2012年5月8日火曜日

十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているホームページを教えてください。 この現...

十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているホームページを教えてください。

この現代語訳がわかる方は、それを教えていただけるとありがたいです。







十八史略の諸葛孔明の現代語訳が載っているサイトは多分ありません。

十八史略の現代語訳サイトはいくつかありますが、

傾向として春秋戦国時代~前漢時代あたりの逸話がほとんどです。



五丈原を勝手に登載します。質問しっぱなしはやめましょう。



【原文】

亮數挑懿戦。懿不出。

即懿以巾幗婦人之服。

亮使者至懿軍。

懿問其寝食及事煩簡、面不及戎事。

使者曰、

諸葛公夙興夜寐、

罰二十以上皆親覧。

所敢食不至數升。

懿告人曰、

食少事煩、其能久ャ。

亮病篤。有大星、赤面芒、

墜亮営中。

未幾亮卒。

長史楊儀、整軍還。

百姓奔告懿。

懿迫之。

姜維令儀反旗鳴鼓、

若牆向鋳。

懿不敢逼。

百姓爲之諺曰、

死諸葛、走生仲達。懿笑曰、

吾能料生、不能料死。

亮賞推演兵法、作八陣図。

至是懿案行其営塁、

歎曰、

天下奇材也。



【読み下し文】

亮、しばしば懿に戦いを挑む。懿、出でず。

すなわち遺るに巾幗婦人の服をもってす。

亮の使者、懿の軍に至る。

懿、その寝食および事の煩簡を問いて、戎事に及ばず。

使者曰く、

「諸葛公、夙に興き夜に寐ぬ

罰二十以上はみな親ら覧る。

敢食すると、ころは数升に至らず」。

懿、人に告げて曰く、

「食少なく事煩わし、それよく久しからんや」。

亮、病篤し。大星あり、赤くして芒あり、

亮の営中に墜つ。

いまだいくばくならずして亮卒す。

長史楊儀、軍を整えて還る。

百姓、奔りて懿に告ぐ。

懿、これを追う。

姜維、儀をして旗を反し鼓を鳴らし、

まさに懿に向かわんとするがごとくせしむ。

懿、あえて逼らず。

百姓これがために諺して曰く、

「死せる諸葛、生ける仲達を走らしむ」。

懿、笑いて曰く、

「われよく生を料れども、死を料ること能わず」

亮かって兵法を推演して、八陣の図を作る。

ここに至りて、懿、その営塁を案行し、

歎じて曰く、

「天下の奇材なり」



【訳】

諸葛亮がしばしば戦を仕掛けたにもかかわらず、

司馬懿のほうは、応戦する気配をみせない。

そこで諸葛亮は、婦人用の頭巾と服を贈って、

司馬懿の臆病さをからかった。

その使者を前にして、

司馬懿は軍事のことには触れないで、

寝る時間はいつか、

公務に追いまくられていないかなどと、

もっぱら諸葛亮の日常について質問した。

「わが諸葛公は、

朝早くに起き、夜遅くに就寝なされます。

杖罪二十以上の軍律違反者は、

すべて自分で調べられます。

お食事の量は少なくて、

一日に三、四合程度です。」

使者がさがったあと、司馬懿は周囲の部将たちに言った。

「食事の量が少なくて、仕事は多忙をきわめている。

もう長くはないな」

彼が見抜いたように、

その後、諸葛亮は、重い病いにとりつかれた。

ある夜、大きな彗星が、すーっと赤い光亡を放ちながら、

諸葛亮の陣営のあたりに落ちた。

ほどなく、諸葛亮は没した。

蜀の長史楊儀があわただしく軍をまとめて引き上げるのを見て、

土地の者が魏軍へ注進におよんだ。

司馬懿は、ただちに迫撃を命じた。

「旗の向きをかえ、軍鼓を打ち鳴らして、

反撃するように見せかけよ」

将軍姜維の指示にしたがって、

楊儀が軍の態勢を向き変えたところ、

司馬懿はそれ以上追撃しようとしなかった。

「死せる諸葛亮。生ける仲達を走らす」

土地の人民がこんな諺をつくったと聞いて、

司馬懿は苦笑しながら、

「生きた人間のすることは見当がつくが、

死んだ人間は何をするやらわからぬからな」

生前、諸葛亮は、

各種の兵法から原理を割り出して

「八陣の図」という軍隊の配備法を編み出していた。

司馬懿は、蜀軍の引き揚げたあとの陣営を調べてまわったが、

こう嘆息したという。

「諸葛亮は天下の奇材だ!」








ホームページなんか探してないで図書館に行けよな。







十八史略は編年体なので、人物ごとに話が書いてありません。

十八史略の三国志の場面は割合さらりと平等の史観で記してあります。



つまり大本の十八史略に孔明だけの記述がないので無理です。



孔明が出てくるところについて知りたいのであれば底本になっている、

三国志をみたらいかがでしょう。

ART機で総合的に収益が見込める台

ART機で総合的に収益が見込める台

マイホにある台をあげますと

・ヱヴァ真実 ・エウレカ ・緑ドン ・新鬼武者 ・蒼天の拳

・秘宝伝 ・ハヤト疾風伝 ・創聖のアクエリオン

・サクラ大戦 ・サイバードラゴン ・ルパン三世 ・マクロス

・マジハロ ・天下布武 ・アントニオ猪木 ・デビルマンII

・戦国BASARA ・スカイラブ ・ダイナミックサンダーV

・リオスパ ・忍魂 ・モンキーターン ・バジリスク

・大逆転 ・ジャグラー

となります。

ある程度設定は入っており、ときたま6が入ってます。

マイホではエウレカに力を入れており、10台あります。

ジャグラーにはあまり力を入れてません。



エウレカが好きでずっと打っているのですが、

最近は全く勝てる気がせず、フリーズや5ptREGでしか勝てないのではないかとも思い始めるネガティブさです。

それでも打ち、銀行へ引き出しに行く毎日です。

Aタイプはあまり好きではないので、ほとんど打ちません。



ART機でトータルで勝つようにするためには、どんな機種を打てばいいのでしょうか?

サクラ大戦が一番その可能性があるのではないかと思っています。

モンキーターンの朝一、ゾーン狙いも悪くないと思います。



設定看破することがその道への近道だとわかっているのですが、エウレカなどは設定判別が難しいです。

ほぼ初心者なのでいろいろ教えてください。

とにかくスロットが大好きです! 長文失礼しました







ART機のみなどの縛りをつけると非常に勝ちの確率は下がると思われますパチスロが好きなら出来れば全ての台を好きになった方が断然勝ち易くはなると思います、特に最近は集団で台取りに来ている若者をよく見かけるのであの間を縫ってとなるとかなり厳しい状況になるとは思いますが、期待収支がプラスの台を打ち続ければ間違いないと思います



特にART機は判別に時間がかかり難しいと思うので時間に余裕があるなら年配の方のハイエナが一番勝ちに近いと思います、朝一変更挙動も他人に打って貰って観察、ART当選が表示されないカウンターの店舗も多いのでそういった店舗こそ観察が非常に効果を発揮します、ただこれ全く面白くないのと完全に嫌な奴になるので絡まれる危険性も大です、でもどうしても大きい勝ちにこだわるならこういった方法になると思います



ただ6をしっかり使うお店できっちり判別作業をして見抜く努力を怠らなければ、よほど間違いが無い限り遊んで楽しんでちょっとおこづかい程度ならあると思いますよ、プロとして生活するのは至難だと思いますが



台で言えばどこの店舗もモンキーターンは95%以上1だと思うし笑うも怖いうちの近くではまだ秘宝伝とかVIVAとかのほうが使ってる感じがするから朝一変更挙動を見て周囲観察しながらっていうのが最近のパターンになってます、まあそれだけでも朝一ツモることもあるし高設定に行き着いたと感じることもあるし月収支大勝とまでは行かないけどまだマイナスまで落ち込んだことは無いよ








マイホって1店舗?

機種を一つに絞っても良いけど、だったらイベントで確実に狙い機種に高設定入れてくる店舗を複数キープしておかないと。

それでイベントに合わせて打ちに行く。

ただ、朝イチで席取り出来ないと厳しい。

それと、設定看破は難しかろうが面倒臭かろうがトータルプラスにしたいなら必須です。

低設定をズルズル打ってたら金がズンチャカズンチャカ減っていくし、たまたま高設定に座れたのに序盤出枚数がパッとしないから捨てるなんて勿体ない事も…

最後に、保険の的な意味でかまわないからホール設置機種全ての天井と期待収支がプラスになるゲーム数は把握しておくこと!

携帯サイトやメモを活用しておけば楽ですよ。







捕捉回答□一撃が外れたら?(と思たら駄目前提)好きでも無い台にぶっ込むより、好きな台にぶっ込んだ方が気持ちイイ♪それが出玉に繋がればもっと気持ちイイ♪でしょう?(-.-)y-~□

先の回答と同意見です。m(_ _)m

因みに、エヴァはARTでは無くてRT機です。

単機より、複数台での立回りでないと?

どの台も期待できるし、期待できないし?







機種を限定しては勝つのは厳しいんじゃないでしょうか?

そもそもパチンコ屋は非営利目的ではないのですから、この機種をやれば勝てるなんて有り得ないです。



状況に応じて、立ち回る事が必要です。





しかし、どうしても機種を限定するのであれば、設定6の期待値が高い方がいいに決まっています。



たまに6が入るとの事ですが、仮に全ての機種に均等な割合で6が入ったとしましょう。



狙い台を絞れないのであれば、ツモ率は同じです。



ツモった数が一緒ならば、ツモった時に6万しか勝てない台(エウレカ等)より10万勝てる台(緑ドン等)でしょう。



しかし、店側も採算をとらなくてはいけないので均等な割合では入れないでしょう。



ですので、状況に応じて台を選択する必要があるのです。

こんばんわ。質問ですが、戦国無双3エンパイアーズが

こんばんわ。質問ですが、戦国無双3エンパイアーズが

気になっています。それで幾つか聞きますが、



味方は強いですか?、3Zからの変更点はどういったものですか?



武将の、移動速度は遅いですか?、第一、第二秘蔵武器は簡単に取れますか?



3980円で売っていたのですが、買ったら勿体無いでしょうか?損しますか?



面白いですか?、他にお勧めがあれば教えて下さい難しい、レース系、ロードが長い、フリーズがある等の



ゲームは個人的に無理なゲームですので、回答は控えて下さい。



教えて下さい、お願いします。







まず、3Zとは全く別のゲームだと思ってください。

戦闘はありますがあくまでも内政の一つ、施設を建てて国力を強化(人口・収入・幸福・兵力等の数値を上げる)、隣国に侵攻・防衛を繰り返し、領土を広げて天下統一を目指す、シュミレーション要素の強いゲームです。

武器・防具・馬は全て共通ですが、レベルは戦闘毎にリセットされます。

初めからすべてのチャージ攻撃は使用可能ですが、毎回レベル1からのスタートになります(戦闘中のレベルアップのスピードはかなり早いですが)

また、操作したいキャラを登用して自国に配置しなければ、戦闘には使えません。



何も無しの状態では、武将の移動速度は遅いです。

足袋を装備すれば、移動速度を上げる事が出来ます。



秘蔵武器は、まず鍛冶屋を建設します。

鍛冶屋からの依頼をクリアし、鍛冶屋のレベルを4にあげます。

その後、各キャラごとに武器を獲得せよとの任務が発生します。その任務をクリアすれば、そのキャラの秘蔵武器を獲得する事が出来ます。

GREEに登録してもレア武器はもらえません。が、電波塔やロケット台などの特別な施設を建設する事が出来るようになります。



empiresシリーズはイベント会話等が多く、3Zとはまた違う楽しみ方の出来るものなので、私は楽しんで遊んでいますが、3Zと同じ感覚で3empiresを購入すると戸惑われる方が少なくないようです。



3Zが楽しめたのであれば、無双OROCHI Zの方が個人的にはオススメです。

無双シリーズでは一番、敵の表示数が多いと思います。1000斬りは当たり前、少し頑張れば2000斬りもいけます。

武器の錬成も自分好みに出来ます。

三国4と戦国2までのキャラ+OROCHIオリジナルキャラの総勢90人以上がプレイ可能です。

11月2日にBest版(ゲーム内容は同じで値段が安くなったもの)が4000円ほどで発売されます。

12月には続編の無双OROCHI2が発売予定です。

こちらは三国6+戦国3+OROCHIオリジナルキャラの総勢120人以上がプレイ可能です。








簡単に言えば、箱庭内政で兵力など強化→戦闘パートで国を攻め、天下統一を目指すゲームです。



味方は、こちら側の兵力が敵国より高ければ、戦闘で頑張ってくれます。



今回は、戦闘ごとに毎回レベル1から開始されますが、学問所(施設)を建てたり立志をつけた武器があれば、レベルはサクサク上がります。

アクションは、最初から全て開放されているので苦手なキャラでも使う気になりました。



移動速度は、そのままでは遅いキャラも居ますが、良い足袋や馬があれば大丈夫です。

ステージも3より狭くなって動きやすいです。



レア武器1&2は、条件を1つだけクリアすれば獲得出来るようになったので、かなり楽です。

※GREEに登録しなくても獲得出来ます。



私は楽しんでいます。

じっくりプレイするのが好きならオススメします。



公式サイト

http://www.gamecity.ne.jp/sengoku3/emp/



攻略に関しては、攻略Wikiが便利です。

http://www16.atwiki.jp/sengoku3empires/







簡単に言うと、無双ではない



・施設のLv上げのために時間を進めるだけの完全な作業ゲーム。

・結局アクションパートをやらなければならない苦痛。

・一番気に入らなかった点はユニーク武器の取得にGREEに登録しなければならない事。

・エディットの不自由化

・味方は紙のように死にますので弱いです。

日本の16世紀の戦国時代において、 織田信長は、天下を取った のですか? 天下を取...

日本の16世紀の戦国時代において、

織田信長は、天下を取った のですか?

天下を取れそうだった のですか?



豊臣秀吉は?



要するに、何をもって「天下を取った」と言えるのでしょうか?







明智光秀に邪魔されてなければ、取れてました。

つまり、天下を取る一歩手前まで来ていたのです。

厳密に言うと、とれてませんが、取れたということでも良いのではないでしょうか?





全ての大名を従えて天下統一では?








「信長は天下をとることができる状態であったにもかかわらず天下をとることをせず天下統一を目指して道半ばに倒れた」と私は思っています。

「天下をとる」と「天下統一」は違うということに関しては前の回答者さんと一緒です。信長は「天下統一」はできなかったものの世間から「天下人」(天下を取った人)と思われ天下人としての条件も満たしていたと思います。しかし「天下は取らなかった」天下をとるということは将軍になって幕府を作るなり、関白なりなんなりになって天下に号令をかけることを意図することが要件であったと思います。しかしそれを信長は拒否し、あくまで天下統一を目指したように感じました。



・・・日本語ぐちゃぐちゃですね・・・「近畿を抑え、自他共に認める最も力を持った勢力であり、天下に号令をかける体制を作り上げた」ことをもって「天下を取った」と私は考えています。







ずばり、信長は「天下」を取りました。でもかっこ付きの天下です。

当時、畿内を制覇した人物を、庶民(公家や僧侶も含む)は「天下人」と呼んだと、当時の日記にあります。だから、信長は勿論、三好長慶も「天下人」であったわけです。

ただ信長は全国を統一できませんでした。そのあとを受けた秀吉によって、全国統一がなされたわけです。



つまり、「天下を取る」イコール「全国統一」ではなかったわけです。







信長は天下統一はできていません。

秀吉は統一しました。

★印以降は多分、国内に服従していない大名などがいない状態かと。







取れていません。

天下統一の過程で、

夢破れました。



天下を統一したのは、

豊臣秀吉ということでよいでしょう。

全ての勢力が彼に屈し、

彼の政策が全国に実施されたわけですからね。

「戦国策」の、「淳于髠一日」から、「豈特七士也。」」までの口語訳をお願いしま...

「戦国策」の、「淳于髠一日」から、「豈特七士也。」」までの口語訳をお願いします!!

できるだけ早めに;;







<口語訳>

淳于髠 は一日に七人の賢者を宣王に拝謁させた。王は淳于髠に訊ねた。<先生こちらに来て教えて下さい。私(寡人)は千里に一人の賢者がいればお互いが肩を並べるほど多く、百世に一人の聖人があれば踵をつけて歩くほど多いと聞いております。それなのに今、先生は一朝に七人もの賢者を紹介してくれました。このことは天下に賢者が多いということなのでしょうか>と。

淳于髠は答えた。<そうではありません。鳥は翼の模様が同じ同士で聚(あつま)って居り、獣は同じ足痕をもつ同士であれば倶(とも)に行きます。今 柴胡・桔梗を沮沢(湿地)に求めるならば、たとえ何世代かかっても 一草をも得られないでしょうが、睪黍・梁父の山陰にまで行き之を求めれば、車一台満載する程に載せられるでしょう。物にはそれぞれ類(カテゴリー)が有ります。今 私髠は賢者の類(カテゴリー)に入ります。王に仕える士大夫を髠に推薦するよう求めるのは、例えば河から水を挹(く)み、篝火から火を取るように容易なことです。髠が再び王に賢者を推薦しようとするならば、どうして特に七人だけに限るでしょうか?>(いえいくらでも紹介できるでしょう)と *疇は畝で区切られた田畑の領域から「類(たぐい)」の意味です。



<比肩随踵>の熟語として、次々に続いて絶え間のない様子。多くの人が後から後へと続く様子を表す言葉となりました。比肩随踵の「比肩」は肩を並べる意味で、「踵」はかかと。「随踵」はかかとを接して続くことです。

携帯の乙女ゲームにハマっていて、天下一戦国LOVERSや恋人は専属SPなどの会社は...

携帯の乙女ゲームにハマっていて、天下一戦国LOVERSや恋人は専属SPなどの会社は大概やり尽くしました。

似たような携帯サイトでオススメの乙女ゲームはありませんか?







かなり大手なとこなのですでに知っていたらすいません(;^_^A

BL&乙女ゲームポータルサイト

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ここから色んな乙女ゲームのダウンロードへとべます(^^)

僕と私の恋愛事情は絶対やるべき!!



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イラストが超美麗です

結構オススメ(^^)

秀吉が主人公の小説

秀吉が主人公の小説

豊臣秀吉が主人公の小説を探しています。

お勧め小説を教えてください。



お願いします。







今でこそ、主君の織田信長が人気ですけれど、80年代に津本陽の「下天は夢か」が出版されるまで、信長は至って不人気でした。

その分と言うか、豊臣秀吉は非常に人気で、「歴史作家なら、一度は秀吉を書く」と言っていいほど、巷に溢れていました。

その大半はもう、入手しがたくなっていますけれど、あるいはひょっこり復刊されるかもしれません。



私が覚えている、秀吉小説を挙げると……

吉川英治「新書太閤記」(講談社文庫)

海音寺潮五郎「新・太閤記」(絶)

早乙女貢「おれは日吉丸」「おれは藤吉郎」(絶)

司馬遼太郎「新史太閤記」(新潮文庫)

山田智彦「秀吉暗殺」(絶)

堺屋太一「秀吉 夢を超えた男」(文春文庫)

山田風太郎「妖説太閤記」(講談社文庫)

山岡荘八「豊臣秀吉 異本太閤記」(講談社文庫)

津本陽「夢のまた夢」(文春文庫)

まだまだあると思いますが……



一番のお勧めは、吉川英治でしょう。

戦後、日本国民を勇気づけるために書かれ、物資不足の折にも、優先的に用紙供給されたという”国民的作品”。NHK大河ドラマ第三作にも選ばれ、名優・緒形拳のTVデヴュー作でもあります。

普段あんまり本を読まない人の家にも、置いてあったというくらい広く読まれた伝説の長編。

ただし、全11巻もあるうえ、吉川が秀吉が天下をとり、有頂天になっている姿を描く気をなくしたため、「家康が秀吉に頭を下げた場面」で終わっています。

しかし、熱く書き込まれた戦国模様、夢中になるストーリー展開の上手さは、今も「国民的文学」と呼ばれるのにふさわしい。



同じく大河の原作になった堺屋太一の作品は、秀吉の一生を今日的視点から分かりやすく描いています。秀吉の行動や事件が、歴史にどういった影響があったか、今日から見ればどういった意味があるかを、彼らしく実に明快に描いています。

友人に譲ってあげたら彼は大いに気に入って、しょっちゅう読み返しているそうです。



まあ一番読みやすく分かりやすいのは、山岡荘八でしょう。

全6巻と手ごろな長さで、しかも講談調の読みやすい文章では彼の右に出る人は多くないでしょう。彼の作品を原作にした、横山光輝のコミック版もありますし。



山田風太郎の作品は、すごい異色作。

秀吉の「暗黒面」を抉り出した小説で、明るい出世物語に隠された秀吉の本性を告発しています。

「庶民は自分たちを苦しめた人物を、英雄として祭り上げるものだ」と言う皮肉な結末が印象的。一度は読んでおくといいでしょうね。








宇月原晴明

「聚楽 太閤の錬金窟(グロッタ)」



はいかがでしょうか?

史実からはかけ離れていますが、エンターティメント性の強い面白い小説だと思います。







司馬遼太郎さんの、「新史太閤記」を、おすすめします。

織田信忠の正室

織田信忠の正室

織田信忠の正室は誰でしょうか?

最初は武田信玄の息女(松姫?)と婚約していましたが

両家の反目後は破棄されました。

しかし、その後正室がいたと言う話は聞きません。

天下政権の織田家の嫡男に正室がいないのは

当時の常識では考えられません。

(三法師の母の実家はそこまでの名家ではなかったはずです。)

信長はどういったつもりだったのでしょうか?

信忠が成人するころなら当然それなりの家から

正室を向かえる必要があったと思うのですが。







まったくの推測で失礼します。

信忠自身が一貫して「松姫を正室として迎える」ことにこだわっていたということは考えられないでしょうか?

信忠と松姫は、婚約期間中、文通を通じて心の交流を深めてお互いを思い合っていたと言われます。

松姫の方も、婚約破談後も結婚していないようですから、お互いに「織田と武田が仲直りして結婚する」ことをあきらめていなかった可能性も考えられるようにも思われます。

織田家の女房の手記かなんかに、信長と信忠が一時期不和だったことが記されているらしいですが、それを婚約破談が原因ではないかとする説もあります。



wikipediaには、武田家滅亡後、信忠が松姫に迎えの使者を送り、松姫も会いに行くつもりであったこと、しかも信忠が死ぬとすぐに出家して、武田家の菩提のみならず信忠の菩提まで弔っているとあります。



「同年6月、信忠から迎えの使者が訪れ会いに行こうとした最中に、本能寺の変が勃発し織田信長・信忠父子が自刃して果てる(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもあるが、生前に松姫と信忠が会ったという可能性すら低く、何らかの誤りと考えられている)。

同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。」



武田の滅亡によってではなく、信忠の死によって出家したのだとしたら、お互いにそこまで思いやる絆があった・・・ということもあったのかも知れないような気がしてきます。

戦国時代にそこまでピュアな恋愛が・・・とも思いますが、信忠も信長の息子ですから、一度こうと思ったことはガンとしてなかなか曲げないたちだったのではないでしょうか。

信長も「信忠は向こう見ずなところがあるから、よくよく諌めるように」と、信忠の与力に書き送っていますし、気性が激しくて一本気な感じだったようなので、そういうこともないこともないのかな・・・と思います。

(本能寺で敵襲を知った信長が、最初に信忠の謀反を疑ったという話もありますから、信長に対する反抗気質もしっかり持っていたのでは・・・。)









> harima_no_sukeさん

すいません、信忠の側室には、森可成の娘も入っていたと言われていますが、どうなのでしょうか?

森一族も清和源氏の名門だし、信長お気に入りの森蘭丸の姉妹ということになりますし、信忠とりまきの美濃衆に連なる家です。

織田家の危機を身を挺して守り討ち死にした森可成のことを、信長はたいそう気に留めていたらしく、亡き可成の子どもを面倒見て相当取り立てていますから、森可成に面目を立てるために嫡男の妻に入れたという気がします。





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追記:信長の心中について



信長にとっては、ぶっちゃけて「正室」などという形式的なものはどうでも良かったのではないでしょうか。

信忠の正室も、必要があれば入れるし、特に差し迫った必要がなければ「将来使える手駒」として温存しておき、空位のままあけておけば良い・・・という感じで。



「権威」の面でも天皇家を凌駕しようかという信長でしたから、五摂家から嫁を入れる・・・というのは公家・朝廷に信長政権に付け入る隙を与えることにもなるので、あまり考える余地はなかったような気がします。

例えば公家・朝廷から輿入れしてきた正室が世継ぎを生んでしまうと、当然、正室の実家が力を持ってしまいます。

古来から藤原氏や平家が行ってきたように、信長の娘を天皇に輿入れさせ、織田の血筋を天皇位につかせる・・・という方が現実的な気がします。

むしろ公家や朝廷から信忠の正室をとろうという気があったのなら、朝廷との協調路線をとる意志があるということですから、それなら本能寺の変は起こらなかったのでは・・・?

(徳川家も何度か朝廷から正室を入れていますが、なぜか跡継ぎは一度も生まれておらず、朝廷の影響力が増すのを恐れて、幕府が「闇に葬っていた」という説があります。)



ただ、この頃は朝廷のあり方も含めて日本の政体をどうするかという大切な時期でした。

長年打ち捨てられてきた信忠の正室の座も、もしかするとあらたな必要性で動き出す可能性もあったかも知れません。

天下統一後は、朝鮮・明へ侵攻するつもりだったわけですから、征服した王朝の皇族から正室を入れる・・・という大構想もありえたような気がしてきます。

それならばあるいは天皇家から正室を入れて、日本の支配は信忠に任せる・・・というパターンもありうるかも知れませんが、日本の支配は次男以下の仕事という腹積もりだったかも知れません。








織田信長の心境としては嫡男の信忠の正室は政治的な必要性がない限り迎えないというものだったと思います。

信長自身の例からも正室を迎える婚姻というのは政略かさもなければ江戸中期の徳川家のように儀礼のようなものです。

すでに天下統一もみえてきた織田家からしたら他の戦国大名家から殊更、嫡男との縁組を結ぶほど重要な家が無かったということがまずありました。

武田家との婚姻が実際に行なわれていれば例え敵対した家の娘といえど男子を産むなど織田家に貢献すれば正室として史実に残ったかもしれませんがこれは実現しませんでした。

武家で適当な相手がいなければ公家か皇族ですがこれが織田信長の政権構想とも微妙に絡む問題です。

私は信長は天皇家を廃止する意図は無かったと思いますが、関白・太政大臣・征夷大将軍のどれに付き政権を打ち立てるかは明確にしなかったことからも信長自身が迷っていたと考えています。

このため嫡男の嫁取りを考えた場合に摂関家かそれとも足利将軍家の日野家のように下位の公家か、いっそ権威と天皇を取り込むなら皇族か決断しかねていたのでしょう。

信忠の場合は子供がいたので側室はいたわけですから政治的に切迫した必要性もなければ別にいいと判断したのでしょう。







ハッキリとしたことは、分かりませんが

小田原の香林寺という所に、「信長女」と伝わる人の墓があるそうで

この女性は、北条氏直の許婚の信長の娘・・と言われてるそうですが

一方では、そうではなく織田信忠の正室と伝えられてるそです。



この女性は、本能寺の時に信忠の家臣が伴なって小田原に来たそうです。

これだけで考えると、信長の死後だとしても何故、ひっそりと小田原に行く必要があるのか?

もし、信長の娘であるなら花嫁行列でも、そうじゃなくても、ある程度の行列で小田原入りする気がします・・。

しかも、婚約の段階で小田原入りしないと思うんです。

もし、この女性が信忠正室なら、子供もいないし信忠も亡くなったので

家臣が伴をし、実家に帰された・・と考えますが・・。



私も、憶測ですが^^:

参考までに・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0



追記・・すいません。大事なことを書き忘れてました。

 この説で考えると、質問の「信忠正室」は、北条家となります。 







織田信忠の妻として挙げられるのは、

摂津の塩河長満の娘ひとりです。



この塩河氏は、清和源氏の創始者とも呼べる源満仲の娘婿から続く家系を誇り、

摂津ではもっとも由緒ある武家となります。

ですから、三法師の母の実家が名家ではない、というのは少し違う気がします。



たしかに戦国時代の塩河氏は、荒木村重の組下、池田恒興の組下になっていますが、

北摂一帯を支配し続けていましたし、

鎌倉、室町を生き抜いた武家ですから、

正妻かは不明ですが、信忠の妻となるには見劣りしないのではないでしょうか?



それと、信忠が主将となった武田攻めのとき、

高遠城に籠もる仁科盛信を攻めますが、

このとき、信忠は降伏の勧告を行っています。

盛信は松姫の実兄になりますので、信忠の心の奥底には、

見たこともない婚約者を慕う気持ちがあったのかも知れません。

また松姫も、武田家滅亡後は盛信たちの兄弟と共に、

信忠も弔ったようですので、互いに心に秘めたものがあったのでしょうね。







信長は、自分の子供であろうと、政治の道具としていた感じが強いです。

松姫との婚約も政治でしたから。

武田を滅ぼした後、他に強敵は毛利ぐらいしかなかったので、政略的に正室を迎える大名がなかったからではないでしょうか。



(-o-)/

徳川秀忠のドラマについて。

徳川秀忠のドラマについて。

今度の大河ドラマは「江~姫たちの戦国~」です。

江役を上野樹里さんがして、徳川秀忠を向井理さんです。

(だがな、私としては「葵 徳川三代」の

お江を岩下志麻さんと(ちょっと極道タイプの恐妻家)

徳川秀忠(徳川家康の子供で、お江に頭の上がらないボンボンタイプの愛妻家)の

方が見比べてしまうのですが)



ところで、質問です。

結構、大河ドラマやそのほかの時代劇ドラマでは、どの徳川秀忠が良いと思いますか?

①大河ドラマでは

「徳川家康」「独眼竜正宗」の、勝野洋。

「春日の局」の中村雅俊。

「琉球の風」の岸谷五郎。

「葵 徳川三代」の西田敏行。

「武蔵 MUSASHI」の中村獅童。

「功名が辻」の中村梅雀。

「天地人」の西川明教。

普通の時代劇だと

「大奥~第一章~」の渡辺いっけい。

「天下騒乱~徳川三代の陰謀」の山下真司。

その他の時代劇ドラマ

どれもいいキャラクターなので決められません。

②今度の徳川秀忠の役を向井理さんが演じます。

すいませんが、この前まで「ゲゲゲの女房」が始まるまで、

向井さんの演技を見たことがないので、詳しいことは知りませんでした。

(最近ドラマを見ていない、自分なのもので)

今度の向井さんの秀忠はどうなっていくと思いますか?

(今の旬な俳優ですし、かっこいいし、クールな俳優だと思いますが)

またどんなキャラクターとなるでしょうか?



今度の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」を楽しみにしています。







①『春日局』の中村雅俊です。

なんか大河では一番印象に残ってます。

子供だったのでストーリーはうろ覚えですが。



②原作を読みましたが、

間抜けぶってて、すごく冷めてて、江をからかって遊んでる感じなんですが、

実は…みたいないわゆるクールのふりしたツンデレキャラでした。

めちゃくちゃ少女漫画的なキャラになると思います。

きっと恋愛色は篤姫より強いかと。

向井さんはクールな役が多いのでピッタリかもですね。

任天堂wiiのソフト(アクション)を買いたいと思います wiiのソフトでおすすめ又は...

任天堂wiiのソフト(アクション)を買いたいと思います

wiiのソフトでおすすめ又はハマった、気に入ったアクションゲームを教えて下さい

ちなみに私が持っているアクション系ゲームは



●大乱闘スマッシュブラザーズX

●戦国BASARA2英雄外伝ダブルパック

●機動戦士ガンダムMS戦線0079

●ワンピースアンリミテッドクルーズ エピソード1 波に揺れる秘宝

●ワンピースアンリミテッドクルーズ エピソード2 目覚める勇者

●ワンピース アンミリテッドアドベンチャー

●ブリーチ バーサスクルセイド

●ブリーチ 白刃きらめく円舞曲

●ソニックと秘密のリング

●ソニックライダーズ シューティングスターストーリー

●大神

●アルゴスの戦士

●スーパーペーパーマリオ

●スーパーマリオギャラクシー

●ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス

●ソニック ワールドアドベンチャー

●ソニックと暗黒の騎士

●デッドライジング ゾンビのいけにえ

●ドラゴンボール 天下一大冒険

●ドラゴンボールZ スパーキングメテオ

●ナルト疾風伝 激闘忍者大戦EX3

●バイオハザード4

●パンチアウト

●メトロイドプライム1&2&3

●ワリオランドシェイク

●ヴァルハラナイツ エルダールサーガ

です







バイオハザードアンブレラクロニクルズか、来年のバイオハザードダークサイドクロニクルズ

いえば、ばいおはざーど








キャプテン★レインボーとかどうでしょうか?

金ヶ崎で信長、秀吉、家康が討死したら誰が天下人になりますか?

金ヶ崎で信長、秀吉、家康が討死したら誰が天下人になりますか?







順当に行って朝倉義景でしょう。



三人が越前で死ぬということは、朝倉軍がそのまま入京する可能性が強いです。となれば、武力を持たない幕府(つまり足利義昭)は再び朝倉義景の庇護下に入るわけで、浅井<朝倉の関係から天下人は義景になるでしょう。ここで三好三人衆が巻き返しを図ることは考えられますが、義昭自身が兄・義輝の仇である三好より朝倉を頼りにするはずです。



義景は傀儡管領に細川昭元を就け、自らは管領代に就任、長政は相伴衆あたりでしょうか?つまりかつての大内義興政権のようなものが出来上がるわけです。この時代、天下=幕府、天下人=幕府の最高権力者ですから、天下人は朝倉義景です。



※ちなみに朝廷は、信長が幕府権威の代わりに頼ったことで、その権威を回復させています。よって幕府が京に存在している限り、その力は無視しても構わない程度に小さいものでしょう。



ただ稀代の当主・信長&家康が滅んだとなれば、その遺領の争奪戦が始まります。



南近江は伊賀に潜伏していた六角の勢力が復活し、一部は浅井領となる。伊勢は北畠具教が茶筅(織田信雄)を殺し、復活。美濃は東西から浅井と武田の草刈場となり、尾張一国は奇妙丸(織田信忠)を跡継ぎに織田の遺臣が頑強に抵抗、三河も同じ。ただ遠江は武田に席巻される。



ま、概ねこのようなところでしょうか?後は朝倉義景が政権をどれほど維持出来るかです。



義景に課せられる命令は二つ。兄の仇である三好の討伐と織田家を滅ぼすこと。しかし、朝倉家の兵力では京の維持で手一杯であり、尾張へ向かうことは出来ないでしょう。北畠や六角も織田残党が自国内に存在するだろうから、兵を外へ向けるのは困難。すると、織田征伐は信玄に委ねることになります。ただ信玄の寿命は迫っており、恐らくは織田家滅亡一歩手前で寿命が来ると予測します。織田と徳川の家臣は優秀なのが多いので、あっさり負けることはないと思います。(信玄が死ねば、織田&徳川は一時的に巻き返す)



そして、この後ですが、家中での義景の横暴さを考えると、恐らく義昭と義景の対立が始まるはずです。つまり朝倉包囲網が密かに形成されます。信長の器量を以ってしてようやく包囲網は破れたわけで、義景程度では政権維持は不可能でしょう。また包囲網形成で織田の力を再び欲した義昭によって信忠は赦免され、信忠×松姫婚姻復活で武田と和睦、滅亡を免れるでしょう。(史実で三好を許した義昭なら、義景と敵対した今、信長亡き織田家を味方に引き入れても不思議はない)よって包囲網は着実に輪を狭め、信長討死から義景が政権維持できるのは、3~5年と予測します。その後は、一時的に三好となり、そして上杉か毛利の後、謙信が死ねば毛利独裁になるでしょう。流石に将軍から頼られれば、毛利元就の遺訓もあったものではないはずです。(事実、輝元自身に野心はある)尚、武田勝頼にも可能性があると思います。



よって最初の天下人に朝倉義景、その後は毛利輝元と考えます。但し天下統一の気配はまったく見られず、戦国時代がもう50~100年は続いたことになったのではないでしょうか?








武田信玄が一歩リードだと思います。

国力、人材ともに申し分ないですし。

西上作戦を開始して混乱する徳川、織田家を併呑し、天下に号令をかけると思います。

武田家は源氏の流れを汲む名門ですから、征夷大将軍に就任し武田幕府が開かれるかも。







南蛮諸国の属国になる可能性が高いです。



信玄あたりが義昭を担いで中央に力を持つかもしれませんが、それは三好長慶が幕府を牛耳ったくらいの事にしかならず、各地での戦乱は収まらず、本願寺は諸国に治外法権をつくり、とにかくバラバラな状態が続くでしょう。



3大英雄が揃って滅ばずとも、信長一人が滅びただけでこの状態になった筈です。もう少し後ならともかく、この時期の秀吉、家康に天下国家のビジョンはありません。



戦国時代は誰もが天下統一を志していた時代に思われがちですが、実際に国家の統一をイメージしていたのは織田信長一人です。

三好、今川、武田などは京都で幕府の実権を掌握しようとしたに過ぎません。

そのことと天下統一は違います。



信長が統一を急いだ理由の一つは、諸外国からの侵略を防ぐには強力な統一国家が必要と考えたからです。



よってその信長が金ヶ崎の段階で滅んだとすれば、国内に信長に継ぐ者がおらず、内乱の果て南蛮の属国になっていた可能性が高いのではないでしょうか。







北条が膨張していって

天下を取る気がします







一応台頭者を潰したので足利義昭=室町幕府の天下が長引くのでは無いかと思います。

それ以降は可能性がありすぎてなんともいえませんが、史実より分権的な社会が成立していたと思います。







実力№1は本願寺ではないでしょうか。日本を宗教国家に塗り替えたかもしれません。仏敵信長のいない状況でモチベーションが続いたか、いまいち自信はありませんが。







どう考えも、戦国時代がずぶずぶのままの状態で推移するとしかいえないな。

下手するとスペインやポルトガルの植民地になっていたかもしれない。







足利幕府再興が一番有力でしょうね。



まず、毛利と上杉は天下を目指さないどちらかといえば

幕府に要職を与えられたら気持ち的には十分でしょう。



島津の前には、毛利がいてるし。長宗我部は本州に対して

兵力が貧弱すぎる。

機内には、天下を狙えるほどの国力を持った大名が居ないし。



武田、北条はお互いに敵が多く、伊達は戦国の中では上洛は

無理でしょう。



もしかしたら・・・・蒲生氏郷か島左近







毛利・・・・力はあるが、年。島津・・・・遠い九州統一が精一杯。長宗我部・・・・水軍なら強いかも。伊達・・・・政宗若いし、ちょっと遠い。武田勝頼・・・・子、信勝が優秀らしいから、もしかしたら武田氏が強いかも、織田、徳川の領土丸々取って、上杉、北条と講和。上洛。敵は浅井、朝倉で。







天下を掌握する野望に燃える武将たちは他にも多数存在していた筈ですし、別の武将達が戦国時代の主役に躍り出るだけの事であると思いますよ。

全国的には多数ギラギラしている野望を抱き、しかも戦にも滅法強かった様な武将達が数名存在していた筈です。

伊達政宗とかにしてみれば、戦国時代の主役達よりも20才位年代的に若かった有力武将だったのですから「好機到来」と捉える事でしょう。







その時は足利義昭が室町幕府を再興します。

250枚!!豊臣秀吉についてお願いいたしますm(__)m まったく歴史について無知なの...

250枚!!豊臣秀吉についてお願いいたしますm(__)m



まったく歴史について無知なので教えてほしいです(>_<)



BAは回答が早い&適切だった人にします(^o^)/

~教えてほしいこと~

・豊臣秀吉が全国統一するまでを簡単に教えてください。

・社会の自由研究に使えそうなこと。

・どんな人だったか。(性格など)



あと、3人の武将とは誰でしょうか。

みなさんどうかお願いします。







本来この「天下」ということばは、古代中国に由来し、春秋末期に至り周王朝が衰えて国内が分裂状態に陥ったとき、新しい主権者による統一社会の実現の目標として創出された地理的・政治的・文化的観念であった。やがて「修身斉家、治国平天下」という形で儒教的政治理念――徳治主義――を形成することになり、この「天下」観念はわが国にも早くから伝えられ、すでに古代の詔勅や宣命(せんみょう)などにも「天下」の語が頻用されている。中世にも源頼朝(よりとも)が鎌倉開幕にあたって「天下草創」と称したことや、また足利尊氏(あしかがたかうじ)の室町開幕が「天下をも草創し給(たまひ)ける」といわれたことなどもよく知られており、このように日本の歴史において中央集権的な国家体制、あるいは新しい中央集権の樹立が指向されるときには、当然想起されるべき概念とさえなっていた。1565年(永禄8)5月、天下の支配者たる将軍の地位にあった足利義輝(よしてる)が松永久秀によって弑逆(しいぎゃく)され、それより約2年後の67年8月に織田信長が美濃(みの)国井ノ口城の斎藤龍興(たつおき)を逐(お)って、同城を岐阜城と改名し、同年11月ころより「天下布武」の印を始用するのも、天下雄飛の第一歩を踏み出そうとする意識の表れである。この「天下」意識は武家のみでなく、職人の世界においても現れ、16世紀中ごろより塗師(ぬし)の「天下一」、畳刺(たたみさ)しの「天下一」というように、第一人者、日本一というほどの意味で職人たちが「天下一」を号するのも、職能による実力主義の表れである。と同時にこの民衆の「天下」意識のなかには戦国100年の争乱に倦(う)み、秩序の安定と平和の希求があったであろう。








◆全国統一するまでは

織田信長に仕えて織田政権の中枢として、

信長が日本の中部地方を統一するのを支援した。

その後、秀吉は、

中国の毛利輝元、

東海の徳川家康、

北陸の上杉景勝

を家来にし、

四国の長宗我部元親、

九州の島津義久、

関東の北条氏政

を戦で倒して全国統一します。



農民出身で、トップにまでのぼりつめたのは

世界史上非常に稀なことでした。



戦の方針としては、兵力の損失を避けるため、

それまでだれも用いていなかった戦法を用いたこと

(例:鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めなど)

農民出身だったため、譜代の家臣を持たなかったので、

有力な武将は倒してしまうのではなく、降参させて

味方として使う戦術を採用していました。



※人間関係の基本は、相手のことを良く考えること

=>コラム(豊臣秀吉に学ぶ)

http://www.c-road.jp/6column/column01.html





◆社会の自由研究で使えそうなこととしては、

経済や文化面を研究してみることもできると思います。



例えば、秀吉は太閤検地を実施しますが、

検地以前、地主でもあり武装集団でもあった土豪は、

経済的、軍事的に村を支配していていましたが、

太閤検地により、一地一人耕作制が進み、

土地に対する権利が認められ、

土地所有の明確化が進み、

農民の勤労意欲が向上しました。



秀吉が実施した太閤検地によって、

日本全土の石高は18,578,110石

と算出されました。

これは、日本で初めてGNP(国民総生産)を計算したことで有名です。



また、文化面でも、安土・桃山時代は、

陶芸・茶の湯その他さまざまな面で華やかな時代です。

トップの秀吉が明るい性格だったので、

それが当時の日本文化に反映されたと考えられます。



秀吉の登場により、大名としての名声を保つことの条件として、

茶道を極めることも含まれていたわけで、

これは安土・桃山時代以前にはなかったことです。



◆3武将は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です



3武将の性格を表現する有名な川柳がありますが



織田信長(鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス)

豊臣秀吉(鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス)

徳川家康(鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス)







1 農民の出である これは秀吉のコンプレックス



2 信長の家来になって いろんな戦で活躍する 信長を逃がすため殿(しんがり)っていうかなり死にやすい囮になったこともある



3 奥さんは同じ織田家仲間の妹の ねね のちの高台院



4 戦の過程で蜂須賀党や有力になりそうな加藤清正、福島正則など小さい頃からかわいがったりする ねねが作った料理とか一緒に食べるレベル



5 信長が全国統一する計画の一部の役割として秀吉は中国地方の毛利家討伐をまかされる



6 信長が本能寺で明智光秀に殺される



7 たったの三日という信じられないような神速で四国から引き揚げて光秀を山崎の戦いでやぶる

中国地方から引き揚げるのを「中国大返し」

山崎の戦いで天王山をとったほうが勝ちだ的な状況になったことから 受験のとき夏は受験の天王山っていう



8 山崎の合戦の後、信長の後継者だれよってなったなかで、秀吉と柴田勝家っていうのが候補であがっていて賤ヶ岳の戦いで勝家をたおす



9 西の薩摩などの九州、東の北条氏をたをす 北条を攻めたのを小田原攻めというが 北条VS全国 にもっていって北条はどうしようもなく 北条側の会議がもうどうしよかぁってなって 会議で何にも決まらないことを 小田原評定 っていう



10 徳川家康がチャンスをうかがって小牧・長久手の戦いをしかけてきたけど、頭を使って停戦協定結んで家康を負かす



11 最後は武力じゃなく、政治力で天下統一、 自分は関白になって聚楽第っていうのつくり天皇を横につけて自分の偉さをアピール。全国に力を示した。



12 刀狩りやったり長さや枡の大きさを統一したり 文化的に天下を統一





秀吉という人物は日本史の中でもかなり描写の多い人物なので簡単に説明してもかなりの長さになってしまいます。

この人の性格としては人を使うことに長けていたということですね、今でもその知恵がビジネス書などにしょうかいされたりしてます。



有名すぎるエピソードの中で一夜で城を作ったり(いまでいうビルを1日で立てちゃったよくらいの衝撃でしょう)

冬に信長の草履を懐で暖めてたり

木を数えるのに一本一本数えるのではなく ひもをたくさん用意して、たとえば1000本なら手元に2本余ったら木の数は998本だみたいな

とても知恵が働いた人だったんでしょう。



天下統一後、秀吉は晩年、朝鮮に出兵をするのですが このせいで韓国などからはかなり嫌われている人物となっています。







・豊臣秀吉が全国統一するまで

→http://www.geocities.jp/yuutarou19800126/sengoku4.html 詳細が書かれていました☆



・どんな人だったか

→表面的にお調子者、実質は陰湿で根に持つ。陽気で洒落は好きだが、冗談は通じない。

情愛は細やかであるが、冷たく突き放す事もある。いろいろな事に興味を持ち、器用にこなす。

派手好き。あまり利づめで動かない。



・3人の武将

→織田信長・豊臣秀吉・徳川家康



正しいかどうかは、わかりませんが、ご参考までに。。。







織田信長の家来になり、頭を使った戦術(1夜で城を建てるなど)で戦に勝ち天下統一に至る。

性格はエンターテナー。話術で武将の戦意を崩す。

三武将、すなわち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康である。

伊達政宗って何が凄くて有名な人なのですか? ネットで検索しても「戦国一、頭が...

伊達政宗って何が凄くて有名な人なのですか?



ネットで検索しても「戦国一、頭が悪い大名」の内容しかヒットしません。

輝かしい戦歴は一つもありませんし。



伊達政宗の凄い所を教えてく

ださい。







彼が現在の人気に値する『大した人物』であることは間違いないと思います

彼の行動や思惑が当ったこともあれば、外れたこともあります

でも、東北に生まれて本気で天下を狙ったのは

長い歴史の中で後にも先にも彼1人です

それは何故でしょう?

東北人の真の敵は信長でも秀吉でも家康でもない

『冬将軍』だからです

遅い春を、短い夏を、駆け足でやって来る秋を

長くて厳しい冬を生き延びるために暮らします

そして迎える冬、

雪かき、雪下ろし、そしてまた下ろした雪の雪かき…、

東北に生きるものは毎年、敵と戦う前に冬と戦い我が身をすり減らします

寒さに身をすくめれば、自然と顔は下を向く

下を向けば反骨心は削がれ

中央の権威、権力に逆らえようはずもありません

アテルイの敗北以来、東北に住まう者はすっかり自信も自尊心も失ってしまいました



しかし、彼は違ったのです

婚姻関係も含めて内に篭りたがるこの地のシガラミを断ち切り

威風をもって領内の者を奮い立たせて権力者に堂々と渡り合い

隙あらば天下をと野心を燃やし

自らの存在を高らかにアピールしました



我々にとって異質でありながらもっとも求心力がある存在

精気が漲る彼に惹きつけられるのです

「今は耐えるので精一杯、けれど何時か見てろよ…。」

政宗の生き様に我が身を重ねる

それが東北人のガマン強さ、粘り強さに繋がっているのだと思います








ネットで検索しても「戦国一、頭が悪い大名」の内容しかヒットしません。???そちらの方が不思議ですね?

正宗の業績は文献も沢山ありますから、ネットで検索すれば色々出て来ますよ。







僕も伊達政宗が好きなわけじゃないんですけどこうやって伊達政宗を批判している人は

だいたい「僕歴史好きでなんでも知ってます・・」的な人が多いです。伊達政宗は関ヶ原の戦いで上杉景勝

や徳川家康と重大な駆け引きをしています。政宗を贔屓するわけじゃありませんが政宗を

馬鹿にしてる奴はもし自分が政宗だったらもう最上や南部ボコボコにされていると思いますよ

とゆうわけで政宗はすごいと思いますよ・・







実力に比して、過大評価が段違いで、評価されまくってるとこでしょうか?







戦国時代を生き残り「石高」が「外様」の中でNo3となりました。



1位 徳川家 400万石

2位 前田家 100万石

3位 島津家 80万石

4位 伊達家 60万石



このような好成績を残し、また行動が為に成るや

「片目」で見た目がユニークなど合わさり凄いとされています。



この成績で凄いと思えなければ

その人間の観察眼がおかしいです。







どの武将も だいたい、ご当地の観光の目玉に

なっており、そのてんでは伊達政宗も関係各県の

持ち上げ が相当あるので、それも あるのじゃ

ないでしょうか。

仙台には、伊達政宗 の素晴らしく立派な甲冑姿の

騎馬状態の銅像が、あります、去年の地震でも

壊れなかったそうで、あの像が、東北のヒトの

伊達政宗への崇拝を凝縮しているのではないかと

思います。ところで、東北といっても

伊達政宗の宿敵で伯父の最上義光の ご当地

山形県は、伊達政宗で、なしに

最上義光の素晴らしい甲冑姿の騎馬の銅像が

おったっています、そんなもんなんでしょうね。







まず 頭が悪かったは嘘です

立派な教養人であって その確かな記録も残ってます

頭が悪かった などと言うのは歴史に詳しくない方々が言うセリフですね 無視したほうがいいですよ

まず阿呆は周りに無能な者を置きます それは有能な者をおくと、自分の立場を危うくなると思い 遠ざけるためです(心理学で証明されてます)

上杉憲政などがそうでした 調べてみてください

それに比べて伊達家は片倉小十郎 伊達成実 鬼庭綱元 後藤信康など有能な武将が沢山います、これだけでも頭が悪かった訳ではないと分かります



戦歴については 初陣で相馬に勝利し、父輝宗の代に奪われた土地を一度に取り返しました

人取橋の戦いで佐竹、相馬、畠山、芦名連合軍に1/10の兵で挑み(それしか用意できなかった) 最後まで粘り 遠国である佐竹を撃退させ 佐竹の援軍としてやってきた芦名 相馬の大義名分をなくし撃退させ最後に畠山に攻め込み勝利するなど 采配にも長けてました

時代は変わりますが大阪冬の陣 あの真田幸村と唯一対等に戦ったのが伊達軍でした



仙台藩の政治についても 北条家の政治を見習い 石高は一時100万(当時としてはもの凄いですよ)を越えたと言われます



まぁ確かに 美化されすぎな所もありますが けして阿呆ではなく 有能な武将であったことは間違いありません







確か若い時分20代前半で奥州一の大大名になったというのが凄い戦歴だと思います。



石高で言えば一時だけど100万石をはるかに超えてたんじゃなかったですかね、200万国ぐらいだったかな?



あの今川義元でも織田と闘う時にやっと100万石前後だったと思いますのでそれはそれで大したもんだと思います。



政宗以前植宗時代には鎌倉時代からの名家であり、積極的な政略結婚を推進したことも重なって、それなりに奥州の盟主的存在だったようですが植宗・晴宗時代のいざこざで相当国力を疲弊してた間に蘆名氏が台頭し、その背後には佐竹氏がいましたので非常に厳しい状況にありました。



そんな中を大石氏や畠山氏、蘆名氏等々次々と破って20代前半で奥州の覇者と言われていたのは凄いと思います。



まあそれと仙台市の整備等を考えるに行政能力も大したもんだと思います。



あと普通にやってれば100万石をゆうに超えていただろうに色々と欲にかられてあわよくば天下をなんて考えていたので領地拡大を許されませんでしたが泰平の世になって開き直って国力増強を図り、裏石高で100万石を達成していたところはさすがだと思いますよ。



まあ私もあんまり詳しくないんですがこういったところでしょうか?







伊達政宗のすごいところは、「世渡りがうまかった」です。

僕も以前はアンチ伊達政宗でしたが、後からだんだんと好きになってきました。

仙台をあれだけの町に発展させて、外様ながらも幕府から改易にされることなく守り抜いた処世術、これですかね。

あと、ビジュアル的なセンスの良さですかね。あの甲冑は戦国一伊達です。







伊達政宗の実績は全然大したことはありません。

後に仙台が発展したことで持ち上げられたに過ぎないのです。



凄いところと言えば、何もしていないのに有名になったことくらいでしょうか。







能や茶道等を嗜んでおり、千利休にお点前が武士らしく堂々としていてすばらしいと褒められたことがあります。







これ、いちおう質問は「伊達政宗はなぜ有名なのか?(実績に比べて)」という質問でしょう?

ならば、伊達政宗の悪口をいくら書いても解答にならないと思いますけど。

伊達政宗がどうしてメジャーか。仙台伊達家が大領主として幕末まで続いたからです。戦国大名の価値は「輝かしい戦歴」なんかにはありません。いくら途中で得点稼いでも最後にゼロになったら、大名としては失格です。戦歴なんかカスです。

どんな手を使っても家を残す、それが戦国大名の評価ポイントです。その意味で、伊達政宗ほど凄い戦国大名はいません。「あれだけの戦歴」なのに「あれだけの領地」を守ったのですから。







結局は地方区の戦国大名で凄いところ何もありません。逆に言えば周りに大した強敵も居なかったと言うべきですね。強いて言えば幕末まで生き延びた戦国大名の一つですが、薩摩の島津氏に較べても知名度は遥かに格下です。

戦国一の戦上手は誰だと思いますか? 戦術、戦略とありますが、それぞれ凄いと思う...

戦国一の戦上手は誰だと思いますか?

戦術、戦略とありますが、それぞれ凄いと思う人物をお上げください。

やはり武田信玄か上杉謙信あたりは鉄板でしょうか?







単純に戦上手ですよね?

天下うんぬんでなく

弱兵を率いても勝てる如水でしょう。信玄、謙信、家康それから島津…は確かに強いですが、率いている武将が凄いし、兵が強いですから。信長も弱兵を率いてた点は似てますが、やっぱり負け戦も多いです。農民を率いても勝っちゃい、逆に清正のような強い武将使っても勝っちゃう如水でしょう。








最終的に目的を達した徳川家康、その家康を一ひねりにした武田信玄などが鉄板と思いますが、



私はあえて、島津義弘を推します(笑)



関が原では1000名とか300名とかいわれる手勢で参戦、敵陣中央を突破しての退却をしました。

更に薩摩は、西軍にも関わらず領地を失っていません。







戦の目的を達成した徳川家康となりますかね



他の人に無い

見据えることやバランス感覚や運や手段を選ぶ器量など兼ね備えていたのでしょう

家康の描くビジョンがより現実に実を結ぶものだったこともあるでしょうね



周りとの関係や人間バランス抜きで

戦だけで見ますとその狂気も含め織田信長は戦乱と混沌の時代の象徴と言える存在と思います

戦国の世であるからこそ生まれた申し子というか戦国の世と切り離して考えられない



それと言われる通り武田・上杉は鉄板だと思われます

皆、甲乙つけがたいのでそれぞれの好みになりますかね



最終目的を成しえた徳川家康で







上杉謙信だと思います。



武田信玄と北条氏康を同時に戦っていたし、織田信長を手取川で打ち破って弱いと言っていたからです







真田親子です、関ヶ原の戦でも、秀忠の進軍を遅らせたという、実績は素晴らしいことです。残念ながら三成が破れて、流人にされますが、もし、生きていれば、大阪夏の陣でもとても面白い展開になっていたことでしょう。しかし、息子の幸村も素晴らしい才能ですね、あとすこしで家康の首までとれたのにと思うと、残念です。真田丸の設計もとても素晴らしいことです。大阪城の弱点をこれにより、強点に変換していますし。







織田信長を推す。理由は単純に最大勢力になったからです。目先の勝利だけではなく政治的、戦略的判断に優れていたから出来たのです。

補足 豊臣秀吉、徳川家康の偉業は認めますが、それも織田信長の築いた勢力を引き継いだけの話です。天下布武の旗の元、戦国時代の日本統一を誰よりも早く目指し、当時の征位大将軍の足利氏を追放し、朝廷との関係を築き、経済を奨励し新兵器の火縄銃の大量生産を可能にし戦国時代の戦術を一変させ、一向一揆集に情け容赦ない弾圧により政教分離を進めた信長の優れている政治力、戦略眼がなければ、戦国時代の終焉はなかったと思います。

戦術的にも桶狭間の戦いで戦術的不利を覆し、幾度かある敗戦にも生き残り最大版図を築いたのですから、自分の中では信長です。







そりゃ徳川家康ですよ。

いちばん達者だったから、最後に勝ちを得たってことですし。







戦術

長槍・火縄銃の大量運用と相撲の奨励、方面軍団制、関所廃止の新鋭機軸・織田信長。



戦略

個人の采配で大敗が少ないといった点では豊臣秀吉を推してみます。

(領土拡張どころか外交・朝廷工作・合戦で全国を統一しています。)

戦国時代で一番の勝ち組は誰ですか?

戦国時代で一番の勝ち組は誰ですか?

回答待ってます



日本の戦国時代でお願いします







天下をとった家康ですーーーーー。








江戸の住民。



田舎が都会になったのだから。







公家ですね。



戦国の世が終わり、幕府の庇護を受けることが出来るようになりました。



伝統的な行事は主に公家によって為されていましたが、それも平和があってこそです。







商人・町民だと思います。







面白い質問です。

でも勝ち組?単純に考えたら、徳川だけどそんな答えを求めているわけではなさそうなので・・・ためしに色々あげてみましょう。



まず細川家・・・元々幕臣だつたのに信長に乗り換えて、対幕府・朝廷要員として重用。「本能寺の変」では親しい明智につかず(ガラシャ夫人は光秀の娘。おまけに光秀に息子はいないので後継者にもなれる)、基本的に日和見なのにそう思われずに、うまく秀吉の部下になる。関が原では徳川につきついに熊本の領主として大大名となる。

次は黒田官兵衛(これでいいはずだけどパソコンでは一発ででない)元は播州で割拠する小名の家老職。それが信長の先見性を見抜いて、自ら部下同然になる。もっとも依然として元の君主は生きているので二股?本人は元の君主もまた信長の部下になるものと思っていたのでそうとは感じていなかった。だが見捨てられたと感じた君主は播州蜂起でカンベエと袂をわかつ。おかげでカンベエは地下牢にとじこめられ、片足を悪くし半分はげにもなってしまう。これがこの名軍師、最大の失敗。そして本能寺の変では秀吉の尻を叩いて天下を取らせたといわれる。ただあまり報われなかったが、それは秀吉に警戒されたため。のちに関が原がおきた時、なんと九州の片隅わずか10万石程度の小藩、おまけに主力は徳川方の味方として出兵・・・そんな中で兵をあげ、九州の豊臣方をあつとい馬に平らげ、最後に残った薩摩攻略の直前に関が原の勝利の報がとどく。ある意味不運。

もつとも逸話に秀吉が「わしが死んだら誰が天下をとる?」の質問に居並ぶ大名達が色々名をあげるが「違うよ。このちんばさ」と指名された男である、このくらいはあたりまえか。このあと福岡で大大名になるが、秀吉が警戒するくらいである、当然家康も警戒<関が原で大阪方の裏切り工作をした息子の名前であたえられる。晩年は子どもを集めて遊び暮らしたといわれるので、ある意味人生の達人でもあったでしょう。

島津家・・・島津に馬鹿殿なしといわれるほど、よい君主に恵まれた藩です。ただ、その勃興期に秀吉とぶつかったのが、身の不運。大敗後、元の領地に押し込められたわけですが、もし信長ならもつと酷いことになつたとおもわれます。そういう意味では幸運。さらに関が原で三成の拙劣な指揮に起こった島津は戦わず、三成方の敗北が決まってから動きます。なんと徳川の陣の前を横切り脱出にかかったのです。「関が原の退き口」といつて薩摩の伝説になつた壮絶な脱出劇のはじまりでした。その時の兵は2000弱。帰り着いた時は100をきりました、だが総大将は生き延びたのです。この勇猛な行動のおかげで島津はついに領土を削られること無く、大大名として残りました。また九州征服時に増えた家臣のせいできわめて貧しい藩になりましたが・・・

沖縄を征服・中国との密貿易で巨万の隠し財産をきずきます。これが後の倒幕の原資となるわけですが、勝ち組というには微妙?

前田家・・・犬千代さんですね。秀吉の友人であつたため、柴田の与力であつても厚遇され、秀吉の引きでドンドン領地が増え、楽して出世したタイプ。本来なら、その引き立ての反対給付として、家康と敵対しなければならない時にあっさり死亡。利家が死んだら義理立てはすんだと一気に徳川に膝を屈します。もつとも、100万石です。なかなか徳川の監視も厳しいと、徳川時代を通じ文化に力をいれます。町を歩くと謡がきこえるという加賀文化が花ひらくことになります。勝ち組。



ついつい徳川時代までいれてしまうので、質問にもどり「戦国時代っていつからいつまでだ?」

1473-1573だいたいこのあたり。応仁の乱から、信長が足利将軍を追い出し天下統一に乗り出すまで・・・・えぇぇぇーっ!

信長が生きてる!!!ひつかけ問題か?



ならば答えは 織田信長 この人が一番。

もし宗教組織をいれていいなら 浄土真宗本願寺

・・・なかなか大変な問題でした。







これで家康っていったら、あんまりですよね。



土佐二十四万石を貰った山内一豊にしておきます。







豊臣秀吉。戦国時代じゃなかったら成り上がてないでしょうかね。家康が天下取った、安土桃山時代だから戦国時代ではないような。







徳川家でしょ?



きっとこんな答えでは、いけないんでしょうね。



質問の趣旨が図りかねます。

天下一戦国LOVERSについて質問です。 DSが発売になりますが、対象年齢は何歳...

天下一戦国LOVERSについて質問です。

DSが発売になりますが、対象年齢は何歳からでしょうか??








対象年齢は17歳以上です。

ちなみに、CEROはD。

本能寺の変について皆さんは黒幕は誰だと思いますか?

本能寺の変について皆さんは黒幕は誰だと思いますか?

明智光秀が謀反をおこしたのは明白ですが誰が後ろで操っていたのか?



1.羽柴秀吉(私は今でもこいつだと感じています。)

2.徳川家康

3.朝廷

4.明智光秀単独説(謀反をおこし、目的を達成した後の行動が光秀にしては楽観的すぎるような気がする。)

5.その他



理由等も教えて下さい。







その後の光秀の行動からして、4の単独説でしょう。次は3の朝廷黒幕説でしょうか。直前に朝廷は信長に対し「いかなる官にも任ぜよう」と事実上、政権を選択させる使者を送っていますが、信長は鼻で笑ったと言われています。『時の政権の正当性は天皇によって担保される。』昔からの日本の国体の仕組みであり、天皇家が世界で唯一万世一系統で残っている最大の秘密です。(権力争いから超越した存在になることにより誰も手を出さなくなりました。~すごい知恵と言われています。)現在も選挙によって選ばれた与党の党首が国会で内閣総理大臣に指名され組閣した後、皇居にて天皇から認証されることにより政権の正当性が担保されています。平安時代から現在まで変わっていません。信長は唯一侵してはならない日本のルールを侵そうとしました。光秀がこれを聞いて、決意した可能性もあります。

質問者には申し訳ないですが、1はまずないです。秀吉自身が中国大返しを振り返って子飼いの武将達の前で、はっきりそう言っていますから。「あの時ばかりは、援軍に来るはずの光秀が謀叛を起こし、信長様もやって来ないと知って、毛利の大軍が目の前に迫って来ているのに自分は一体どうなるのかと、ただ狼狽するばかりで頭の中は真っ白になり我を見失っていた。その時、官兵衛が軍扇で我が肩を叩き「殿しっかりなさりませ、天下取りの運が廻って来ましたぞ」と諫言され、我に帰りその気になった」と。

補足について:大きな勘違いをしておられるようですが、勝てる戰で信長を安土から引っ張り出すために援軍を要請したのではなく、当時毛利は3か国差し出して降伏を申し出ており、秀吉はこれを信長に報告しただけです。(高松城の救援のために毛利本隊が出陣してきた事と)なぜならば、秀吉は前線の一司令官にすぎません。国同士の交渉(すなわち外交)は戦国時代の当時も国同士で行っていました。だから、信長に報告したのです。勝手にけりを着けたら信長の性格からして、それこそ軍例違反で秀吉は信長に一族皆殺しにされます。~現在でも重罪で、国によっては銃殺刑も十分あり得ます。(信長はかつての信長包囲網の中心であり、石山本願寺を10年間救援し続けた毛利を許す気はなく、光秀に出陣を命じ、毛利と決着を着けるべき、自らも出陣しようとしたのです。)








光秀は切れ物です秀吉に匹敵かそれ以上の人物だったと言われており、その切れ者の光秀が信長を打ち取った後の事は支離滅裂感があります。行き当たりばったりの感じですこれはかなり考えずらく、研究者も首を傾げてるようです

周到な光秀がこんな行き当たりばったりをやるのは確かにおかしいと感じます、これは言われている公家などからそそのかされてってのなら、前々からなんらかの工作をしてるはずです、秀吉陰謀説も秀吉に利用されてるってのを光秀が見抜けないはずなくこれも考えずらいのでは



結局なぜ何でしょうか?







黒幕はいません。



①事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物がどのようにして光秀と接触したのか説明がない。②実行時期の見通しと、機密漏洩防止の対策への説明がない。

③光秀が謀反に同意しても、重臣をどう説得力したのか説明がない。

④黒幕が事件の前も後も光秀の謀反を具体的に支援していないのはなぜか説明がない。

⑤裏付ける史料がない。



以上5つが黒幕肯定論者の穴です。誰もこの5つを説明できないのです。



おわかりですか?



光秀の単独犯行だということが。







4、単独犯。



光秀は、本能寺の変の後、細川と筒井に手紙を出しています。



考えて見てください、当時でも謀反は大罪なんですよ、だから寝返らせた大名を、お前は利で簡単に寝返るので信用出来ないと殺す事だって有るでしょ。

あの戦国時代でもこれは非情に意味嫌われる行為だったのです、これを肯定すると、さすがに誰を信用すればよいのかとなりますからね、何も出来なくなってしまうでしょ。



その、細川と筒井を見方にするのが光秀の一番最初にしなければいけない必須事項です、あなたならどうしますか?



自分なら、理由を書いて自分の利だけでした行為ではない、誰々も合意の上の行動だから安心して合力して欲しいって書くでしょ、下手したら嘘を書いてでもこの二人を見方にしないと畿内を抑えれないんだから、この二人が味方していれば秀吉には絶対負けませんよ、秀吉も山崎で性急に戦をしなかったでしょうが、もししたら負けていたと秀吉本人が筒井に言ってるんだから。

でも、実際に誠実な人だよね光秀は、かねてからの遺恨これありって、それじゃ細川も謀反人光秀にほいほいついていけないよね。

朝廷でも家康でも秀吉でも、実際何も書いていないし、黒幕がいたとしたら、あまりにも不細工すぎるでしょその黒幕が。







1に一票です。



おおざっぱに言うと直後に一番得したヤツ…なので。









朝廷。信長が既成の概念全てを否定し、新しい世の中を作ろうとしたから。元号まで口出しされ改変されては、もはや権威もなにもあったもんじゃない。







僕は光秀単独だと思います。



面白く極端に考えたら、家康の接待=殺す。



お前が家康を殺せと信長に命じられいたのではないかと。。。。

でも、光秀はその素振りも見せず、もたもたとして普通に接待をしているので

しびれを切らした信長が怒りだし万座の席で叱責され、お役御免。

その上、領地を召し上げられ切り取り御免と言う無茶を言われる。

そして秀吉の手伝いに行かされる。



恥をかき、屈辱を味あわされて過去の事も併せて

『俺には俺のやり方があるのに!くそーーーーー信長!殺してやる!』と

思ったのではないか。



光秀の軍の兵士が残している日記に『家康を殺すのだと思って従軍していた』と

言う物があります。

そして、直前に信長を討つと言うのを聞かされたようです。

何も知らされず進軍している一兵士が、勝手に『家康を殺すんだ』と

思いこんでいたと言う事は、元々家康を殺す計画があったから混乱なく

進軍できたのではないかと。



怒り心頭の光秀は、咄嗟に家康暗殺計画を利用できる今なら、もし信長に進軍を

知られても怪しまれず本能寺近くまで行けると思い、『自分の領地、家臣を守るには

今しかない』と謀反を起こした。

だから、決行後の対応がグダグダになる。



なーーーんて妄想はどうでしょうか。



まあ、『信長嫌い』と言い合う事はあっても、光秀を操って謀反を起こさせ信長を

殺させるなんて推理小説みたいな事は冷静に考えて催眠術でも使わない限り

無理でしょうから理由はどうあれ単独行動でしょう。



陰謀説を説いている研究家も、陰謀があったと言う前提で考えれば色々

黒幕は浮かぶが、陰謀だけを信じた偏った見方だと言ってますしね。



『時は今、あめが下しる、五月かな』も連歌の専門家からしたら

強引な解釈らしいですし。







5その他、です。

明智光秀は謀反決行の直前、家臣たちに聴いています。

予定どおり西へ進撃するか反転して東へ進撃するか、と。

東へ進撃する案を家臣の大多数が賛成したから

謀反は決行できたのです。

家臣の大半が西へ行こうと言ったら謀反は起きていませんでした。

もっとも光秀は決議の強制は、しなかったので

謀反に従わなかった武者もいました。(可児才蔵など)

これは非常に多くのサムライたちが信長はイヤだと思っていて

明智の謀反に賛同したことを意味しています、そういう勢いの

下からの突き上げに乗って明智光秀は、その大きな流れを

指揮して織田信長を討ったことになります。

だから、それを何に例えるかは、軍隊を味方にして

軍の中枢層の大多数の参加を確立して体制を

転覆させるクーデターのようなものだと思います。



明智光秀のような武将単独で謀反の指揮を

家臣らに有無を言わさず強要させるには

光秀はカリスマが足りなかった気はします。

チェニジアで起ったアラブ諸国の反独裁運動の多発が

タイミングよく好例でしょう。

ムバラク大統領というのは、終身大統領を

しようとしておりサダト大統領が暗殺されて以来

ずっとエジプトの首領をやっています、

このような独裁者の体制は

軍部の支持を得てでないと

とても革命とか体制転覆は無理であり

織田信長は日本史上、屈指の独裁者です。

明智光秀は、クーデターを家臣たちに提示して

家臣らに支持されたので体制転覆が可能でした。







5、当時の日本社会です。単独では黒幕にもなれません。たくさんの自称黒幕はいるでしょうがね。







こんにちは。



この問題も謎が多いですよね。

個人的には1か2と思います。

4は彼の性格からして(想像ですが)、一人で出来る事とは思えません。

誰かが操ったとしか考えられません。



なので、少し面白い説として、信長の自作自演説というのも。

信長が光秀に本能寺を攻撃させたというもの。

信長は、バーンアウト症候群に陥り、何もかもやる気を失った。

蘭丸に首を切らせたと言っているが、死体が見つかってないから死んでないのではないかというもの。



これも滑稽ですね。







補足を受けて



援軍は光秀だけではありません。

信長公記「惟任日向守、長岡与一郎、池川勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。」





野望説、(一瞬のチャンスに賭けた)が最も欠点が少ないです。



黒幕説には証拠が無く、また、準備期間や伝達時間から考えて、作家の想像の域をでれませんね。

「領地を取り上げられて、毛利領の出雲・石見を切り取る」「母を見殺しにされた」「家康の饗応で叱責」などの恨み説も創作。信長は「光秀を見習え」と広言してましたし、また、光秀の地位は、近代の「近衛第2師団長」というべき地位でした。身内や側近並みの信頼度です。

また、信長公記によれば、先に出発するも、信長の指揮下で、高山右近や中川瀬兵衛たちと共に、秀吉を助けに行くことになってましたから、これも名誉なことです。(同年の武田攻めよりもデラックスな出陣)

革新対保守による対立説も、バブル期の作家の革新的信長像をうのみにした説であり、史実とは思われません。

また、光秀が、変後「何もできてない」というのも間違いで、わずか10日余りで多くの事をなしえています。



※電話も郵便局も無い、連絡だけでも時間のかかる時代の10日余りは、現代の1日か2日でしょう。



変後、短時日で、光秀は近江と若狭の国人衆の大部分を味方に引き込んでいます。蒲生や山岡の例外を除いて。(つまり、主殺しという汚名は、さほどマイナスにならなかった、という事。光秀は柴田・徳川など東側の勢力に対抗する準備に取りかかっていた。)

さらに、筒井もいったんは、光秀に従って、河内に軍の一部を侵攻させています。後に、秀吉の接近を知って裏切りましたが。(秀吉が早く帰ってこなければ、光秀側でいたという事。)

細川は、例外的に中立となりましたが、積極的に敵対したわけではありません。

光秀自身が、「50~100日で近国を制覇する」と豪語してますが、もっと早いペースで、畿内を制覇しつつありました。

秀吉が早く帰って来なければ、内部分裂していた四国遠征軍も撃破され、摂津の国人衆も吸収して、相当な大軍に成長していたでしょう。

(一級史料天正記によれば、最大寄騎の宇喜多を残した大返しの実態は、半ば成功・半ば失敗の中返しでした。山崎に間に合ったのは1万人余りでした。秀吉は、現代の大阪府にいた摂津衆と四国遠征軍残党を吸収して、それを主力として、山崎の戦いで勝ちました。特に、摂津衆1万の吸収が戦いの帰趨を定めました。秀吉は「信長様は生きている」というデマによって、彼らが光秀側や中立に陥る事を防ぎました。信長の死体が見つかっていなかったので、結果的にこのデマはホームランになりました。万が一、信長が生きていれば、光秀側に勝利はあり得ませんからね。)



秀吉は、自身の家来は少なく、信長の家来を借りた状態でした。ですから、信長の急死は、軍の解体の危機でした。史実では奇跡的な手腕で、譜代という中核を持たない、特殊な戦国大名として自立できたのですが、これは、誰にも予想できなかったでしょう。これも満塁ホームラン。普通なら、滝川軍のように解体するはずでした。

柴田は前田など有力寄騎を北陸に残していて、全軍を率いる事ができませんでしたから、近江国内で足止めされていたでしょう。そのうちに、膨張した光秀軍に襲われます。

徳川が光秀と戦うとしても、近江を抜けるのに手間取っているうちに、膨張した光秀軍に対抗できなくなって、引き上げるしかなくなるでしょう。



このように、秀吉の大逆転ホームラン2連打が無ければ、光秀が勝ち残る可能性は十分にありますから、本能寺の変は、単なる下克上なのでしょう。

なお、ホームランを打つことを前提とした作戦などあり得ませんから、秀吉黒幕説は間違いでしょう。一揆に襲われかけた家康も黒幕のはずは無いです。



※四国の政策についての、親三好派(秀吉)と親長宗我部派(光秀)の対立説は、一面の真理を含むと思われます。が、あくまで、一因でしょう。



※山崎まで二日間では無い。







みなさんがおっしゃっているように、信長は殺されても仕方ない(殺しは良くないです)と思われるくらい我が儘放題でした。

誰が黒幕でも有り得るというのは、逆に明智を利用すれば誰にでも出来たことですから容疑者多数のため、しかも、信長が殺されても仕方ないと思われてる以上、みんな黒幕なんて誰でもいいってことになってしまうんですよね。こんなにやりやすい犯罪はないのでは?

言ってみれば一種の黙殺とも言えるのではないでしょうか。

私個人的には当時としては驚異的なスピードで明智を退治できた秀吉が一番怪しいですね。

たった2日で300km近くも大群を率いて移動するなんて当時では神隠しくらいしか出来ませんよ。







本能寺の変はたくさんの説があります。黒幕説はその一説に過ぎません。簡単に説を紹介すると、信長から天下を奪わんとする野望説。数多くの仕打ち(丹波における母親の処刑(正確には波多野家の人質にさせられ磔に)、自身の領地の没収、安土城に徳川家康を招いた際の接待役を解任される、武田を滅ぼした戦勝祝いの席で、「これでわしらも骨を折った甲斐があった!」との発言で、信長に「お前ごときが何をした!」と蹴り飛ばされる。光秀は髪が薄かった為金柑頭とよく罵られた)などを受けて謀叛を起こした怨恨説。

加えて四国討伐回避説、発作説、信長の野望阻止説、徳川討伐と土岐明智家滅亡の危機回避説などがあります。

それと黒幕説は羽柴秀吉や徳川家康など誰をとっても、あっても状況証拠に留まるので都市伝説並みの信憑性だと言われ然程有力視されていません。

私は怨恨説が一番有力なのかなと思います。何故ならもし私が光秀の立場なら信長から受ける仕打ちはとても耐え難いものだと思います。

乱世の習いとは言え、光秀も人間です。実の母親を磔にされ、まだ領地を治めてもいない山陰地方(石見、出雲)を切り取り次第と言って今ある領地を没収されたり理不尽なことをされ続ければ主君に対して叛意を抱いても不思議ではありませんし、謀叛を起こす動機としては十分だと思います。

後、本能寺の変には直接は関係してませんが、光秀は熱心に仏教を信仰していた為、残虐非道と言われた比叡山焼き討ち事件も、事件から時が経ってますが、変を決起させた一因とも言われています。

本能寺の変は数多くの謎があり解明されてないことがたくさんあります。なのでどの説を信じるかは個人の自由だと思いますが。



余談ですが、黒幕説の一つの逸話で光秀が山崎の合戦後に家康に匿われて、それが後の天海大僧正こと南光坊天海だとする説があります。これもかなり信憑性に欠けますが。







4だな。

信長を裏切ったのは光秀だけじゃない。浅井長政や松永久秀 荒木村重など。彼らに黒幕がいたんでしょうかね?

明智勢は長浜城も攻めてなかったい?秀吉が黒幕ならそんなことするかい?それなら家康の方がよほど怪しい。嫡男信康の件で動機は強烈だし武田攻めの後や安土接待で信長が光秀を打擲した現場に家康もいたわけで信長憎しの動機をお互い共有できる。また本能寺の変で穴山信君を同行し彼は脱出の際変死してる。しかも穴山領や甲斐信濃は都合よく家康領になっている。畿内から領国に帰った家康なのに信長の敵討ちに兵をすんなり出していない。また謀反人明智の重臣斉藤利三の娘春日を嫡孫家光の乳母にしてるなどなど。

直江兼続について教えてください

直江兼続について教えてください







超簡単に書くと・・・。

上杉謙信の跡継ぎ、景勝に仕え、上杉家を支える。

関ヶ原の役では、家康にけんかを売る。

東北で奮戦した。

敗れて、上杉家の領土が大幅に減らされたあとも、領国経営に尽力する。



もう少し詳しく書くと・・・。

上杉謙信の一族、長尾政景の家臣・樋口兼豊の子として生まれる。

幼いころから聡明で、政景の妻に見込まれ、政景の跡継ぎ、景勝(当時の名は顕景)の小姓に。

景勝が謙信の養子になり、兼続の才覚も謙信に見込まれ、景勝とともに英才教育を受ける。

謙信の死後の跡継ぎ争いでは、景勝を支え、勝利。

その後も景勝を支え続け、いろいろなピンチもあったが乗り切り、戦国を生き残る。

そして上杉は豊臣秀吉の家臣に。

秀吉曰く、「天下の仕置きを任せることができるのは、小早川隆景と直江兼続と堀直政のみ」。

関ヶ原の役では西軍につき、家康に喧嘩を売る。(このことで家康は天下取りの機会を得ることができた)

そして、敵方の最上義光を攻める。

でも、関ヶ原の戦いでは味方が一日で破れ上杉は家康に降伏。

そして上杉は大幅に領土を減らされたが、兼続はいろいろ頑張って領国経営に尽力。

至急!!!江戸時代の外交政策について

至急!!!江戸時代の外交政策について

江戸時代の幕府の外交政策はどの様に変化していったのか

教えてください!



できたら最初はこうだったけど最後らへんは

こうなったみたいな書き方でお願いします!!







toeuryantheさん の仰る通り量が膨大なので・・・、



まず戦国時代にまで戻ります。

教科書の通り鉄砲とキリスト教が伝わりますがそれ以

外にも異人(特に宣教師)達がもたらしたものは沢山ありました。

大まかなところで医術、造船術、鉱山技術などといったものです。

そしてこれを餌に有力者(戦国大名)たちの入信を図りました。

当時としては新技術の伝来、寺社仏閣の武力台頭もあって

キリスト教は歓迎されましたが秀吉以降、世の中が安定するに

従って政権への恭順低下の恐れと信者獲得による宣教師たち

の専横によってキリスト教の弾圧が始まったのは教科書で説明

されています。



さて、天下は秀吉から家康に移ります。当時の日本において

戦国大名(と、その身近にいる人)ほど諸外国に精通した人間

はいません。もたらされる新知識はライバルに差をつけたい統治

者にこそ最も有益であるしそれをもたらす宣教師たちも現地の有

力者の庇護を得るからこそ活動できるのですから。ここに目をつ

けたのが家康でした。キリスト教は邪魔だが新しい技術はほしい。

しかも他の人間の手には渡らず、自分のものだけに・・・。

そのために生まれた政策が『鎖国』でした。



いわゆる徳川幕府の鎖国とは外国との関係を一切断つものでは

なく諸外国よりもたらされる新知識を独占するために諸藩に外国

との関係を持つことを禁止するものだったのです。



時が流れて幕末、いかに対外貿易の利益を独占していようと所

詮、狭い玄関で行っている以上世界の時事からは乗り遅れます。

まして当時の世界は新天地を求めて諸外国が進出しそれを裏打

ちするだけの技術も確立されていました。当然、そんなことも知りま

せん。(って、言うか理解できなかったでしょう。)ある日、突然、異

国の船がやってきて『俺たちと手を結べ』と言ってきたからさぁ、大変。

現実と理想のはざまに立たされた幕府と世界のせの字も知らない

朝廷・攘夷志士、現実を理解するわずかな識者たちの動乱の幕末

期にはいります。ここら辺の時期は最早一つの研究テーマ並みの容

量になるので漫画『風雲児たち 幕末編』を読んでもらうのが一番

早いです。正直、ここで説明するには膨大ですから。



かいつまんで言うと鎖国を守りたい幕府だが開きすぎた技術力を目の

当たりにして開国を行いその上で政権維持を図りたいのに対して

『神州日本』という古き体質に固執するが実力面では幕府にかなわ

ないため暗躍する朝廷、そして最早従来の徳川政権下ではうだつの

上がらない所を朝廷にあおられて捲土重来を夢見る侍たちとまったく

新しい日本の形を模索する人間たちのドロドロの暗闘劇になります。








260年ですので・・・・・



最後の20年だけでも大仕事ですよ。

真田幸村、上杉謙信、伊達正宗。 あなたが最も評価する武将は誰ですか?

真田幸村、上杉謙信、伊達正宗。



あなたが最も評価する武将は誰ですか?







真田信繁(幸村)は、自分勝手すぎる。



関ヶ原後、自分と父が助命されたのをどう思っているのか?

兄が、その助命嘆願でどれだけ苦労し、その結果徳川で身の狭い思いをさせたと思っていないのか?



この頃はもう徳川将軍は秀忠に譲られていますが、関が原遅参の原因を自分と父が演出しており、そのせいで現将軍から信之がどう思われているか考えれば、豊臣の呼ばれるままに大阪に行くなんて出来ませんよ普通。

兄は、ことのほか家康の覚え目出度いので、父の上田の領地まで戦後貰っておりますが、家康亡き後秀忠はすかさず信之に川中島への国替えを命じている事でも、秀忠がどう思っていたか直ぐに分かります。

大阪の陣での活躍は、活躍すればする程、兄・真田を窮地に追い込むのです、兄は病気を理由に子供達を参陣させていますが、戦中に信繁とその子供達が通じていると家康や秀忠に訴え出たものもあったようですからね。

いくら兄弟とはいえ、このような最低限の仁義もきれない人間だから、後世にまで名を残そうと華々しく活躍したのに、今現在に至っても徳川幕府に遠慮して勝手につくられた幸村などと、本人でも誰だそいつはと言う名前で呼ばれるんですよ。





伊達政宗、東北一の大名にまで版図を広げましたが、秀吉によって野望を打ち砕かれました、永年の苦労も父から譲られた当初の所領の大きさになってしまいました。

秀吉政権では、九州の佐々の例に倣って一揆をおこさせ、蒲生を失脚に追い込み、自分が領地を任されることを期待しています。でも、これ秀吉にばればれ。



家康政権では、関ヶ原の際に又こそこそ動きます、直江と不可侵の約束を密かに結び、南部領に一揆を勃発させ自分の領地にしようと画策、東軍勝利を聞くや上杉領にも攻撃を仕掛けます。

姑息以外の何者でもないですが、このような姑息の動きでさえも他の大名はもうする者はいなかったのです、黒田如水を除いては。

その点では、天下の野望の火が消えるギリギリまで、自分の家の保身を考えつつ、良くやったほうではないでしょうか。

しかし、大阪に陣後は伊達家存続の為にはなりふりかまわないようになり、とうとう将軍家光の時代には、ぷりぷり腰を振って擦り寄る老犬と化していたのは残念です。





上杉謙信、戦国時代の価値観では典型的なキチガイです。

戦国時代は、一坪でも多くの領地を手に入れるために、戦争をした時代なんです。

このキチガイが戦争をさせれば、やたら強いんだからしゃれになりません、これには北条も武田もほとほと困ったようです。

関東管領職になってからは、何度も関東に出陣していますが、何も自分の領土にしなくとも、代官を置くぐらいでも大分違ったと思うんですけどね、冬になって越後に戻るとオセロのように北条にひっくりかされるんですから、これを何度も繰り返すのは少し寒い気がしますが、このような潔癖さがあるからこそ信頼もされるのでしょう。



戦国時代ほど、この信頼と言う言葉の軽い時代はなかったと思うのです、それを考えたときに人と人のつながりに絶対欠かせないものを大切にした人ですからね、天下人になった家康でも必要であれば平気で嘘をついたし裏切りもしています、そのような時代だからこそ、このような上杉謙信を一番に評価します。








好き嫌いは別にして、私は織田信長のように発想の転換力(常識に捕らわれない考え力)のある人物を高く評価していますので。



この3人なら伊達政宗です。



徳川の天下取り後、約60万石しかない土地を、武力ではなく知恵を使い100万石にした(100万石になったときには政宗は亡くなっていますが)。







chokoice2010さん ヨーロッパに使節を、送ったり、>>>>これは家康の外交方針によるものです!!!政宗はそれに従っただけ!!!へタレ(笑)。。。。。

文武に長けている武将でと思います。>>>>>文はおいといて、武に長けていないだろう!!!!!!過大評価!!!!!!!!!!!



最も評価する武将は、超人的英雄の偉大なる織田信長公!!最も過大評価されている武将は、ミスター過大評価・伊達政宗(笑)!!!!!







僕は、伊達政宗です。

まあ、もともと人気のある戦国武将ですが、

若い頃は、天下への、野望に燃え、

ヨーロッパに使節を、送ったり、

天下に旗を掲げる夢が潰えたら、平和の世界を望み

米作りに目を傾け、実現できなかった、100万石を、

死後数十年で実現したりと

文武に長けている武将でと思います。







この中だったら、上杉謙信。この中以外なら、豊臣秀吉







普通に上杉謙信でしょう。







上杉謙信。

悪いですが、他の2人とはレベルが違いすぎます。







武将としてなら上杉謙信

大名なら伊達政宗。









この中では上杉謙信ですね。

格が違います。



伊達「政」宗だよ。







やっぱり上杉謙信です