。



あと、「戦国BASARA」は漫画がいくつかでてます。








戦国もののみで恐縮ですが個人的には「へうげもの」ですね。

千利休の弟子の古田織部が主人公の漫画です。

茶人ですので戦闘シーンはほとんどないですがギャグあり涙ありの人情味溢れる内容になってます。

来月からアニメ化されますがBS放送なのが残念ですね。



あとセンゴクも好きです。







山賊王

鎌倉~室町あたりなので、ちょっとBASARA時代より前になってしまいますが面白いです。



殿といっしょ

お望みの時代には合っています。

ちょっと文字数が多い四コマなので、読みにくいと思う人もいるかも。



覇~LOAD

ちょいファンタジー要素の入った三国志です。

お一人性別が変わっていたり…ですが、面白いと思います。







三国志なら一騎当千。

戦国ならKYOかな?



両方とも面白いのでオススメです。







影武者徳川家康、面白いよー!

花の慶次~斬~

花の慶次~斬~

ランクアップボーナスで、出玉による称号を詳しく教えてください。自分は、「戦国一の傾奇者」でしたが、それから更に上はどうなっているのでしょうか?







2500~2999戦国一の傾奇者

3000~3499国士無双の傾奇者

3500~3999天下無双の傾奇者

4000~4499驚天動地の傾奇者

4500~4999天上天下唯我傾奇者

5000~5999奥州独眼竜伊達政宗

6000~6999史上最強の剛将真田幸村

7000~7999加賀百万石の柱石奥村助右衛門

8000~8999愛染明王直江山城守兼続

9000~9999天上天下大制覇太閤豊臣秀吉

10000以上史上最強の傾奇者前田慶次郎利益です!5000までは500増えるごとに変化し5000以降は1000単位で変わるようです。

史上最強の傾奇者前田慶次郎利益は一度見ただけです!

戦国時代の「引き立て役」といえば誰ですか?

戦国時代の「引き立て役」といえば誰ですか?







真田幸村に対して、引き立て役の徳川家康



仮に大阪の陣の前に家康が没していて、くそまじめなイメージのある秀忠が相手だったら、幸村の武勇も目立ちませんでしたよね。



敵が徳川家康という天下一の大大名で、しかも腹黒い陰謀家というイメージがある人物ですから、その人物の本陣を蹴散らした幸村のこれ以上ないほどのイメージアップになったんじゃないですか。








種子島時堯かな?



彼に好奇心がなくて、種子島に来たポルトガル人が伝えた鉄砲に興味を示さず、複製するように刀鍛冶に命じなければ、鉄砲の国産化はもっと遅くなり、普及も遅れ、戦国時代はもっと長く続いたかも…。







織田信長に対する今川義元







織田信長ですかね?

室町幕府滅ぼし戦国の世がヒートアップしたからじゃないでしょうか?







黒田官兵衛

老齢になった官兵衛が家臣につまらない事で当たってくると、子の長政に苦情が寄せられた。

長政が官兵衛にその事を言うと官兵衛は辺りに人がいないのを確認して言った

「わしが嫌われ役を演じれば、家臣はみなおまえを助けてくれるだろ?」



織田がつき羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川



信長は秀吉の引き立て役

秀吉は家康の引き立て役と



今川、明智、石田は途中に折り込み







豊臣秀吉に対する明智光秀

第四次川中島の戦いで上杉謙信が直接、海津城を攻め落とす事も出来ましたか?(海...

第四次川中島の戦いで上杉謙信が直接、海津城を攻め落とす事も出来ましたか?(海津城は堅固でしたか?)



武田信玄本軍を誘出するために、敢えて妻女山に登ったのでしょうか?

両軍とも和議は出来なかったのでしょうか?



上洛を優先しないで何故不毛なる戦いを何度も続けたのでしょうか?



初歩的な質問かもしれませんがよろしくお願いします。







>第四次川中島の戦いで上杉謙信が直接、海津城を攻め落とす事も出来ましたか?(海津城は堅固でしたか?)

>武田信玄本軍を誘出するために、敢えて妻女山に登ったのでしょうか?



そもそも第四次川中島の戦いは、海津城を落として善光寺平を制圧することを意図して上杉軍が侵攻して起こりました。

緒戦で上杉方は海津城を攻めています。

海津城は、千曲川東岸の平地に位置する新造の出城なので、それほど堅固な作りではなかったようです。

ただ、当然武田信玄は海津城を奪われまいと甲府から後詰のために出して茶臼山に陣取りました。そこで、上杉謙信は城攻めを中止して妻女山に本陣を移しました。



武田が後詰を出さなければ海津城は落ちていたでしょうが、余裕があるのに後詰をしないなんてバカなマネは古今東西いかなる愚将もしません。そして、武田軍来襲によって妻女山に陣取ったので、武田本軍をおびき寄せることを企図したものでもありません。ただし、地形として妻女山の位置がちょうど茶臼山と海津城の中間なので、武田本軍が攻め寄せても撃退できるし、武田軍が海津城救援を諦めて撤退すればそのまま海津城を攻めることができるので、後詰の武田軍の出方を伺う企図はあったかも知れません。

実際には武田本軍は茶臼山から海津城に移動して、にらみ合いが継続しました。その後の展開はご存知の通りと思いますが、山本勘助の「啄木鳥の計」は無かったようです。









>両軍とも和議は出来なかったのでしょうか?



よく、上杉謙信が義侠心から信濃征服を企む武田信玄の野望をくじくため・・・などといっていますが、コレは仮にそうだとしても理由の一つにしかならない。実際は武田の信濃統一は上杉謙信にとって非常に厄介な事でした。



上杉謙信の本拠地である春日山城は現在の新潟県上越市に位置しています。ここから長野市中心部までは70キロ程度で、善光寺平は上杉家の安全保障上重要な地域でした。ここには村上氏や高梨氏などの国人領主が治めていました(高梨氏に至っては、完全に傘下の豪族でした)しかし、武田が信濃経略でこれらの領主を駆逐してしまったため、武田と上杉は国境を接してしまいました。

従来のように国人が治めるなら上杉にとってちっとも脅威ではないですが、武田という大国に押さえられては非常に脅威です。だから、上杉は武田と戦わざるを得ず、武田も室町幕府に申請して信濃守護職に任じられると言う大義名分がある以上、面子にかけても善光寺平を含む信濃を統一しなければなりませんでした。



つまり、戦略方針と利害が衝突し妥協点は見出せないので和議は不可能です。





>上洛を優先しないで何故不毛なる戦いを何度も続けたのでしょうか?



豊臣秀吉が、後年この地を訪れた際、同じ感想を漏らしています。

しかし、足場を固めずに上洛なんて夢のまた夢です。仰るように和議を結ぶのが一番ですが、上記の理由のために出来ませんでした。



そもそも、この質問が成立するには一連の川中島の戦いの時にに両者に上洛する意思があったという前提がなければなりません。正直、その時に両者共に上洛して天下を取ろうという意思があったとは思えません。

領土を広げ、家臣を養うのが戦国大名の性です。

天下取りという大局的な視点から見れば確かに不毛な戦いだったかもしれませんでしたが、戦国の雄である武田信玄・上杉謙信にとっては譲れないものがあったのだと思います。








川中島って、大した合戦じゃないだろ。。。。。。。。。。。。。。。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について。

何でもいいので教えてください!



できれば…本当に出来れば何ですけど…読みやすく…できたら…お願いします…。



とりあえず、お願いします!







織田信長

1534年尾張の国(愛知県)で生まれる。(幼名:吉法師)

尾張の国を統一した信長は周囲の戦国大名を滅ぼしたり

従えたりして領土を広げていきました。1573年には室町幕府を

滅ぼし やがて中国地方の東部 近畿 北陸 東海地方の

ほとんどを支配しました。ですが天下統一まであと一歩というところで

家来のはずだった明智光秀に襲われ 自害(自殺)しました。

これが「本能寺の変」というやつですね。

1582年明智光秀に襲われ自害。



豊臣秀吉

1536年豊臣秀吉が生まれる。(幼名:日吉丸)

豊臣秀吉は尾張の身分の低い武士の子として生まれ 織田信長に

仕えて有力な武将となりました。秀吉は信長に背いた明智光秀を

たおし やがて朝廷から関白に任じられました。

ほかの大名や仏教勢力をおさえ 天下統一を成し遂げました。

全国を統一した秀吉は海外にも目をつけ明(中国)を制服しようとし

ましたが秀吉は途中で病死し日本軍は引きあげました。

1598年病死。



徳川家康

1542年徳川家康が三河の国(愛知県)で生まれる。

豊臣秀吉の死後 豊臣家の家臣 石田光成らを中心とする西軍

と徳川家康が率いる東軍が 関ヶ原(岐阜県)で戦いました。

この戦いは「天下分け目」の戦いとも言われ この戦いに勝った

徳川家康は 朝廷から征夷大将軍に任命され 江戸(東京都)に

幕府を開いて全国の支配を始めました。

家康は大阪の豊臣氏を滅ぼすとともに 全国に一国一城令を

出して 大名が住む城以外の城の破壊を命じました。

こうして戦いの無い安定した世の中になっていきました。

ですが 豊臣氏を滅ぼした1年後家康は病死しました。

1616年病死



けっこう長くなってしまいましたが こんなかんじでどうでしょうか・・・

分かってもらえたらうれしいです(>_<)

あとちょくちょくでてくる朝廷の意味調べました。↓

朝廷:天子が政治を行う所。廟堂(びょうどう)。朝堂。また、天子が政治を行う機関。

だそうです・・・いや私もそこはあやふやでよく分からなくて(>_<)

まぁこのへんで・・・・・でわでわ^^








羽柴秀吉(豊臣秀吉)は明智光秀を討ち取るため中国大返しをするのだが、途中姫路城に入り兵士達に金銀や米を分け与えた。

家臣は与えすぎては城内のお金が無くなると心配したが秀吉は惜しげもなく分け与え兵士達の士気は高まった。



いよいよ光秀を討つぞと兵士達はやる気満々だったがそこへ僧が現れ「今出陣すれば二度とここへ戻れなくなり不吉な日だ」と言った。今でこそうさん臭い感じもするが当時は占いも重要な要因を占め兵士達の士気も低下してしまい出陣どころではなくなってしまった。

ところが秀吉は「わしが天下を獲れば城をどこでも建てられるようになりここに戻る事もないのだからこんな良い日はない」と言い兵士達の士気は再び上昇し光秀討伐に向かうのであった。



とこんな感じで宜しいでしょうか。読みにくかったらすみません。







織田信長



桶狭間の合戦の勝利を機に激戦続きの中、畿内を統一。

楽市楽座を奨励し、物資の流通を促進させた。

民衆に対しては優しい一面もあったが、刃向かう者には

情け容赦なかった。

天下統一が見えかけたところで、明智光秀の謀反にあい、最後を遂げる。





桶狭間の合戦で今川義元を破る奇跡を成し遂げた時の事。

圧倒的に不利であった信長は、家臣の梁田政綱に「義元の事調べとけ」と命じた。

「義元がここにいます」と分かると、速攻で奇襲をかけた。

毛利新助と服部小平太の二人が義元を討ちとったので、二人は

「俺達、一番手柄だ!ラッキー」と思っていた。

ところが一番手柄は義元の事を調べていた梁田政綱だった。

普通ならば討ちとった者が一番手柄の時代だったが、梁田が一番手柄で

あった事から、信長は情報を特に重要に考えていたというエピソード。



信長が京に上洛した時、京の人々は

「うっわ~、尾張(現在の名古屋)の田舎もんが来るで。おっかないわ~、

何されるかわからん」

と気が気でなかったが、実際に信長軍がくると兵隊もビシっとしてて何もされない。

何故ならば、信長は京へ向かう前に

「一銭でも盗んだらぶっ殺す!」(一円でも盗んだら殺す)

という命令をしていたからであったというエピソード。



宣教師フロイスとの初謁見の時、

信長は工事現場の監督を直々に行っていた。

ふと脇をみたら、一人の男が女に「どう、今度飯でも行こうや」と

仕事をせずに手を出していた。

その光景を見た信長は、素早く走りだし、その男のところへ向かうと刀を抜き、

居合抜きのようにバシュっと首をはねた。

それがフロイスが初めて信長を見た時のエピソード。



羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の妻の寧々が、余りの秀吉の浮気に困り果てていたら

信長から

「武将の妻が簡単にやきもちを焼くな。そもそもあのはげねずみにはそなたは勿体無い」

と寧々宛てに、手紙が届いた。

結構細かいとこまで気を配る一面を見せたエピソード。



越前(今の福井県)一向一揆を討伐した際、敵の死体だらけの戦場をみて、ご満悦で

「辺り一面憎い輩の死体ばかりにて、足の踏み場もないほどだ。是非見せてやりたい。」

という手紙を、家臣の村井貞勝に送ったというエピソード。



長島(今の長島スパーランド辺り)一向一揆討伐の際、信長は兵糧攻めを仕掛けた。

敵は飢えに耐えられず降伏すると行ってきたが、信長は無視!

実は今回三回目の攻撃で、過去二回苦しめられた相手であった。

更に降伏して逃げようをする者は射殺。

刃向かう相手には容赦は無い!というエピソード。



信長は近江安土の地に(今の滋賀県安土町)安土城を築いた。

その城は5層7階のスッゲー綺麗な城だった。(私個人的には一番)

安土城を見たフロイスは

「ヨーロッパにもこれほど豪華で綺麗な城は無い・・・。」

と感嘆したというエピソード。



疲れたのでこれでいいっすか?







武田信玄の軍を迎え撃つべく徳川家康は城で待ち構えていたら素通りされた。それに怒り追撃すべく城から撃って出たら待ち伏せされていて返り討ちにあい、命からがら逃げ帰ったさいに髪は乱れ青ざめた顔で糞尿をもらした情けない姿にされた。

普通なら風呂や着替えをするが家康はその姿を絵師に描かせて戒めとして絵を大切にした。



家康の嫁が敵国の娘で内通しているのではと信長に疑われ、嫁と子供を斬れと言われた時に命令通り殺害した。

征夷大将軍について 学生の頃、戦国時代をならっていたときに先生が言っていたこ...

征夷大将軍について



学生の頃、戦国時代をならっていたときに先生が言っていたことで聞きたいことがあります




①幕府を開くためには征夷大将軍になる必要があるのですか?

またどんな理由ですか?

②征夷大将軍になるには皇族の血=源氏または平家の血が必要らしいのですが本当ですか?

先生が言うには

織田信長も徳川家康も源氏の血が流れているから征夷大将軍になれるけど

豊臣秀吉は農民出身だからなれないので関白になったと言っていたのですが







①幕府というのは、武官が兵を率いて出陣した時、本陣を敷いた場所の事で、本来は幕を張り、旗を立てて作戦会議を開いたりした場所の意味 ですから近衛大将や鎮守府将軍の本営も「幕府」だったそうです 厳密には「征夷大将軍」でないといけないのではありません 源頼朝も「将軍」でもあり「右大将」でもありました 後に征夷大将軍の家政機関・政府が幕府と呼ばれるようになりました

②これは俗説としてあるようですが、その様な事はありません 古代の坂上田村麻呂がいますし、鎌倉幕府の摂家将軍も存在します

おそらく これは、中世に武士たちの間で「源平交代説」というのがあり、「源氏と平氏が交代で天下を取る」と言う物です「平氏→鎌倉将軍の源氏→北条氏→足利氏」という武士政権の歴史が根拠で、源氏は征夷大将軍だった事からそんな話が生まれたと思われます



信長は源氏は称してないです。平氏と一時期藤原氏です 家康の源氏は系図の偽造の詐称です

秀吉は、足利家の養子になろうとして断られ、関白になりましたが、最初は藤原氏、次に新規の姓・豊臣氏を名乗りました








基本あの時代に言われていた事があります、それは源・平・藤・橘の四家出身でないと征夷大将軍になれないと。



源氏で出身でなくとも良いのは当然として、過去の征夷大将軍を調べれば分かる事ですよ。



天子様の子供でも征夷大将軍(宮将軍)もいるし。



でも、こんな事も代々年月が流れていくと、慣習という言葉で縛られるようになって行くのです、宮将軍立てたのは今から考えれば正統な天子様のしたことではないから、あれは関係ないのだとかいろいろ後付で理由などつけ始めて、その内頼朝は源氏で幕府を開いたその次は足利でやはり幕府を開いた。

これはもう、征夷大将軍=幕府となれば、過去は源氏出身者のみなのだと言うのでしょう。





秀吉は最初明らかに征夷大将軍を望んでいましたよ、でも秀吉の出自は有名ですよね、家康のようにうそ臭い新田源氏だなどと言う事も出来ないほどに。

そうなると、武士ですらないのですからね、まず武家に養子に入って武士にならなくちゃ、それなれば源氏の名門足利義昭がいるのですから、義昭の養子になろうと頼んだのですが断られたのですよ。

そして、誰かに吹き込まれたのでしょう、征夷大将軍って所詮公家と天子様が任命するんだから、公家の最高位関白より位は下だって。

だから、秀吉は途中から関白になろうと矛先を変えたのですよ、こちらのほうが簡単ですよね、腐っても鯛とがんばる足利義昭と違って、貧乏こじらせて肺炎にかかっていた連中に黄金の山を見せればいいのですから。





でもですよ、秀吉は後の世に言われるように、典型的な武士のような解決方法を取らないからこうなっているだけですよ。



公家を全員集合させます、自分を征夷大将軍に任命されるように、天子様に奏上せよって金の山を見せる、お土産だから持って帰れと。

過去に例が無いと拒絶する公家が出たら、又皆を集めてその場で、その者の首を天井に届くぐらいの勢いで飛ばす。



又金の山を見せて、お土産だから持って帰れと。



これで、100%征夷大将軍に任命されますよ、でもこれはのちのち軋轢を呼ぶのは確かですよね、天下人になった家康はさまざまな方法で朝廷に圧力をかけて軋轢呼びましたからね。

家康はいいのですよこんなことしても、世間がどう思おうと関係ないからね、でも秀吉は違うでしょ。



考えてみれば、秀吉の周りにいる者は、もともと織田政権下では同僚や上司なんですよ、そして秀吉は武士出身でない、なりあがりもいい所なのです、このような強引な事は出来ないんですよ、一般民衆もふくめ反感を買うような行動には出れないんですよ、これを口実に誰が謀反おこすか分からんでしょ、家康は油断ならないし九州だって東北だってまだまだ制圧したわけじゃないしね。

完全に制圧した後なら、秀吉も荒っぽい手法使ってでも征夷大将軍になったかも知れないけど、あの時点の秀吉では出来ないよね。



最後に、朝廷と天子様は、常に権力者と共にあるのです、分かりますかこの言葉の意味が。現代でもそうでしょ。







①につきましては、朝廷から任じられた将軍になる必要があり、征夷大将軍にこだわりません。

将軍が命令され現地に赴いて軍政を行う場所に幕を張ったことから幕府というようになり、鎮守府将軍などでも幕府を開けます。

ただし、源頼朝が征夷大将軍になり幕府を開いたことからそれが先例となり、足利、徳川が征夷大将軍に任命され幕府を開きました。



③につきましては大伴弟麻呂や坂上田村麻呂がいますし摂家将軍がいます。

源義仲が任じられた以降、鎌倉時代の摂家将軍と皇族将軍、南北朝時代の皇族将軍がいますが、殆ど源氏出身の人物が任じられているためにそのように感じるのではないでしょうか。







うーん、学校の先生までそのような誤解をしているとは・・・。学校の教科書に「○○年、△△は征夷大将軍に任命され××に幕府を開いた」と書いてあるので、先生も生徒もみんな「征夷大将軍=幕府を開くために必要な地位」と勘違いしてしまうのですね。征夷大将軍と幕府は本来無関係です。坂上田村麻呂や木曽義仲も征夷大将軍になっていますが彼らは幕府を開きましたか?開いてないですよね。



そもそも「征夷大将軍」って何だか知っていますか?征夷大将軍とは朝廷の役職の1つで、朝廷の勢力が及んでいない蝦夷(昔の言い方で東北地方のこと。北海道は当時まだ日本になっていない。)で反乱が起きた時、その反乱軍を征伐(蝦夷を征伐するから”征夷”です)するために派遣される討伐軍の司令官のことです。「武士のトップ」という意味もなければ、それになると幕府を開けるなんて意味もありません。



ではなぜ「征夷大将軍になると幕府が開ける」となったのか?それは源頼朝がそういう前例を作ったからです。征夷大将軍は都(京都)から遠く離れた東北地方で戦をするのが仕事です。そのため、戦いが長期化して資金や武器や兵士や食料が足りなくなると、朝廷の名でそれらを現地調達して良いという職務権限が与えられていました。頼朝はそれを悪用したのです。この職権を使えば関東一帯に武士による独立政権が作れると気付いた頼朝は、朝廷に対して自分を征夷大将軍にするよう執拗に迫りました。



しかし当時の朝廷のトップであった後白河法皇はそれを見抜いていて、自分が生きている間は絶対に頼朝を征夷大将軍にはしませんでした。教科書に書いてある「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年は後白河法皇の死んだ年で、それでようやく頼朝は征夷大将軍になれたのです。そこで鎌倉を中心に「蝦夷を征伐するため」と理由をつけて、あたかも独立した政府のような活動を始めました。この活動のことを現在私たちは鎌倉幕府と呼んでいるのです。「鎌倉幕府」と書いた看板が掛かった役所が当時あったわけではありません。



頼朝がこれをやるまで、日本中の誰もこんなアイデアは思いつきませんでした。「そうか、その手があったか!征夷大将軍になれば朝廷公認で自分の政府が作れるんだ!」というのが全国の武士に広まり、それで頼朝以後、天下を取った武士は朝廷に圧力を掛けて大して高い地位でもない征夷大将軍にしてもらい、頼朝のマネをして自分の政府(幕府)を作るようになったのです。



教科書を書く人ももう少し気を遣った書き方をしないと「幕府を開くには征夷大将軍になる必要がある」「征夷大将軍は武士のトップのこと」などと間違って覚える人が増えてしまいます。







①…

逆ですね。

幕府を開くためには征夷大将軍になる必要があるではなく、征夷大将軍になると幕府を開く権利を得るです。

(先生は必要条件と十分条件がわかっていないようですね)



もともと征夷大将軍というのは東国にいる朝敵を討伐するための役職で、朝廷のある京都から遠く離れた土地で活動するためにある程度独自の自治権ともいえるような権利を与えられた役職です。

この征夷大将軍が執る独自の政府が幕府ということです。

但し、歴代の将軍の中には幕府を開かなかった将軍もあり、必ずしも幕府を開く必要はないですね。



②…

征夷大将軍が源氏である必要があるというのは俗説、過去には源氏以外の征夷大将軍は存在しています。

秀吉が征夷大将軍に慣れなかったのは、タイミングが悪かったから…征夷大将軍になろうとしたときは小牧・長久手の戦いで千住的な敗北をした時点であり、東国の敵を倒すための征夷大将軍につくにはイメージが悪く就任できなかったのだと思います。



関白就任前後のタイミングであれば秀吉が征夷大将軍になることは可能だったかもしれませんが、征夷大将軍以上の位である関白になれそうだったのでなろうとしなかったのでしょう。







1.

これ、実はまったく逆なんです。



頼朝、尊氏、家康は征夷大将軍に任じられ武家の政権を樹立しました。

有態に言えば、尊氏や家康は頼朝の先例に倣った、つまり真似をしたんです。



そしてこの3つの武家政権は長い間存続しました。

(ただし鎌倉幕府の長=征夷大将軍は途中で変わりましたが)



頼朝、尊氏、家康が開いた武家政権が、当時「幕府」と呼ばれていたわけではないんです。



征夷大将軍を組織の長とし、長い期間存続したという共通点を持つこの3つの武家政権を

それぞれ「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」と呼んだ”歴史用語”なんですね。

そしてそれら武家政権を「幕府」と・・・・・



定義の問題なんです。



2.

先生が言われていたのは俗説です。



だって頼朝が征夷大将軍に任じられる以前、源氏や平家でもない人間が征夷大将軍に任じられています。

また鎌倉幕府の将軍は実朝が死んだ後、藤原氏(摂関家)が任じられています。



源氏、平氏、天皇の子孫・・・・・

どれにも当てはまらない例が数多くあるでしょう。



秀吉のことについてですが、関白は征夷大将軍などよりも身分的にはずっと高い役職(官職)なんですよ。



上にも記したように源氏や平氏以外にもなった先例がある征夷大将軍とは異なり

藤原氏本流である摂関家以外の者が関白職に任じられたのは全く初めて、前例がないこと。



農民出身だから征夷大将軍にはなれないけど関白にはなれる

これはちょっと考えてもおかしいと思いませんか?



いろいろ複雑ないきさつがあったんですけれどね。







そのとおりなのですが、

織田信長は確か平氏を名乗ったはずです

始皇帝は何故小篆と隷書と云う二種類の文字を作らせましたか?一種類にした方が断...

始皇帝は何故小篆と隷書と云う二種類の文字を作らせましたか?一種類にした方が断然便利だったと思いますが?







秦の始皇帝が作らせ用いさせたのは小篆です。

隷書とは、秦の統一後に急に増えた事務をこなすため、獄吏が作りだした字体です。



始皇帝は「書同文」政策という政策を施し、字体を小篆に統一させました。

何故そのようなことをしたのかといいますと、次の様な状況にあったからです。

「戰國時代、社會經濟及び文化方面では空前の發展を爲しとげたものの、

しかし政治についていうと諸侯が割據し戰爭が絕えない時代であった。

諸侯が長期に渡り各地に割據したことにより、各國は同じ體系に基づく漢字を使いながら、

その用いる字體は非常に複雜で、同じ字にして形が異なるという現象が非常に顯著であった。」

(高明『中國古文字學通論』、北京:北京大學出版社、1996年、p4、訳は回答者)

このときに丞相李斯に命じて作られたのが、小篆です。

小篆が作られた経緯は『説文解字』卷15上、許愼叙に

「秦始皇帝初兼天下、丞相李斯乃奏同之、罷其不與秦文合者。斯作倉頡篇、

中車府令趙高作爰歷篇、太史令胡毋敬作博學篇、皆取史籀大篆或頗省改、

所謂小篆者也。」とあります。

ここに「その秦文と合わざるものを罷(しりぞ)く」とあるとおり、李斯によって秦の字体を基準に小篆が作られ、

小篆を用いて『倉頡篇』『爰歷篇』『博學篇』の三種の書が書かれたことが分かります。



李斯が小篆を作る以前には、大篆=古文・籀文という字体がありました。

古文や籀文とは何か、ということについては、白川靜が『説文新義』にて

「説文の書中には、艸部の五十三文を除く外は、大篆といわずして籀文という。

その字は「與古文或同或異」というが、

いま書中の籀文・古文の字形を以て考えると、籀文は西周彝銘の字に近く、古文は列國器銘の字に近い」

(白川靜『説文新義』、神戸:五典書院、1973年、卷15、p9)と言っています。

以上で、大篆(=籀文・古文)→(李斯が奏上して秦文を元に省改した)小篆という流れが分かると思います。



次に隷書についてですが、これは秦の始皇帝が作らせたものではなく、

官・監獄の職務が煩雑になったことから生まれたものだとされています。

『漢書』卷30藝文志に

「是時始造隸書矣、起於官獄多事、苟趨省易、施之於徒隸也」

また『説文解字』卷15上許愼叙にも

「是時秦燒滅經書、滌除舊典、大發隷卒興役戍、官獄職務繁、初有隷書。以趣約易而古文由此絶矣」

と、ほぼ同様の内容が書かれています。

隷書は小篆とは違い、転折する際に角を作るため、速記しやすく徒隷や下級官吏にも扱いやすかったのでしょう。

伝説上、この隷書を作った人間とされているのは、秦の下級官吏である程邈です。

唐・張懷瓘の『書斷』という本には

「案隷書者、秦下邽人程邈所造也。邈字元岑、始為衙縣獄吏。

得罪始皇幽繫雲陽獄中、覃思十年、益大小篆方圓、而爲隷書三千字。」(「隷書」の條)

とあり、衙縣獄吏という下級官吏の職にあった程邈という人間が、

罪を得て監獄に繋がれている時、10年の熟慮の末、小篆の筆画を買えて隷書三千字を造ったとされています。

しかし程邈は隷書を作ったのではなく、隷書を整理したのだとされています。

この点について再度、高明1996(上述書)を引きますと(p9)

・文字や言語は一人の手によって変わるものでは無い

・秦が六国を統一する前に作られた『高奴權』(西安から出土)の一部に隷書が用いられている

・また山東の益都から出土した戦国の銅戈では、「佐」字を隷書で記している

と、秦以前から隷書が一部では用いられていた痕跡があり、

程邈一人の手によって作られたものでは無いとされるようです。

以上をまとめますと、隷書の起源については

戦国時代から小規模に用いられていたが

始皇帝の統一後は「官庁や獄務の煩雑さ」によって自然発生的に、

大規模に用いられるようになった。この隷書を整理する際には程邈の貢献があった。

と、一般的には考えられているようです。



参考になりましたでしょうか。








文字は元々神との交信の為に出来ました。甲骨文字もそうでしたね?

古代の文字は決して「権力の象徴」ではなかったのだ。



また例えば、ウイキによれば---「大篆」は西周の宣王の時代、太史・籀(ちゅう)が公式文字・籀文を定めた際に編纂した書物の名であると伝えられ、籀文そのものの別名であるとされている。



このようなことから、石鼓文の大篆は籀文が戦国時代の秦で受け継がれたものと考えられているが、その詳細には諸説ある。---としている。



所が始皇帝はそれに恐らく不満だった。

よって民衆サイドの従来の文字、つまり大篆に対して、



始皇帝はこの小篆を権力誇示の手段として用いた。元々、神との交信や占いのために有った文字を、彼は人民の管理のために使用した。文字を官民に命令する為の道具に変えてしまったのだ。従って以下のようになる。其の事を



またウイキから引用すれば-----しかしそのような国の意図とは裏腹に、小篆はすぐにその形を崩し始める。法治国家である秦では、下層の役人が現場で事務処理を行うことが多くなった。



彼らにとって複雑な形をした小篆はきわめて書きづらいものであり、自然走り書きが多く発生する結果となった。このことが小篆の書体の単純化・簡素化を生み、やがて隷書を生むことになるのである(隷変)。---と述べている。