2012年5月4日金曜日

本能寺の変直後の各勢力の動員兵数について

本能寺の変直後の各勢力の動員兵数について

本能寺の変で信長が討たれた直後の

織田旧臣(軍団長クラス)の動員兵数(大体の推測で構いません)を

教えて下さい。



羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀等。

単純に当時の石高から割り出すのも良いのですが

それぞれの周辺勢力とかも、便乗して加担したりしてますよね?

(光秀で言えば、山崎合戦には参戦してないけど、近江国内で反秀吉的行動を取った勢力は多いですし)

そういうのもひっくるめての数を知りたいです。



正確な数を求めているわけではないので

おおよその数字で構いません。最大で、各勢力が動員できたであろう数をお願いします。

(もしも、あの勢力が味方についていれば・・・等のIFの話は除きます)







羽柴秀吉…自身の軍は1万3000ほどだったようです。

大返しをして、高山、池田、中川が明智光秀を裏切って秀吉のもとに参上したり

堺より、織田信孝、丹羽長秀の軍勢4000~5000も加わって、

山崎合戦時には2万7000ほどになっていました。



柴田勝家…1万5000~2万ほどだと考えられます。

ただこのとき上杉景勝と対峙していたので、この軍勢が全て動員できるとは考えられません。

1万前後あたりではないでしょうか。



丹羽長秀…4000~5000ほどの兵力がありましたが、

まとめられず1000~2000ほどが動員できたようです。

もともと長秀の軍は遊撃軍だったのであまり兵力はなかったようです。



明智光秀…自身は1万3000ほどの軍を持っていました。

近江国衆、若狭国衆を説き伏せ近江の主だった城を落とさせています。

武田元明→佐和山城 阿閉貞征・京極高次→長浜城

安土城、坂本城も占拠しているので、山崎合戦時には近江は明智軍下だったようです。

全てを使いきれたとするならば、2万は最高でも動員できたのではないでしょうか。



滝川一益…1万以上の大軍を持っていましたが、北条と対峙中のため動けず。



徳川家康…1万~2万の兵力も持っていましたが、

変直後は堺にいたため兵力といえるほどの軍勢を持っていませんでした。



細川藤孝・筒井順慶…5000~6000ほどの兵を持っていましたが、静観。



だいたい京周辺はこのようなかんじです。

美濃は織田信忠の統治下でしたが、本人不在の上、京で討ち死にしているので大混乱していました。

小土豪がひしめきあっていたようです。

朝廷は明智支持だったようです。

以上

学研 「歴史群像シリーズ51 戦国合戦大全下巻 天下統一と三英傑の偉業」によりました。

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